駆け抜けるビクトリーロード - 15
夜は巡って朝となり、一日が始まる。
昨日に引き続き、上空には少し灰色くて色の薄い都会の青空が広がっていた。
過ごしやすい快晴に恵まれて、今日も人々はそれぞれの一日を開始している。
「では諸君、乾杯!」
「かんぱーい!」
「か、かんぱいです!」
影はよっつ、あがった声はみっつ。
事務所にとって小さいながらも歴史的な一戦を終えた日の翌日、勝利が確定した知らせを受けたカーラ達は、瓦礫の山と化した元ビルの上に円形に座って、ささやかな祝勝会を開いていた。強制的に青空教室となってしまう現状、晴れの日を祝うのには申し分のない空模様である。
といっても、周りも下も砕けたコンクリートと折れてはみ出た鉄骨しかなく、円陣の中央に敷かれているのは元が何だったのかも不明な布切れで、肴は皿に盛られたピーナッツだけ、各自が手にしているのは水の入ったコップやマグカップという有様であった。
皿の端の欠けている箇所を見ながら、カーラがいかにも情けないといった声で嘆く。
「寂しいなあオイ、せっかく勝ったってのに水とピーナツだけかよ……」
「頑張ってみたんですけど、潜った隙間から取り出せそうなのがこれしかなかったんですよう」
「ま、いいんだけどさ。あー……あれケチっとかないでさっさと食っとけば良かったな」
埋もれた色々を惜しみながらもそれほど悲壮感はないカーラの横には、ちゃっかり死神通信の号外がある。精も根も尽き果ててへばっていた朝、見覚えのあるカラスに勝手に押しかけられて置いていかれたものだ。
その辺りの記憶は疲れ切っていて定かではないのだが、何やら得意気に西園寺がポーズを決めていた事だけは、全く覚えておく必要も覚えておきたくもないというのに覚えている。
しかしカーラも無関心を装いつつうっかり号外を読破してしまった為、あまり調子に乗るんじゃないと西園寺を責める気にはなれなかった。
何もかもが埋まってしまったし、たぶん壊れてしまった。
今後人間の業者による解体と撤去作業が進めば、幾らかは回収できる物が見付かるとしても、あの事務所がそのままの形で戻ってくる事はないだろう。だって建物がないのだから。
下の方からは、相変わらず人の声が聞こえ続けている。
多少時間が経ったので野次馬は減りつつあるが、中継に来ているテレビカメラなども見られ、映されないと分かっていても少年は時折もじもじと落ち着かなそうにしていた。中には、このビルの関係者と思わしき雰囲気の者達も見受けられる。
「絶対あいつらの中にここ使ってた奴も混じってるよな……保険とか入ってんのかな……」
「命あっての物種という。動く心臓と足があれば、人は前に進めるのだよ」
「いい話っぽくしてんなよ、人生設計破壊されたのあんたのせいだろあんたの。所詮は人間の事情っちゃそうなんだけどさ」
気にかけてはいるカーラとて、ビルを借りていた人間達と言葉を交わした事などなければ、ろくに顔を知っている訳でもない。せいぜい、下のフロアを使っている連中がいるな程度である。
春に毎日見ていたツバメの巣が、そろそろ巣立つかなと思っていたら壊されてなくなっていた。嘆き悲しむという程まではいかなくても、どうにも気の毒な事になったなあと眉を顰めるくらいはする。
強く生きてもらいたいもんだ、とカーラは思った。死んだら誰かが迎えに行くだろうから。
「……問題なのはさ、奴らだけじゃなくてうちらもだよ。勝ったはいいけど、これからどうすんだろ。事務所はアホがぶっ壊しちまったし、まさかこのまま取り潰……」
「では、ウィルヘルムくんの事務所を頂くとするかね。勝者の権利として!」
「――そっ、そんな権利あんの!? マジで!? ねえ所長!!」
「ない」
「ないんかい!」
「ないのか! では貰えないな!」
「あんたも知らないで適当に言ったのかよ!」
円陣に加わっていないくせにこの時だけ答えてきた真神と豪快に笑う西園寺に、カーラは交互に叫び返した。つくづく、まともに相手をしていると疲労感ばかりが溜まる。自分の味方が誰もいないような気がしてくる。
まあまあと少年が茶碗に入れて差し出してきた水で、カーラは涸れた喉を潤した。
「ビルひとつとはいかないが、事務所については新しく貰おう」
「貰おうったって、今の場所でさえ間借りさせてもらってたのに素直に調達してくれるもんかね……」
「貰えるさ、我々は公式に正式に勝者となったのだ。その領土内のナンバーワンが家なき子では面目が立たん。負けた事務所はそれより下という認識を広めかねんしな。そして今回の敗者はういろうヘルメットくんの所だ、尚更このまま放置という事にはならないだろう。新月の一族とやらが、そうさせない。
よって、我々は勝利と同時に新事務所も手に出来るという寸法だ!」
「あ……あんたってばまさか、そうなる事まで見越して事務所を壊したんじゃ……!」
「あれは真神くんを引きずり出す為だが」
「だよね!! ちょっと感動しかけて損した!!」
まともに相手をしては駄目だと思ったそばから、懲りないカーラであった。
ばりばりと爪で体を掻き毟っているカーラに笑いかけると、西園寺は少年に向けて水差しを差し出す。少年は自分の仕草に気恥ずかしそうにしながら、両手で盃のように差し出したマグカップでそれを受けた。
「上に行けば仕事も増える、新しく人員も増やさなければ」
「新しい人ですか、仲良くできるといいなあ……」
「そうなれば君も先輩だ。これからは指導する側としての心構えも身につけていくといい」
「せ、先輩!?」
少年が素っ頓狂な声をあげてマグカップを取り落とした。声の大きさに、カーラの体がびくっと跳ねかける。転がったカップと零れた中身にも構わず、少年は見開いた目で一点を見つめて呆然としている。
「ボクが先輩……」
「……? おーいもしもーし、大丈夫かサトイモ坊主ー?」
「お、おうっ、カレーパン買ってこいや!」
「!!?」
「とか言わないといけないんですよね!?
ふええ、そんな事言うくらいならボク自分で買ってきますよう!」
「落ち着け、別に言わなくていいから」
「はっはっは……ん、待て。誰か来たようだぞ」
西園寺が促した方向を一同が見れば、大きく翼を広げたカラスが降りてくるところだった。誰なのか分かったカーラが、あっ、と短く叫んで動かなくなる。
カラスは一度、二度と音もなく羽ばたいて円陣の近くに降りると、小さく片方の翼を広げてみせてから頭を下げた。
「どうも、お祝い中のところお邪魔しますよ」
「……あ、どうも……」
きょとんとしている少年、そもそも何を考えているのかが謎な西園寺と違い、カーラには相手が誰だか分かっているようであった。
それは他ならない、領土内のもうひとつの事務所務めの者である。この穏やかそうな物腰のカラスは、目立たないがそれなりの古株だった筈だ。今回の査定においてはウィルヘルムの事務所が最大の敵だったが、マイナスに落とし込んだのはここも同じだった。
カーラにしても、面識があるだけで親しい訳ではない。ウィルヘルムの事務所とは管轄が比較にならないほど狭い事もあって、仕事中に鉢合わせる機会も少なく、会ったとしても目配せして別れる程度の、要は知人未満の相手である。
しかし、向こうが狩るべき魂を全部戻して負かしてしまったのは事実だったので、こうして直に顔合わせをするのは気まずいといえば気まずい。ウィルヘルムとは違って因縁が無いぶん恨みもなく、むしろ割りを食っていたという意味では被害者同士である。挨拶はしたもののその後の対応に困っているカーラの横から、西園寺が快活に声をかけた。
「やあどうも、名も知らぬ死神のようなカラス君!
私の名は西園寺死ん太郎デス彦(26)ニックネーム『ゼロ』、此度の査定の勝者だ!」
「おまっ……!」
「はっはは、これはどうも。万年二位事務所で死神をやっておりますスミと申します」
西園寺の暴走に動揺する事もなく、スミと名乗ったカラスは笑って挨拶を返した。
すげえ、とカーラは内心密かに感心する。
「まあ、一位と三位は今回入れ替わりましたけれどもね。
うちの位置は変わりませんが、あそこに勝ったのは初めてですよ」
と、カラスにしては実に器用に片目を瞑る。
戻された魂が多い程マイナスも大きくなる訳で、元々数が少なかったここは自動的に二位になっていたのだった。
スミが右の翼を掲げると、淡く金色に光る輪から、丁寧に包装された化粧箱が湧き出てきた。
「宜しければ、これを。なあに遠慮はいりません、新月の所に勝利祝いとして届けるよう用意しておいたものですから。
いまこんな物を持っていっても激怒されるだけでしょうからね。なら、実際に勝ったこちらに」
「はあ……え? それだけの為に来てくれたんですか? お祝い届けに?」
「ええ、そうですよ。じゃ、仕事がありますんでこれで。
久しぶりに面白いものを見た気分です。こんな事もあるんですなあ」
最後にまた笑って、スミは飛び去っていった。
後に残されたカーラは、暫くぼうっと飛んでいった先を眺めていた。
機会がなかったという事もあるが、初めて他の事務所の者とまともに会話をした気がする。
徐々に、それがむず痒くなってくる。ここは紛うことなき最底辺の事務所だったが、必ずしも敵ばかりではないし、親しくはしてくれなくても見下げてくる者ばかりではないと分かった。それが、何とも言えず居心地が悪いような。
しかし、この先もこうとは限らないだろう。周り全てが味方になる事は考え辛くても、逆は容易に想像できる。
「……忙しくなりそうだね、これから」
「だが、悪くはないだろう?」
「そうかな……そうだね」
否定するかと思いきや、納得したようにカーラは頷いた。
頷いた対象は、きっと自分自身の心であろう。
「あんたの事だ、どうせこれっきりで終わりなんて考えちゃいないんだろ?」
「勿論だとも。やるからには頂点まで辿り着くのが私の存在意義といえる!」
「は、これからも戦いは続くってか? かといって今回と同じ手は二度と使えないだろうしねー。そこどうするのさ、イレギュラー君」
「別の手を考える」
「駄目だったら?」
「別の手を考える」
「それも駄目だったら?」
「また別の」
「分かった分かった。……ああ、分かってる。もういい」
カーラはくくっと笑って、湿気ったピーナッツを嘴で摘むと空中に放り投げ、ぱくりと飲み込んだ。
当ては無い、根拠もない。それどころか仕事場すら今はない。
それでも、この男なら何とかしてしまうのだろう。
そう思い込ませ、信じ込ませてしまうだけのものを、カーラは既に得ていた。
化粧箱の蓋を開けた少年が、わあっ、と感動に顔を輝かせる。
ひと目でそれと分かるくらいの品だったらしく、続けて覗き込んだカーラもたちまち浮かれ出した。あの事務所のあの男に贈るのなら食品であろうから、このチョイスは極めて納得のいくものであった。
わいのわいのと騒いでいるカーラ達の間からそのひとつを掴むと、西園寺は水の入ったコップを手に、ひとり外れた場所に座っていた真神の所へ向かった。
ひときわ大きな瓦礫により掛かるようにして、真神はパッとしない晴天の空を眺めている。西園寺が目の前に腰を下ろしても、そちらを見ようともしない。
「ひとつどうだね真神くん、高価そうなものだからきっと美味に違いないぞ」
「いらん」
「そうか、では私が食べるとしよう。……うむ、うまい」
西園寺は包装を解くと、あっという間に平らげてしまった。
持ってきたのはひとつだけだったので、それで無くなった。
何をしに来たのか全く分からない。
「気分はどうだね」
「最悪だ。いつもながら、光の下にいると気分が悪くなる」
真神の返答はどこまでも簡潔だった。
要点を突いて拒絶してくる在り方は、狭い事務所を出た、陽の光の下であろうと変わらない。
奇妙なのは、そこまで嫌いながらも、真神が空へ顔を向けたままでいる事だった。下を向く気力も尽きたように、あるいは向く理由がないかのように、その目はただ上を見ている。その先に何かを探しているのか、求めているのか。空を映す瞳は灰色く曇っていて、奥を窺う事は出来ない。
「……忌々しいのは、こんな薄暗い場所の狭い空なのに、やたらと良く見える事だ」
「なに、君には元々見えていたのだろう。ろくに見上げないから色に対する感覚が鋭敏になっているだけだ。その調子で感覚を取り戻したまえ。これからも一層の働きを期待しているぞ、私の名前を付けた時のように!
――さあ、出来た」
そう言って西園寺が瓦礫の上に置いたものに、やっと真神の視線が移る。
先程の包装紙を利用して西園寺が折りあげたのは、掌に収まる程の小さな紙飛行機だった。なんだこれは、と眉間に皺を刻んだ真神が問う。紙飛行機だ、と西園寺が偉そうに答える。
「これに乗って飛んで行けとでも言うつもりか? そういう青臭い説教はあの坊主にでもやれ」
「いや、これに力を込めて飛ばして激突させる事で、今回私がビルを壊したのと同じ事は可能だろうか。遠隔攻撃は便利だからな。問題は、残骸から発射元を読み取られてしまうと厄介という事だが」
「……貴様が視界に入っているだけで疲れる。向こうへ行け」
「そうか、激戦の後であまり疲れさせてもいけないからな、そうするとしよう。
ああところで真神くん、君は前から光の下が嫌いなようだが、そんな君の心とは関係なく、君が出てこようが寝ていようが、ああして光は常に変わらず降り注いでいるのだ。何とも偉大ではないか」
「うるさい、失せろ」
では、と西園寺が立ち上がった。
「おい」
振り向かずに真神が呼び止める。
「俺が優秀だと、あの時にお前は言ったな」
「言ったとも」
「それは、俺がお前を殺せるからか」
「おお、分かっていたのか。やはり君は改めて優秀だ、真神くん」
「お前の最期を考えれば分かる。お前は登る山が無くなれば消えるしかないような奴だ」
何でもない事のように真神は聞き、やはり、何でもない事のように西園寺は話を続けた。
盛り上がっているカーラと少年の所まで、二人の話し声は届かない。
「死んだ時に苦しむのはそいつじゃない、そいつを慕っている周りの奴だ。
カーラと茶坊主は悲しむぞ。その頃には、もっと多くの者達も」
「うむ、ちょうど同数程度に喜ぶ者達も多いだろうな。人間だった私が死んだ時にもそうだった事だろう」
「フ――つくづく、自分の殻の中だけで完結している奴だ、貴様は」
そこで初めて、見下げたように虚しいように悲しいように、真神は笑った。
腕を伸ばして紙飛行機を摘み上げ、そのまま無造作に投げる。
飛びそうにないそれは、うまく風を拾ったのか、ツ、と斜めに大きく傾ぎながら流れていき、ビルの下に消えた。
「何が、光は常に降り注いでいるのだ、だ。馬鹿め」
吐き捨てて、力尽きたようにどさりと再び瓦礫に背を預ける。
その肩を叩くと、西園寺はざくざくと瓦礫を踏んで、箱の半分を空にしかけているカーラ達の所へ戻っていった。
「道は遠いぞ。せいぜい暴れてみせろ、その時まで」
幾らか大きく張り上げた声が、果たして届いたのかまでは確かめなかった。ひとりに戻った真神は、相変わらず面白みのないくすんだ空を見上げて、目を閉じる。やれやれ、と、随分久しく漏らしていなかった気がする種類の嘆息が、血色の悪い唇から漏れていた。
そうしている今も、光は確かに変わらず降り注いでいる。とても眩しくて、そして長い夢になりそうだと彼は思った。




