駆け抜けるビクトリーロード - 12
黄昏空に黒い翼を広げ、ビルの屋上にカーラが舞い降りた。
続けて、西園寺も。
「カーラさんっ! 西園寺さんっ!」
すぐに少年が駆け寄ってくる。
大きな瞳はこみ上げてくる安堵に潤み、今にも涙をこぼしそうだった。
強がって、張り切って、頑張って留守番役を務めてはいたようだけれど、やはり相当不安だったのだろうと、カーラは少なからず胸を痛めた。その口からウィルヘルムの事務所の使いが怒鳴り込んできた事を聞かされ、心痛は更に深くなる。こうなる事は事前に予測済みであり、話し合った事でもあるとはいえ、必死に首を横に振り続ける少年に罵声が浴びせられている光景を想像するのは、気持ちの良いものではない。
「良くやってくれたぞ」
と、西園寺にその大きな掌を頭に乗せられ、報われたように微笑んだのがせめてもの救いか。カーラは慰めるタイミングを見失って、もごもごと何事かを呟くに留めていた。
「風が変わった。俄に空気が慌ただしくなったから、これはと思い一度戻ってみて正解だったな」
「はい、とうとうバレちゃったみたいです。それで、勝てそうなんですか?」
「こっちは今日中に死ぬ数が分かんないからね……6つ魂が取れたって、合計15なら逆転されるだろ?
まあ、この時間までバレなかっただけでも上々。贅沢は言えないよ。つか今までバレなかったってつくづくヒデーなおい」
少年に余計な負担をかけまいとカーラの口調は軽いものの、決して事態を楽観視してはいなかった。また、負けてもいいと思っている故の軽さでもない。最初は乗り気ではなかったカーラも、ここまでやらかしたからには勝ちたいと思っている。
しかし企みが露見してしまった以上、ここから先が総力戦になるのは避けられない。力の誇示の為か、それとも他に理由があるのか、普段は基本的にウィルヘルムが外を回っているが、こうなったからには下の者達を総動員してくるのは避けられまい。魂の回収が出来る出来ないとは関係なく、人海戦術で領内全域に散りばめられて、こちらの活動を妨害されるだけでも脅威だ。事実上、残っている魂の数がこちらの弾数より少ない事を願うくらいしか手がない。どうか今日はもう死なないでくれと人間の無事を祈るのは、カーラにとって初めての経験だった。
「真神くんが出てきてくれればな。この状況での一人には黄金にも勝る価値がある」
西園寺が呟いた。
それを聞いた少年が、肩を落とす。
「……すみません、ボクが未熟じゃなかったら……」
「未熟ですみませんっていうか、あんたがちゃんと戦力になるまで待ってからやるのが普通の考えなんだけど」
「何を言う! 目の前にチャンスがあるのに次の機会を待つなどと!」
「ほらね。こうなってんのはそもそもこいつのせいなんだから、あんたが気に病むこっちゃないんだよ。あんたが未熟なのも所長が出てこねーのも承知の上で仕掛けたんだ。なら手持ちの札だけでやれる所までやるしか」
「よし、やはり出そう!」
「――は?」
達観した戦士の境地を語るカーラ。
いきなり話の腰を折られるカーラ。
開きかけの嘴で唖然とするカーラ。
これらが、たった一呼吸の間に起こった。
瞬時に置いてきぼりにされたカーラと少年を他所に、西園寺はひとりで顎を撫でつつ納得顔でいる。
「ああは言ったが、どう考えても彼は要るな。
私とした事が、同情のあまり他者の意志を尊重してしまったのは悪手だった」
「は、え、何が同情? 出すって所長の事?
つーかおめぇがウン十人分働くんじゃなかったの!? それが今になってやっぱ所長要るわって、あの豪語は!?」
「ウン十人よりウン十人プラス一人の方が強いぞ」
「そういう事を言ってるんじゃねえ!!」
真神が協力してくれないのは仕方ないと現状を受け入れ、潔く戦う意志を表明したというのに、どうしてそのタイミングで前言を撤回して、聞く者を不安にさせる正反対の選択を持ち出してくるのか、この男は。馬鹿で猪突猛進で傍迷惑ではあっても、こうと決めた道を途中で変えずに最後まで走る男だとは考えていただけに、突然梯子を外された形になったカーラは、怒るよりも混乱する。どう考えても無謀な真似を自信しかないまま押し進めて成し遂げてしまうのが、西園寺という男ではなかったのか。
だが次には、西園寺は更なる混乱を招く突拍子もない行動に出ていた。
「少年!」
「ひぇ、は、はいっ!」
「尋ねるが、君は肩車とおんぶと抱っことどれが良いかね」
「はい、肩車とおん――え?」
少年は思わず聞き返していた。
傍のカーラも似たような反応である。
「以前は有無を言わさず小脇に抱えてしまったからな。よって今回は君が選ぶといい」
「……肩車とおんぶと……抱っこ、ですか? あの、どうしてそれが今……」
「おい遊ぶんなら後にしろ、ここにも様子見でちらっと戻るだけって事だったろ! 時間ないよ!」
「うむ、私も急いでいる。なので迅速に選びたまえ、どれだね?」
「いやあのな、だから」
「えと……じゃ、じゃあ……肩車、がいいです……高く見えそうだから……」
突然そんな選択を迫られた理由は分からないままだが、急かしてくる西園寺の勢いに押された少年は、理由のところでやや顔を赤くしながら希望を口にしていた。確かに西園寺は背が高く、肩車をされた高さから見下ろす眺めは普段とまるで違って見えるだろうが、それは今試すべき事ではないのは誰でも分かる。
「了解した。そらっ!」
「ひゃあっ!?」
そんな事には構わず快諾した西園寺は、軽々と少年の腰を抱きかかえると、ひょいと腕で跳ね上げるようにして肩に乗せてしまった。バランスを崩しかけた少年が、慌てて肩に跨ると西園寺の頭にしがみ付く。一瞬ぎゅっと閉じた瞳を開いた時、目に飛び込んできた高みからの光景に、今自分達が置かれている苦境も忘れて、わあ、と少年は目を輝かせた。
しっかり掴まっていたまえと声を張り上げると、西園寺は肩車をしたままふわりと垂直に浮かび上がる。少年がまた歓声をあげる。違う意味で声をあげたかったのがカーラである。窮地を冷静に把握してみせたかと思えばあっさり前言撤回し、かと思えば肩車かおんぶか抱っこか選べである。まるで分からない。カーラでなくても分かるまい。あまつさえ上空から、こちらへ来いと手招きしている。
西園寺が少年ごとどんどん上昇していくので、カーラは仕方なく言われた通りにしながらも、気が気でないあまり、うっかりすると羽ばたくのを忘れてしまいそうであった。
「おい、おい何やってんの、そいつ連れて行ったって今は何も出来ないって言ったじゃないか」
「連れてはいかない。いや連れてはいくが、それはこのビル真上の空間限定でだ。彼はまだ満足に飛べないのでね、安全は保証してやらねばなるまい」
「安全って……何の安全さ? 巻き込まないようにってのなら手遅れじゃないか」
「私が呼びかけても、真神くんは出てこないだろうな」
「へ? ……あ、うん、だろうね?」
「ではカーラ嬢、君が真剣に呼びかければ真神くんは出てきてくれるかね?
あるいは少年ならばどうか?」
「だから飛び石みたいに会話するのやめろ、こっちはまともだから付いてけない。
所長は無理だってば。あれを部屋から引きずり出して協力させるなんて、誰がやっても冥府が滅んでも無理」
「……あの、すごく失礼ですけどボクもそう思います……」
「ふむ、そこまで出てきたくないというならやむを得まい」
「んで結局諦めんの!? なあ、さっきからあんたが何やろうとしてんのかいつも以上に全然――」
ぴたりと西園寺の上昇が止まった。
ぐん、と片脚が前方に持ち上がる。
高く、高く、あたかもバランス訓練に限界まで挑戦しているかのように。
長い死神装束が、上空の風になびく。
「出す」
西園寺の姿が掻き消えた。
一瞬聞こえた少年の悲鳴は、高く唸る風切り音に掻き消される。
遥か上空から、西園寺は鳥の眼にさえ影を捉えられない程の猛スピードで垂直に降下していた。
引き絞っていた片脚を真下に向けて突き出し、放たれた矢の如く、彗星の如く。
要したのは一秒か、二秒か。その靴底がビルの屋上を叩く。
ダァン、と爆弾でも叩き付けたような音。すぐさまそれに重なって、ずうんと重々しい音が響き渡る。
地を走る衝撃。反動が大気までをも揺らす。
砂漠の砂嵐を思わせる、もうもうと立ち込める黄土色の砂埃の中――。
4階建てのビル全体が、押し潰されたかのように倒壊していた。
「無い部屋には居られないからな。
さあ真神くん、遅いグッドモーニングを! 共に魂を戻しに行こう!」
一分前までは確かにビルだった瓦礫の山の中央に降り立ち、西園寺は朗らかに呼びかけた。
鉄筋コンクリートの残骸は、奇跡的なバランスで縦に積み重なっている。
「な、な、な――」
カーラが降りてきた。落ちてきたのかもしれない。
まさしく不条理の極み。死神からしても想像を絶する光景を前に、全身が理解するのを拒んでいる。西園寺が何をしたのか、目で見て分かってしまう程、ありえないという否定が強くなる。毎度毎度この先これを上回る非常識は無いだろうと思わせては、次でそれを超えて頭を抱えさせる男。
一蹴りでビルひとつを壊した。まずそこがおかしい。人間、死神関係なく、誰に聞いてもおかしいと言う。そしてそれさえも凌駕して、死神がビルを壊せたという事がどうかしている。このビルは、他の事務所のような、死神が死神の為に作った建物とは根本的に違うのだ。
「現世構成物への直接干渉だとォ!!?
うっそだろ!! ねえこれ何!? 夢!?悪夢!? ああそうだよ現実だよチクショウ!!
どうやって壊した!? 死神が人間の建物を直接破壊するとか存在的に起こっちゃいけないんだけど!?」
「触ったり歩いたりは出来るのだから、その延長で力を加えればそりゃあ壊れるさ」
「壊れねーよ! 壊せたとしても、なんでこんなにまっすぐにストーンと崩れるんだよ! 人間がやる爆破解体ってのは知ってるけど、こいつはあれよりもっと……」
「まっすぐにストーンと崩れろと念じながら蹴ったからに決まっているではないか。僅かでも前後左右に瓦礫がはみ出そうものなら、周囲の建造物と道路に被害が出る」
「決まっているだろうじゃねえ、なにその気遣いと制御!?」
「カーラさんっ! それより所長がっ!」
「!! そうだった!」
慌てて西園寺の肩から飛び降りた少年が、所長、所長と瓦礫の下に向かって呼びかける。思い出の事務所が、問答無用で木っ端微塵に粉砕された事を嘆くのも忘れているらしい。
カーラもそれに続いた。いまだ収まらない砂埃にゲホゲホとむせながら、瓦礫と瓦礫の隙間に頭を突っ込んで真神の名を呼ぶ。返事はない。
「なんつー真似してくれてんだ、下克上するにしたってやり方があるだろ!」
「それは誤解だ、カーラ嬢。私は彼の部下であり、部下として上司に助けを求めている。
真神くん! 戦いも佳境を迎えようという今、是非とも経験豊かな君の力が必要なのだ! 我々に力を貸してはくれないか。この通りだ、頼む!」
「今更だけどお前サイコパスって言われない?
こんなやり方されて助けてくれるって所長は仏様か何かか?
倒壊させたビルの瓦礫で押し潰しながら迫るのは、懇願じゃなくて脅迫って言うんだよ!」
そして脅迫が通用するのも相手が生きていればこそである。
候補生でも欠陥品でも、死神が人間の建物の倒壊に巻き込まれて死亡するような事は無いが、真神の声が返ってこない事に一抹の不安がよぎる。無駄に美しい崩れ方からして、階ごとの構造までもが大きく入れ替わったとは考え難く、事務所も真神の部屋も4階のまま、屋上から比較的浅い位置に埋もれている筈だった。ならばカーラ達の呼びかけも届く。それなのに応答はなく、自力で這い出てくる気配も窺えない。いかに職務を疎み行動を嫌う真神といえど、瓦礫に埋もれたままでいるよりは外に出る方を選びそうなものだが。
「てかこの貧乏ビル普通に人間も使ってんだぞ? なんの躊躇もなく壊しやがって……」
「今日は無人なのは確認済みだ、抜かりはないとも」
「ぬかるんでるのはあんたの脳味噌だよ」
「しょちょーう、真神しょちょーう! 返事してくださーい!」
ビルの外には、続々と人間が集まり始めていた。いくら飛散を抑えたとはいえ、目立たない場所とはいえ、仮にもビルがあれだけの轟音を立てて丸ごと崩れたのだから、通行人の注目を引くのは当然の結果である。彼らに死神の姿や声は感知できないものの、上にまで届いてくるざわめきの中で捜索を続けるのは落ち着かなかった。そして真神からの反応は一向に無いまま。
もっと積極的に探そうにも、瓦礫を取り除けないカーラや少年では、ひたすら呼びかけ続けるしかない。具体的な発掘作業だか救出作業が出来るのは、ビルを壊した張本人の西園寺のみ。
「……おや?」
重なる瓦礫の上でさえ乱れない歩様で進んでいった西園寺の足が、目指す地点の手前で止まった。
おそらく真神の部屋がその下にあるのであろう辺りの瓦礫を、当然のように靴先に引っ掛けて蹴り上げ、幾らか広くなったスペースを前に、意外そうな表情を隠さず腕を組む。
「ふうむ? 確かに彼は、気配を悟らせにくい物静かな男ではあるが」
更に珍しい事に、困ったように彼は呟いた。
佇むその背後では、既に査定どころではなくなったカーラ達が真神を呼ぶ必死な声が響いている。
「気配という問題ではないようだな、これは」




