ロストボーイ
「実は、好きな人が出来たんだ」
そうか。
「うん。だから中野くん、悪いけど別れてくれない?自分勝手なのは分かってる」
いいよ。元々僕と三嶋さんとは釣り合ってないと思ってたんだ。
「ホント?ありがと。でも中野くんにはもっといい子がいると思うよ」
そんなお世辞、言わなくていいよ。
× × ×
「何を言わなくていいって?」
唐突に横から話しかけられ、夢から目が覚める。
「おはよ」
横を見ると、一人の女の子が放課後の教室の机に突っ伏していた僕の顔を覗き込んでいる。
青みがかったショートヘアーの黒髪に、蒼く濡れた瞳と淡い赤に染まる唇。透明感のある白い肌に高身長でスレンダーな体躯。
いつ見ても綺麗な女の子だと思う。
三嶋さんは僕の彼女だ。
僕の方から告白して、付き合うことが出来た。
「なんでここに居るの?」
「タオルを忘れちゃって。そっちこそこんな時間までよく寝てたものだね」
「ほっといてくれ。寝不足なんだよ」
「中野くんは部活行かなくていいの?」
「今日はオフだから。そっちこそ部活に戻らなくていいの?」
「大丈夫。少しくらいなら」
そうやって彼女は僕に微笑みかける。
無邪気で誰にでも平等に向けられる彼女の笑顔を見ると、胸が締め付けられる。
そんな彼女に惚れて告白したくせに。
「何を落ち込んでるの?」
感の鋭い彼女は、いじけた僕を見て意地悪な表情をする。
「私がキスして慰めてあげよっか」
そう言って僕の隣の机に腰掛ける。
「私とキスしたら、中野くんは元気になる?」
そんな無邪気な顔をして僕をからかうのはやめてくれ。
息が苦しくなる。
屈託のない笑顔を向ける彼女に、僕はひきつった笑顔を返す。
そんな僕を見て、三嶋さんは堪えきれずに吹き出した。
「ぷっ、なにそれ。変な顔」
三嶋さんは誰にでも変わらない顔で笑いかける。
その笑顔を見るたびに、僕は彼女の美しさに見とれ、同時に彼氏という他人との特異性の無意味さに絶望する。
「三嶋さんって、なんで俺なんかと付き合ってるの?」
ちょっとした意地悪で聞いてみた。
「なんでって…そっちが付き合ってくれって告白してきたからだし、それと…」
彼女はそこで言葉を切ると、赤らんだ頬をごまかすようにキスをしてきた。
「それと、私もかっこいいと思ってたから…中野くんのこと」
唇を離した彼女は、あちらを向きながら言った。
サラサラの髪の隙間からわずかに見える耳は真っ赤になっていた。
感情の昂りを抑えきれなくなって、僕は彼女を机の上に押し倒す。
首の辺りで切りそろえられた髪が机に落ち、蒼く濡れた瞳は戸惑いと不安に揺れている。
頬を赤く染めながらも、震えるその唇を何とか動かして彼女は語りかける。
「ねえ、今日は部活もあるし、キスだけで許して?それから先は、また今度…ね?」
その声色や汗、息遣いから彼女がかなり切羽詰まっているのがわかる。
あまり我の強くない性格上、もう押し倒しているこの状況ならこれからする行為を彼女は断ることが出来ないだろう。
というか最初からそのつもりで押し倒した。
しかし不安で歪む彼女の表情が、強く結ばれる唇が、きつく寄せられる眉が、迷いや不安、これから起こるであろうこと全てから目を背けようと閉じられる瞳が、僕を踏みとどまらせた。
彼女の笑顔に惚れたはずなのに、その笑顔に嫉妬して。
その笑顔をわざわざ崩したくせに、その笑顔を失いたくなくて、いま後悔している。
結局、僕は彼女のどこが好きなのだろう。
体の奥から体内を逆流して喉元まで来たそんな迷いは、さっきから口内に溜まり続けている唾液と一緒に飲み込んだ。
僕は静かに彼女へキスをした。
そのディープでも首へでもない普通のキスに、それらを覚悟していた彼女は、驚いて目を丸くしていた。
机に強く拘束していた彼女の左手を離し、馬乗りになっていた僕の上半身をどける。
「ごめん。調子に乗った。部活、行っていいよ…」
「うん…」
そのままそそくさと荷物をまとめて制服を整えると、教室を出ていく。
僕は、彼女に嫌われただろうか。
このまま振られて疎遠になっていくだろうか。
だがどうしても、あのとき僕は彼女を抱きしめたかった。キスをしたかった。あの体を愛したかった。
自分でも整理出来ていない感情を、彼女に押し付けてしまった。
それじゃ嫌われても仕方がないだろう。
初恋は叶わないものだとはよく言ったものだと思う。
初めての感情で心をいっぱいに満たすくせに、その対処法すらまともに教えない。
例にもれず僕の初恋はとても淡く、脆かった。
すると、廊下からテンポの早い足音が聞こえてくる。
誰か来たようだ。僕もそろそろ帰ろう。
そう思って鞄を持ち上げると、同時にその人物が教室のドアを開く。
まるであまり考えず勢いに任せて強引に開けたような感じだ。
その瞬間、僕は目を丸くした。
さっき教室を出て部活に行ったはずの彼女が、そこにいた。
「えっと、中野くんが迷惑じゃなかったら、今日一緒に帰らない…?」
僕は状況が理解できず、そのままほうけていた。
「それと…ああいうことは、また今度、ね…」
顔を赤くして足元を見つめながらもごもごと彼女は言う。
「じゃあ、部活終わるまで校門で待ってて。嫌だったら、帰っていいから…」
それだけ言って、来た時よりも早いテンポで彼女は走り去っていった。
そういえば、僕の初恋は保育園の先生だったっけ。
× × ×
こうやって一人で校門の前にいると、とても自分が惨めに感じてくる。
唐突に心の中に湧き出た帰宅衝動に駆られながら、一人体育座りで待っていると、部活を終えた彼女がやってくる。
「待っててくれたんだ」
待っててくれと言ったのは君のほうじゃないか。
僕が彼女のほうに向き直る。
そうすると彼女は、僕に微笑みかけながら言った。
「じゃあ、帰ろっか」
「…うん」
彼女の無邪気な笑みに、僕も少し素直に微笑み返すことができた。
さてあとがきですが、この物語は最初、体だけの関係の男女が自分たちは本当に相手のことが好きなのかを悩む「肉欲と愛とは」みたいな割とドロドロした話を思い描いていたのですが、三嶋さんを書いているうちにだんだん彼女でエロを書くことが出来なくなって、結果こんな甘酸っぱい感じになってしまいました。
いつか三嶋さんメインの短編も書きたいですね。
性を交えた男女の精神的な話っていうのは何度も書きたくなってきます。
改めて、ここまで読んでいただき読んでいただきありがとうございました。
また次の作品もよろしくお願いいたします。