氷姫メルティーナの失せ物
麗らかな春の庭とライラックの香りを楽しんでいられたのは、スルリ、と髪から簪が抜け落ちるそのときまでだった。
綺麗に結い上げられていた銀髪が、ふわり、と広がり落ちる。
軽くなった頭に振り返ったころにはもう、後ろに付いていた侍女が膝を折っていて、私の髪を飾っていた簪を拾い上げていた。
「すぐに、御髪をお直しいたします」
そう言って侍女は近くのベンチを示した。私はそこに腰を下ろす。
目の前にしゃがみ込んだ侍女は、好きなものをお選びください、と髪飾りをいくつか取り出した。その中に、いま落とした簪はない。
仕方なく見せられた中から一つを選ぶと、彼女は完璧に髪を仕上げてくれた。鏡もないのに、大したものだ。
でも、私の気分は晴れずにいる。
お気に入りの簪だった。雪の結晶の水晶細工と銀の鎖に括られた小さな鈴が付いていて、歩くとしゃらしゃら音が鳴る。
でも、きっともう、二度と私の元へ戻ってこないだろう。
私が落とした物・失くした物が戻ってきたことは、物心ついてからというもの、一度たりとなかったのだから。
カーレル国の〝氷姫〟。それが私、王女メルティーナの評判だった。青みがかった銀の髪、青の瞳に白い肌、そして冷たい印象を与える顔に由来するらしい。殊に顔立ちについては、自分で言うのもどうかとは思うけれども、〝女神も羨むほどの美しさ〟なんて言われている。もしかしたら、感情を表に出すことが苦手なことも、〝氷姫〟の名の由来となっているかもしれない。
けれど、その評判は、私にとっては負担でしかない。
確かにみんな、私のことを愛してくれる。熱狂的に、と頭に付くくらい。
でも、その愛がわたしの持ち物を奪うことにつながるのなら――そんなものはいらない、と思ってしまうのだった。
案の定、侍女はあの落とした簪を返してはくれなかった。壊れていましたので、なんて。あまりに見え透いた嘘。きっともう、自分のものにしてしまったに違いない。いつもの展開にため息が溢れてしまう。
これはなにも、彼女に限った話ではない。
何故かは解らないのだが、みんな私のものを自分のものにして、傍に置きたがる。それは、私が身に着けていた装飾品、衣服に切れ端、使用した櫛や化粧品に限らなくて、抜け毛にまで至っていた。
手口もまた、いろいろだ。施しを請われたり、落とし物をくすねられたりするのはまだ良いほう。最近は、偶然や事故に見せかけてわざとものを落とされ、回収されてしまうようにもなってきた。
もはや執念や執着とも言えるそれに、私はずっと晒され続けて、今となってはもう諦めている。
それらすべてが国費から捻出されているものだと思うと、あまりに申し訳なく思うのだけれども。
「返してほしい」と言えば良い、と思うだろうが、残念ながらそれもまたあまりに難しい事だった。昔、あまりに悔しくて告げ口したら、私の持ち物を奪った侍女は処刑されてしまったのだ。みんな、必要以上に罪を盛って。処刑のあとには褒めてくれと言わんばかり。
――私はただ、返してくれればそれで良かったのに。
これからはじまる晩餐のために、ドレスを着替える。お風呂に入って、下着を付けて。その間、侍女たちからずっと注がれる熱視線。これだけでももう、身支度はすべて人任せの王女の立場に嫌気が差してしまう。でも、一人ではできないから、私は大人しくみんなの着せ替え人形になる。侍女たちはみんな、〝氷姫〟を好きなように着飾れるからとご満悦だ。
「素敵なドレスね」
と、王妃であるお母様は、晩餐の席で私を見てそう褒めてくれた。お父様もまた頷いた。誰もが熱狂的に私を崇める中で、両親だけはまともに接してくれる。私もまた、両親だけには心を許すことができていた。
「でも、その青いドレスなら、このまえ一緒に選んだ雪の簪がきっと似合っていたのに」
まさに今日、失くしてしまった物を話題出されて、気持ちがまた沈んでしまう。
「申し訳ございません。あれは昼間、壊してしまったのです」
そう頭を下げると、両親は事情を察してくれた。残念ね、とだけお母様が言い、静まりきった中でみんな食事を口にする。
国を治める王と、その妃。だけど、二人とも私の〝失くし物〟を止めることはできなかった。盗人の処罰の件は、臣下たちがみんな一様に口を出す。全員に賛成されてしまっては、王でも決定を覆せない。
結局私は、必要以上に国民たちが殺されることがないように、口を閉ざすしかなかった。
そして、物に執着することを諦めた。
――それが、また一つ問題を生むことになるとは、このときは夢にも思わなかった。
私には、兄弟がいない。けれど王女は王になれないから、婿を取ることが決まっていた。お相手は、隣国の第二王子。名はガイウスというらしい。彼のお母様がこの国と縁があり、それで婚約者に決定したのだ。
この国の者では駄目だった。誰も彼もが、私に異常な愛情を向けてくる。その愛ばかりが先を行き、私の話すら聴いてくれないような者が王になってしまったら、この国は混乱しかねない。
それを心配して、お父様が探し出してくれたのだけれど。
婚約が決まり、初めての顔合わせ。お近づきの証に、とガイウス王子が差し出したのは、一対のイヤリング。暗がりでも眩しいほどの、大粒の青いダイヤモンドでできた、とても魅力的な品だった。
それだけに、困ってしまう。これだけ素敵な品を失くしてしまったらと思うと――
「どうやらお気に召さなかったようだ」
と、降り注いだ冷ややかな声に、血の気が引いた。どうやら、戸惑ってどうしようかと悩んでいたのを悪く受け止められてしまったらしい。
そんなことはございません、と慌てて応えるけれども、日頃からあまり顔に感情が出ない所為で、婚約者には嘘だと思われてしまった。気遣いは不要だ、とさらに冷たく切り捨てられる。
異国では、私の〝氷姫〟の二つ名は、この国とは違った意味合いで広まっているようだ。なんでも『どんな高価なものも飽いたら捨ててしまい、その癖自分の物を粗末に扱う臣下は処刑する冷血の我儘王女』にされているとか。そちらの噂を聞いているのだとしたら、彼が婚約に失望してしまうのも無理からぬことなのかもしれない。
けれど、感情を表に出すのが苦手な私だって、傷つかないわけではない。
その次の日に行われたガイウス王子歓迎の舞踏会。私はとても憂鬱な気分で夜を迎えた。
二つの巨大なシャンデリアが照らす大広間に、楽団の音楽が鳴り響く。ガイウス王子のエスコートを受けてきらびやかなホールへと入場した。このときの衣装は、銀色の刺繍がされた深い青色のバッスルドレス。銀の髪は結い上げられて、耳には王子から贈られた青いダイヤの耳飾りをしていた。
私が入場した瞬間に、会場は異様な熱気とざわめきに包まれる。みんなが私に注目する。主賓の王子には目もくれない。
――まるで、魅了の魔法に掛けられているようだ。
ガイウス王子が不服を漏らす。主賓の自分が無視されていることが気に入らないようだ。こちらが失礼であるのは明らかなので、私はあまりに申し訳なく、そして居た堪れなくなった。けれど、謝罪することもまたできない。嫌味に受け取られるだろうことくらい私にも分かる。
はじまるパーティ。誰も聴いていない、王の挨拶。そして、ファーストダンス。
私は、愛想笑いすら放棄したガイウス王子に手を引かれ、大広間の中央へと連れられた。
「一応、私に義理立てしてくださったようですね」
ダンスの最中、彼はそう皮肉げに囁いた。悪評のお陰だろうか、その辛辣な言葉は、国民たちと違って私の美貌とやらに惑わされていない証拠ではあるのだけれども。
「そのダイヤも捨てられぬことを祈りますよ」
言い訳も許されずに投げかけられた冷たい言葉に、傷付くことには変わりない。
ファーストダンスが終わると、義務は果たした、とばかりにガイウス王子はそそくさと立ち去ってしまった。
私は謝る機会をすっかり失ってしまって、意気消沈してしまった。嫌がられるのも構わず追いかけて謝罪するべきか。そう考えている間に、この国の貴族令息たちから、次から次にダンスを申し込まれてしまう。追いかける暇どころか、断る暇もない。そして、彼らの異様な気迫に、私は拒絶を訴える言葉すら封じられてしまった。
一人、また一人。老いも若きも、彼らはみな寒気のするような瞳で私の美しさを讃え、愛の囁きのような言葉を吐きだした。握られた手は、堪能するかのように指でさすられて。抱かれた腰は、力強く引き寄せられて。表情は恐怖に凍りつくのだけれども、〝氷姫〟の二つ名が災いして、誰も私の本音に気付かない。
足がもつれるほど踊った頃。ふと、片耳が軽くなったことに気がついた。触れてみれば、あの青いダイヤの耳飾りがなくなっている。もしやと思い、今しがた踊っていた相手を振り返れば、その手に青い輝きがあるのが目に入った。
慌てて、その青年の後を追う。
人波を掻き分けて、追い付いたのはバルコニーに出た後だった。違う。彼がそこで私を待ち構えていた。
「返していただけませんか」
とにかくイヤリングを取り戻さなければ。私は必死に彼に迫った。彼の表情に歓喜の色が宿り、彼の思惑に乗ってしまったことに気付いてぞっとしたが、イヤリングの重要性を考えると、気後れしているわけにもいかなかった。
「何故、婚約などされたのですか」
と、きらびやかな照明と円舞曲を背にした私に、青年はねっとりとした声で問いかける。暗がりの中でも、彼の視線が異様な熱を帯びているのが判った。
実は、ダンスの間にも色んな男たちに同じようなことを尋ねられた。その度に私は「陛下のご意向です」と返した。自らの意志ではないのだと、そう言いなさい、と父が答えを用意してくれた。結婚に関する責任のすべてを背負おうとしてくれたのだ。
でも、それは悪い方面にも効力を発揮した。本当は自分と結ばれたかったのに、別の男と結婚せざるを得なくなった。そんな悲恋物語を、みな自分の中で作り上げていた。
私は、彼らよりもガイウス王子と結婚できるほうが良いというのに。
「そんなことよりも耳飾りを返してください」
結婚に不満はないのだ、と。貴方のことよりもイヤリングのほうが重要なのだ、と。そう言葉を重ねても、青年は全く聞く耳を持たない。どうして異国の男を迎え入れるのか。どうして私のものになってくれないのか。そればかりを繰り返し、私への愛を熱弁する。
彼とは、会話すらしたことがないというのに。
まるで、恋人に裏切られた哀れな男を演じているような。己に酔っているとしか思えない青年に、鳥肌が立った。逃げ出したくて仕方がないのを、歯を食いしばって耐える。
「お願いです。イヤリングを返してください」
あのイヤリングは、ガイウス王子との婚約の証であると同時に、国と国の結びつきを証明するものでもあった。失せ物ばかりする私だが、こればかりは不用意に失くすわけにはいかない。民をまた一人断頭台の前に立たせることになっても、取り返さなければならないものなのだ。
「いいえ。これは私にいただきたく思います」
だけど、彼は頑なに、イヤリングを返すことを拒絶した。青い石を漏れ出る舞踏会の光に掲げ、うっとりと見上げる。
――これが、単なる物欲であれば良いのに。
貴女の代わりに大事にします、なんてよく知らない人に言われて、嫌悪感が湧き起こらないはずがない。
「数年前の件はご存知でしょう」
処刑されるぞ、と脅してみたが、青年は、構わない、と答えた。あなたの一部でも手に入るなら、この首だって差し上げます、と。
よろり、と身体を揺らしながら青年が迫る。正気を失っているとしか思えない、異様な光を宿す青年の瞳に、私の足は我慢できず後ろに下がってしまった。
背が、城の壁にぶつかる。顔の横に、彼の手が突き立てられた。
口付けまでもう少し、というところまで近付けられた顔。自分の姿が映りこんだ彼の瞳は淀んでいて。
「美しい方。どうか私にあなたの一部を分け与えてくださいませんか。もしあなたが私のものになるのなら、この首でも、心臓だって差し上げます」
その台詞は、愛の告白というよりも狂信にしか思えなくて。彼の私への執着心に、背筋が凍りいてしまうほどに戦慄した。
そして、彼の顔がさらに迫って――
――気づけば、私は王宮内の廊下に一人居た。自分でもどうやって逃げたのか、よく覚えていない。ただ、身のうちにはまだ恐怖感と嫌悪感がまだ残っている。
滑稽なほどに手が震えている。
握りしめた拳をそっと開くと、そこには大粒の青い輝きが残っていた。