駆け抜けるビクトリーロード - 13
「照らし合わせましたところ、肉体に戻された魂の最低でも過半数が既に再結合を完了しており、再度引き剥がすのは困難と思われます。こうなっては、生命機能の崩壊に伴い自然に離れるのを待つしか……。
個体によっては死亡予定地点から病院へ搬送されてしまっており、いまだ状態を確認できていないものも……」
「戻された魂の多さと、肉体との再結合の進行具合からして、おそらくはあの事務所、日付が変わる直後から活動していたものかと。ひとまず手の空いている者で領地内の監視を開始しておりますが、奪われるのを防げたとしても、これから確保可能な分を全て足して追い越せるかは、まだ確実な事が言えず……おい! 数えてるの誰だ!?」
「確かさっきあっちでやっていると……」
「確かじゃないでしょう! 早く正確な確認を!」
「ウィルヘルム様! ウィルヘルム様はどこですか! ご指示をお願いします!」
事務所内は混乱の極みにあった。
事態の全容を把握し、相当数の魂が戻されている事を部下から伝えられたウィルヘルムは当然ながら激怒した。直ちに件の事務所へ使者を送り、また上層部へ連絡をやらせたが、返答は彼にとって芳しいものではなかった。上でも若干の混乱が起きているものの、その事務所が行った行為はルール上は問題ないというのである。つまりは、戻された魂の数がマイナスという形で、そのまま相手のリードになっているという事だ。
信じ難い話に、ウィルヘルムは愕然と立ち竦む。
査定そのものを一時中止としようにも、全体規模で動いている行事となればさすがに止めようがない。この領地の為だけにやり直しをするなど、いかに新月の一族といえど認められる筈がないのは分かりきっていた。
「本日24時までの死亡者の魂、全てを確保できたとしても届くかどうか……」
「ふざけるなぁ!!」
血走った眼で一喝され、報告を行っていた部下はヒッと掠れ声をあげて後退った。
「このような事が、このような無法が許されて良いのかっ!!
貴様らもなぜこうなる可能性を考えなかった!! 揃いも揃って役立たずしかおらんのかっ!!」
怒り狂うウィルヘルムを前に、それについて責められる謂れはないと反論できる者など一人もいなかった。冥府でさえ予想外だったと答えてきたのだ。一介の職員に、それも傲慢な独裁者の不興を買わないよう日々こそこそと背を丸めてやり過ごしている者達に、言われた他の事をやるなど出来る訳がない。己の怠慢を棚に上げてヒステリックに怒鳴り散らす主に、ただただ首を揃えて縮み上がるばかり。よくよく聞けば、響く怒声には怒りだけでなく、同程度の怯えと震えが滲んでいる事に気が付いただろう。そこにいるのは、薄っぺらな王の皮を剥がされた、保身しか頭にない小心者に過ぎない。
どうする?
どうすればいい?
ウィルヘルムはせわしなくその辺りを歩き回った。目につく物に嘴をぶつけ、翼で打ち付ける。八つ当たりの激しさに反比例するように不安は増大していく。
このままでは負ける。信じられないがそうらしい。
放っておいても勝ってきた、今回も勝つ筈だった、そも勝ちという単語を意識する必要さえない筈だった、なのに、単なる通過地点からこぼれ落ちようとしている。馬鹿な、あり得ない。偉大なる新月の一族である自分に、惨めな敗北など断じて許されない。きっとこれは何かの間違いなのだ。最後に出る数字が何であろうと、無法は正され、自分は正しき勝利を得、あの愚か者共は裁かれ破滅する。
そうだ、そうなるに違いない。
だが。
だがもしも、もしも万が一、負けるなどという結果になろうものなら――。
寒気がした。
一族の恥部。輝かしき経歴に泥を塗った者。後ろ盾を失った時に何が起きるかなど、考えるのも恐ろしい。ただでさえ、昏倒させられた時と許可証の時の騒ぎで睨まれているのだ。ここでの敗北は致命的だ。
ウィルヘルムは考えた。考えて、考えて、考えて、そして遂にひとつの光明に行き着く。
「ええい……こうなればやむを得ん!
領地内から、リストに無い魂を狩り集める! 確実に奴らの数を上回るまでな!」
黙って俯いていた、あるいは報告に駆け回っていた部下達が、揃って弾かれたように顔を上げた。人の姿を持つ者達の顔色は蒼白になり、翼持つ者達の羽根は恐怖に逆立っている。
「そ、それはおやめください!!
リストに載っていない人間に死神の独断で死を与えるのは、候補生でも知っている重大な禁止事項です!!」
「お考え直しを!!」
「では他に手があるというのか!? このような無様、とても、とても耐え難いっ!! 私が負けるかもしれんのだぞ!! この意味が分かっておるのか下等民どもっ!! 上への言い訳など、勝ってから後で幾らでも我が一族に頼める!! まずは勝たねばならんのだ!!」
「し、しかし……!」
まだ何か言っているうるさい部下達に背を向けて、ウィルヘルムは長い通路を一直線に飛び始める。
自分のやろうとしている事が取り返しのつかない行為である事を、彼は分かっていながら理解できていない。敗北への恐怖と焦りが、最低限の思考能力すら麻痺させていた。せめて普段の暴虐なだけの彼であれば、それがたとえ新月の一族の名を借りようと侵せない領域である事に気付き、諦めていただろうに。
「ウィルヘルム様、それだけはお考え直しを!」
「ウィルヘルム様!」
追い縋ってくる声を振り切り、やがてウィルヘルムは埃を被った扉の前に行き着く。
彼の声に反応して、扉が開いた。内部もやはり埃っぽく、まともな照明も無いせいで、だだっ広いが薄暗い。それもその筈で、ここはこの事務所にとっては無用の長物と化していた、開かずの間だったからだ。
まともな事務所であれば、毎日送られてくる死者のリストとはまた別に、管轄の人間の情報を一人ずつ個別にファイルした、いわば住民名簿とでも呼ぶべき物を持っている。余程小規模な事務所であれば本棚ひとつの事もあり、専用の部屋がある事務所でもここまで広いのは稀だが、ともあれここには、正真正銘現時点での領地内の生者の情報が全て集まっている。広大な管轄を有するウィルヘルムの事務所だからこそ、ここまでの広さになるのだ。
だが言ってしまえばそれだけで、仕事をこなしているだけなら訪れる必要もファイルを見る必要も一切無い。
そのような部屋の扉が、いま開かれた。
ウィルヘルムは部屋に入るや憑かれたように棚に飛びつき、整理されたそれらを手当たり次第引き抜いては、破りそうな勢いでページを開いて中身に目を通す。
住所、氏名、家族構成、経歴……。
人間を魂の容器としてしか見ていなかった彼が、初めて人間の名前を意識したのは何とも皮肉な話であった。
「これと、これと……よし、これは近すぎるからこっちだ」
取り出したファイルから、適当なものを次々にリストに加えていく。
冥府から送られてきたリストには、魂の回収時に記載ミスが判明した場合に備えて、所長権限で訂正が可能になっていた。仕事をしつつ、訂正後のリストは送り返すのが正規の手順である。
といってもそんな面倒な作業をする者はまずおらず、間違って死んでいても気にせずそのまま拾っていくか、良くてその場に放置していくかであった。わざわざ戻そうなどと誰も思わない。こいつは死ぬよと上が送ってきたのだ、載っている者が載っている通りに死ぬ事には、何の問題もなかった。
――しかし。
やがて満足のいく数を記し終え、ウィルヘルムは体をがくがく震わせながら笑った。これでいい。この数ならば、不届きな真似をされた分を確実に上回れる。あとは実際に狩るだけだ。
「よし、これで――」
次の瞬間、背後の扉が吹き飛ぶような音を立てて蹴破られていた。
「な……」
振り向いた先に、痩せた人影が立っている。
陰気な顔立ち。隈の浮いた目。中途半端に長い髪。射殺すというよりは呪い殺しそうな眼光を放つ男は、無言のまま部屋を横断していくと、硬直していたウィルヘルムの喉をいきなり鷲掴みにした。げえっ、と蛙が潰されるような声があがるが、男は構わず握る手に力を込める。
苦悶のあまりバタバタともがく翼が、爪が、男の腕や服を引っ掻いたが、一向に意に介する様子もない。相手を絞め殺しかけているとは思えない、容貌そのままの無感動な声で、事務所所長、真神雄一が低く告げた。
「気付くとは思っていた。幾ら貴様らでも気付かない方がどうかしている杜撰な作戦だ。気付き、敗北を意識すれば、愚かな貴様ならこうした行動に出るだろうとは思っていた。
だからといって、出張る気など俺には無かったのだがな」
ぶくぶくと端に白い泡の浮かび始めた嘴を、どうでもよさそうに真神は見ている。
「あの場に残っていれば、今頃俺は無理矢理にでも引き摺り出されていただろう。それも考え得る最大の馬鹿による、考え得る最低の手段で。さすがの俺も瓦礫の下よりは外の方がまだマシだ」
「……グッ…ハ、カッ……」
「何が言いたいかというと、俺がここにいるのは全く俺の自発意思などではない。貴様が何をしようが知った事か。本当なら、今でも部屋で天井でも眺めて寝ていられたというのに。
――ウィルヘルム・シュラウ・シュラウセン。死亡確定リストへの独断記載による人間の処刑――」
まさに彼が犯していた罪を、真神が読み上げる。
幾らか緩んだ手の力に、逃げられはしないものの喋るだけの余裕は出来た。
「ぐえっ……だ、だから何だ! 閑職の一所長如きがそれを知ったとて、何かが出来るとでも!? 上から下まで身の程知らず共めが!! この無礼の罪、貴様らの家畜小屋の取り潰しと共に必ずや償わせて――」
「だが、そんなものはどうでもいい。
羽目を外して遊び回っていたクズが今度こそ致命的な罪を犯したかなど、それさえ俺にはどうでもいいのだ。
俺が今ここに立つのは、奴らへの助力故にでも貴様の罪故にでもない。貴様が新月だからだ」
ウィルヘルムを掴んでいる真神の腕に、変化が起きていた。
血色の悪い皮膚がぎちぎちと硬い鱗に覆われ始め、指の爪は盛り上がり、猛禽のそれのように尖り始める。
片腕全体が、急激に膨れ上がっていくように見えた。スーツの袖の表面がざわりと波立ったかと思いきや、手首から肩にかけて、一斉に漆黒の羽根へと変わっていく。完成した所で固まり、ぎ、と握り直した真神の手は、完全に鳥の足に変貌していた。
それは、カラスの脚だった。ウィルヘルムを掴んでいる手には、爬虫類を思わせる鱗と鋭く曲がった爪が生え、手首から上は、光を吸い込みそうに黒い羽根が覆い尽くしていた。羽根への変化は肩を越え、鎖骨から首にまで達しつつある。
人の姿でありながら、その片腕を鴉と化したもの。
「エ……ルダー、メンバー……!?」
辛うじて絞り出された声は、ほとんど悲鳴に近い。
「……そんな……そんな……!
同族殺し……死神を殺せる死神が……なぜ! なぜこんな所に!?」
「死神を殺せる。変異種エルダーだけが持つ力を使い、かつて一人の死神が処分された。
隠蔽しようがない罪が露見した、その死神は大物だった。審議に加わったエルダーの10人中9人が処刑に反対した。たった一人が妥当と判断し、その死神は処刑された。
その後、賛成した死神が処刑された。
報復だ。まったく身に覚えのない、その死神なら絶対に起こす筈がない不祥事を着せられてな。
反対する者は、誰もいなかった。
唯一正しい事をした者が、正しい事をした為に死んだ。
あの時に反対し、後に賛成した中には、貴様ら新月の一族出の者もいた」
「わ、私はそんな事知らな……」
「知らんだろうな。生まれてもいまい。だがどうでもいい。
言っただろう、俺がここにいるのはくだらん査定故にでも貴様の現行犯故にでもなく、貴様が新月だからだと。
知っていても動く気はなかった。だが外に出された。飛ぶ事になったからには、俺の前にいたからには、死ね」
ウィルヘルムの全身が、明らかに今までとは違った痙攣を始めた。飛び出しそうに見開かれた眼球の縁から、半開きとなった嘴の奥から、紫色をした炎が幾筋も立ち昇り始める。出鱈目にもがき続ける脚の輪郭が、広がった尾羽が、やがてぶれるように崩れ始めて――。
「やあ何だこの部屋は! 我が西園寺が誇る最新式の効果確実空気清浄機を売り込みたいところだ!」
けたたましい炸裂音と共に、先に崩れたのは蝶番ごと蹴破られた扉の方だった。反射的に振り返った真神を一瞥もしようとせず、ずかずかと大股で乗り込んできた西園寺は、有無を言わさず、動きの止まった真神の手に向かって流れるようなハイキックを繰り出した。
蹴りは狙い過たず真神の手を、というよりも真神の手が握っていたウィルヘルムを直撃する。的確なインパクトとその威力に、拘束を外れたウィルヘルムは水平に吹き飛ばされ、棚に激突して床に落ちた。衝撃でばらばらと辺りのファイルが捲れたが、西園寺はそれらには見向きもせず、仰向けにひっくり返って伸びているウィルヘルムの前に屈む。死んでいるとしか思えないほど弱々しいが、ひとまず生きているのを確認すると、よし、と声に出して指差し確認をし、それから立ち上がってようやく真神の方を向いた。
「ごきげんよう、昨晩ぶりだな真神くん!
少し見ない間に毛深くなったものだ。いや羽根深くというべきか」
「何故ここにいる」
「なに、なんとなくだ。私の勘はよく当たる。
散歩なら誘ってくれればいいだろうに水臭い」
もう一度、西園寺は床のウィルヘルムへ視線を落とした。
完全に目を回している。あれでは回復するのには時間がかかるだろう。
「何だか分からないなりに殺されかけて死にかけていたようだが、殺すのはいけないぞ真神くん。非合法な手段に出るならば、時と場所を選ばなければな」
事務所全体を指し示すように、西園寺は両腕を広げてみせた。
「多数の職員が君を目撃している。この状況でウィルヘルムくんに死なれては、君の立場が少々まずくなるのではないかね? どう見ても犯人は君だ、安楽椅子に腰掛ける必要すらない。ついでに言うと私はもっと目撃されているぞ! 何やら良くない予感がしたので、ここに到着するまでに壁を3枚ぶち抜いてきたからな!」
「俺の立場などどうでもいい。こいつが死ぬべき程の罪だったかも、殺した結果俺がどうなろうとも」
「それは困る。ここで君に何かあっては私が困るのだよ」
西園寺は手近なファイルを拾って、興味深そうに中を眺めたかと思えば、すぐに飽きたらしく投げ捨てた。
「君は私の現上司であり、ゆくゆくは部下となる男だ。私が上へ行く為の道筋を作るまで、破滅してもらっては困る。私が上に立ってからも、破滅されるのは単純に損失だ。君にはやってもらいたい仕事が山程ある」
「こんな所で下克上宣言か。まあ俺は能無しのろくでなしだ、貴様が上に立ちたいというなら簡単に立てる」
「いや、私の方が優秀だと言ったのだ、君が無能だとは言っていない。比較の話だな」
認めているような侮っているような、褒めているような馬鹿にしているような、どちらにせよ偉そうな物言いであった。それ以上何も言い返してこようとはせず、真神も床のウィルヘルムを見下ろす。ゴミを見る目を通り越した、そこに何も存在していないかのような目付きだった。
益体もない会話にやる気が失せたのか、変化した時の逆を辿って、真神の片腕が元の姿に戻っていく。人の肌を取り戻していく掌をじっと見つつ、真神の唇がぼそりと動いた。
「ここ最近で最も馬鹿げた戯言だ、よりによってこの俺が優秀だなどと」
「君は優秀だぞ?」
何を言っているのだとばかりに、西園寺は腕と脚を曲げて伸ばして珍妙なポーズを決めた。
「この私にも、変身だけはできないからな!」




