駆け抜けるビクトリーロード - 11
一見廃墟でしかない煤けた雑居ビルの屋上で、あどけない顔の少年が一羽のカラスに激しく詰め寄られていた。
件の事務所から急遽使いとして送られた、かなりの大柄なカラスは、少年が委縮しきっているのにも構わず、ひたすら一方的に怒鳴り続けている。開けた空間に罵声が響くが、その声を聞く者は彼ら以外にいない。
「これはどういう事なのですか!! 説明を求める!!」
「ボ、ボクには分からないです! 今日も、ここにいなさいって言われただけで……」
「分からないで済む話だとでも!?
この!! 事務所が!! やっている事でしょうが!! 知りませんでは通りませんよ!!」
「あの……候補生ですし。その候補生にも、つい最近なったばかりですし……詳しい話は……ごめんなさい……」
何が起きたかは既に把握されていた。求められているのは、何故こうなったかの経緯である。
が、叫ばれても凄まれてもひたすら首を横に振り続ける少年から、めぼしい情報は得られない。それに今更経緯が明らかになったところで、動き出している数の増減自体はどうにもならない。せめて止めようにも実行者達が不在とあっては、少年を怒鳴るだけ時間と労力の無駄である。
現状の彼らが最優先すべきは、ひとりでも多くを西園寺達の妨害に当てつつ残った魂を回収する事であるが、兎角目先の体面や形式を優先したがる悪癖は、このような状況であっても変わらないらしい。使者の大カラスが怒りと焦りを露わにしているのも、査定の行方がどうなるという以前に、激昂して怒鳴り散らしているウィルヘルムが恐ろしいからだろう。
しかし、このまま末端の候補生を相手にしていても埒が明かない事をさすがに理解したのか、最後に左の翼を少年の顔に叩き付けるかのように振ると、荒々しく羽ばたいて大カラスは飛び去っていった。ばらばらと散っては空気に溶けるように消えていく黒い羽根に、少年は腕で顔を覆う。
暫くして恐る恐る腕をどけて、ようやく解放されたのを確認した少年は、安堵の溜息を漏らした。非常に高い確率で相手が怒鳴り込みに来る事は、事前に聞かされていた。時間もほぼ西園寺の読み通り。そう覚悟はしていても、怖いものは怖い。嘘をついてしまった事にも胸が痛んだが、それよりも。
「ど、どうしよう。気付かれちゃったよ……」
今にも泣き出しそうな瞳と声で、少年は呟く。
時計を確かめにいくまでもなく、時刻はまだ夕方になりかけたばかり。
既に幾つの魂を押し戻し、あと幾つの魂が残っているのか。
リードはどれだけ広がっているのか、あるいは挽回されつつあるのか。
戦況は不明である。西園寺もカーラもまだ一度も事務所へ戻ってきておらず、言い知れない不安感ばかりが増す。せめて夜であれば、今まで露見しなかったと逆に安心材料になったのかもしれないが、生憎時間はたっぷりある。便りがないのは良い便り、などと鷹揚に構えていられるには、少年はあまりにも未熟で場数不足だった。
その時、視界の霞むほど遥か遠く、建物と建物の狭い隙間から辛うじて見える範囲にぽっと人間の魂が浮かびあがる瞬間を、少年の目が偶然に捉えた。あっ、と思わず大きな声があがる。
自分がもっとちゃんとした死神だったら、あの魂を戻せるのに。
カーラさんや西園寺さんの苦労をひとつ減らせるのに。役に立てるのに。
現実の少年には、あの場所まで飛んで行く事さえままならないときている。
歯痒さと不甲斐なさに、少年は俯いて下唇を噛んだ。衝動的に駆け出そうとした足は、だがその場に踏み留まる。走って、走って、コンクリートの縁を蹴って跳んだとて、今のままでは下に落ちるだけ。しかし少年をその場に引き留めたのは、戦う手段がないという現実的な問題よりも、もっと別の想いだった。
「……今のボクにできるのは、西園寺さんとカーラさんの言い付けを守る事だ。何もできないのに何かしなくちゃと勝手に動いて、邪魔をしちゃダメだ」
それは想いを通り越した、誓いとさえ呼べるものだったのかもしれない。
少年は落ち着いた足取りで屋上の端まで歩いていき、そこから飛び出す代わりに、この位置から見る事のできる範囲全てを、強い眼差しで見渡した。
勝てるかどうかは、分からないけど。負けたらどうなるかも分からないけれど。
「西園寺さんがボクをここに残したのは、きっと、この戦いの中にいなさいって事なんだ」
たとえ、今は目に映らない遠い場所の光景だとしても。
精一杯に背伸びをしても、見えるのは湿った暗がりの裏通りだとしても。
全てが戦場と化しているのなら、その只中に立つ事には意味がある。
初めは隅で震えているだけでいい。次には戦闘が見える位置へ。その次には武器を手に。最後には指揮の旗を。その為には、まず外に立つ事。事務所で留守番をしているだけでは、スタート位置に立った事にならないのだ。
もっと力があれば、正規の候補生になるのがもっと早ければと、閉じていた時間が動き出すより前の事をいくら悔やんでも始まらない。悔しいは悔しいが、今の自分の戦いとは、結果に関わらず最後までここに立ち続ける事なのだと少年は思った。
よおし、と両手を握って掛け声をあげる。その時、少年の背後でさっと閃くように動いた影があったが、きらきらと燃える瞳で彼方の戦場を見据え続けていた少年は、それに気が付く事はなかった。
「……ん?」
たまたまそこへ目をやった男は、反り返りながらの伸びを途中で止めた。
気のせいかと思い、いややはり違うと前屈みになった顔の先では、幾つもの赤い数字が並んで点灯している。
「あれ? 故障かな?」
「故障って、人間の使ってる機械じゃないんだから」
「どうしました?」
戸惑う男の様子に、近くにいた数名が歩いて、あるいは飛んで集まってくる。
それまでは、刻々と――という程ではない頻度で変化していくそれらの数字に、関心を示す者はいなかった。終了後に集計を行うだけで良いのだから、誰も張り付いて経過観察などしていないのは当たり前である。
これ、と男が指差してみせた先に、複数の視線が吸い寄せられる。
「……なんだこれ、マイナスって。なんでマイナス?」
「本当に故障ですかね?」
「や、だから故障するような物じゃないでしょ」
そこにあったのは、各領地の各事務所ごとに分類された魂の回収数。
査定という特別な日だからといって、特別人間が多く死ぬという訳でもなく、ずらりと並んだ数字は増加が遅い上にほとんどが一桁で、いまだ0というのもそこまで珍しくはなかった。男が異変に気付いた数字も、数字だけを見ればやや多め程度で、周りと似たり寄ったりである。
数字だけを見れば。
その頭に、一本の横線が引かれていなければ。
「あ」
誰からともなく声があがった。
顔を見合わせてがやがやと話し合っていた者達の目が、再びその数字に戻る。
「また減ってる」




