駆け抜けるビクトリーロード - 10
ウィルヘルムの支配する事務所は、その日も昨日までと変わらない朝を迎えた。
カラスはとりわけ朝の早い鳥であるが、それはあくまで自然界に生息しているただのカラスと、模範的な勤務をしている死神に限った話であり、ウィルヘルムはたっぷりとした睡眠を取る事を好んだ。
習慣となっている飲酒のせいもあって彼の睡眠は深く、朝は遅い。昨晩は特に深酒となってしまった為、普段よりも更に一時間ばかり遅れた。かといって無理に起こしに行けば、逆に不興を買う事が分かりきっていたので、閉ざされたままの扉に近付こうとする職員はほとんどいなかった。
死神が突然死する筈もなし。ならば下働き如きが首を突っ込むべからず。
この事務所においては、主の不摂生は業務の一環でもある。
故に、それに合わせて職員も動く。食事や掃除などごく一部に関わる者が割に早い時間から働き始めるだけで、それ以外の者達の間には惰性が蔓延しきっていた。一向に顔を見せない主の様子を確認に行かなかったところで、どうせ誰も咎める者などいないのだから。
人間達の間で言えば、あらかたの通勤が片付いてしまったくらいの時刻になって、ようやくウィルヘルムはゆるゆると目を覚まし、緩慢な動作で雑に羽根を整えると、傍のベルを足で鳴らした。背筋を伸ばして入ってきた職員達は、ウィルヘルムの機嫌が比較的良さそうであった事にまず一安心する。
無論、その機嫌の良さはたまたまであって、今日から行われるとある行事とは何の関係もなかった。言う意味があるのかという事前の宣言に忠実に、査定の件など、運ばれてきたスパイス入りティーを啜っている彼の頭の片隅にもなかったに違いない。
事実、気にする必要があった試しはないのだから、彼ほど極端ではなかったにしても、職員達の意識も似たり寄ったりであった。彼らにとっては、もっと他に優先して考えなければいけない厄介事があったせいもある。
放っておけば勝っている査定などよりも、いかに主の機嫌を損ねないように立ち回るかこそが最重要事項。主が機嫌を損ねずにいてくれるか、平穏に今日という日を終わらせられるか。
誰も彼もが、概ね自分の事しか考えていなかった。
自分の事しか考えないようになってしまう事務所だった。
「ふうむ、今朝のはなかなか良いぞ。
昼の食前酒には魚卵の塩漬けを添えて出せ。それからこの後、爪を整えさせるように」
「かしこまりました旦那様、そのように手配致します」
側付き自ら味の感想を求めるような真似はせず、話しかけられた時にのみ、承諾で応じた。近頃加わったメイク係の腕が良い事もあって、ウィルヘルムの機嫌はますます上向く。
朝食の席でも、査定の件は話題にすら出ないのは勿論、今日はいつから仕事に出向くのかの確認もしない。ウィルヘルムが魂の回収に向かうのは、通常、昼休憩を終えてからになっている。午前一杯を華麗なる一族に相応しく己を磨く為に使っていると謳っているが、何の事はない、ただでさえ遅い朝を更に延長しているだけだった。それまでは上から届いた死者のリストを確認もせず、部下もあえて届けない。いつ仕事に出るのかが決まっているのに、それより早く持っていこうものなら、早く行けとでも言いたいのか貴様――と、あらぬ因縁をつけられかねないからである。
ましてや、昨日の時点で査定の件を伝えて一蹴されているのだから、掘り返せば職員間での連携不備を咎められるのは目に見えている。やるだけ損となれば、やる訳がない。
「明日の晩は、シトロ殿が訪ねてくる予定になっていたな。今日の間に客室を整えておけ、私に恥をかかせるでないぞ」
「はい。近頃は金貨の収集に凝っておられるというお話ですので、帰りにはそちらをお持ち頂こうかと」
「ふふん、どうせ自分で流した噂だろうが。
まあ良い、適当な物を見繕って土産に渡してやれ。恩も売れる」
「はい」
とうにウィルヘルムの目は昼の先へ、更には今日さえ通り越して明日に向かっていた。
事実、そちらの方が彼にとってはずっと重要であったのだ。
明日訪ねてくるという金貨趣味の者もまた、今日がいかなる日であるかなど頭にもなかっただろう。
彼らは、そういった世界に生きていたのである。
目一杯開いた指に押さえ付けられた魂が、ぶるぶると震えながら縮んでいき、そして消えた。曲がった爪と爪とをカチリとぶつけ合わせ、カーラは威勢のいい歓声をあげる。
「よおっし、これで三つめ!
っていうか死にすぎだろ今日! 交通安全徹底しろっての!」
自分達の取る戦法上まず死んでもらわなければ困るとはいえ、単純に多く死ねば良いというものでもない。真に重要なのは、数そのものではなく比。全体の中で、どれだけの魂を押し返す事が出来たか。半端な数を確保しただけでは、到底安心材料になどならないのである。
魂を肉体に戻すという、まともな死神なら手を染めない作業に関する己の手際の良さに、カーラは苦笑とも自嘲ともつかない曖昧な心境になった。まさかこれが武器になる日が来るとは、と素直に喜んでいられればまだ良かったのだが。
それに、今日戻した中には正式に死ぬべき魂も含まれている。ルール上問題はないらしいといっても、送り届けられるべき正規の魂まで戻すという行為への罪悪感は拭い切れない。
だが、ここまできて迷ってはいられなかった。
反対を唱えるならば、冒涜だと抗議するならば、打って出なければ済んだ話だ。なんて愚かな事をする奴だと蔑む資格は一切無い。この場に居合わせている以上は同じ穴の狢である。
自暴自棄が、かつてない勢いをカーラに与えていた。作業に徹すれば、彼女を超える魂戻しのプロはそういない。
「やあ、カーラ嬢!
注意一秒怪我一生だ。今、我々を囲む世界は極度の警戒心に満ちている!」
相変わらず無駄に声が大きいうえ意味の分からない挨拶と共に、西園寺が合流してきた。
姿が見えた瞬間に少しほっとしてしまった自分に無性に腹を立てながら、カーラは屋根に留まったまま両翼を広げてそれに答える。
「順調なようで何よりだ、風切羽一枚一枚の立ち具合が違う!」
「まあね、半分ヤケクソだけどさ。そっちはどう?」
「優先して回るべき場所を回ってきたと言っておこうか。より具体的に述べるなら、予め目星をつけておいた高齢者と病人の所をだ。回収済みは二つ、二時間以内に回収可能と予測されるものが二つ。私の到着と同時に逝ってもらうのが回収効率上ベストだったが、そう上手くはいかないものだな、はっはっは!」
「ホント歩く放送事故だなお前。どこまで本気なのやら……まあいいや。死神が人倫に従ってもしょーがねーし。おうっと、もう一個!」
ピンと嘴の先端を跳ね上げると、カーラは目敏く見付けた目標に飛んでいく。西園寺も後を追った。素早く踏み付けて魂を確保すると、カーラは大きく息を吐き出す。今度のは事故ではないようだが、死因など今のカーラにとっては知った事ではなく調べる気もない。気にかけるべきは唯一、戻した魂の数だけである。
これで、四つ。西園寺のと合わせれば六つ。
時刻は、太陽の位置からして昼近くであろうか。おそらく、そのくらいの筈だ。逃げ切りラインはまだ遥か先。こうして太陽を見上げると、自分と同じく今その光の下に立っている少年の姿が、つい頭に浮かぶ。
「……サトイモ坊主は大丈夫かね、ガッチガチになってぶっ倒れてなきゃいいけど。さもなきゃ怒鳴り込まれて泣きべそかいてるか……」
「私の見た限りでは、まだ気付かれてはいまい。だが、そろそろ時間の問題と呼べる段階に突入しつつあるな。そして気付かれようが余裕だ、と胸を張るには、まだまだ数が心許ない」
「そうだね……あっちが動き出す前にどれだけブン取れるかが肝なんだから」
そう思うと、カーラはたかだか三つ四つで気勢をあげていた自分を戒めたくなる。本来ならば、こうして雑談じみた報告を交わしている時間すら惜しむべきなのだ。
目立たないとはいえ敵には違いないもう一つの事務所の周囲は、これまで完璧に押さえられている。こちらは気付いていない筈はないのだが、不思議とコンタクトを取ってくる様子はない。しかしウィルヘルムの方はとなると、まるで不明というのが正直な所だった。
見落としがあったかもしれない、自分が立ち去った直後に死んだ人間がいたかもしれない。実は向こうはとっくに気付いていて、こちらに悟らせないように、こっそりと回収している最中かもしれない。確実にこうだと言い切るには敵が大きすぎ、範囲が広すぎ、手が足りなすぎた。
そわそわと辺りを気にし始めたカーラを見て、西園寺は薄く笑った。不安に同調して元気付けてくれているというより、不安が的中して追い込まれるのを待っているような笑みに、カーラは背筋が寒くなる感覚に襲われる。
逆境を愉しめる状態など、とうに通り越しているであろうに。
だがすぐに、今はこの得体の知れない笑顔が味方側にいるのだと自らを奮い起こした。たとえ追い付かれて逆転されて負けようと、相手の顔面に真っ黒い足跡をつけてやる事くらいは出来るだろう。
「さあ、もうひと頑張りふた頑張りだ!」
「こんなに始終飛び続けたのは生まれて初めてだよ、終わったら休暇を申請したいもんだね!」
カーラと西園寺は、それぞれ逆の方向へと飛翔する。
いまだ見えぬ勝利の形を、削り出す為に。
ゆったりと時間をかけて満足のいく昼食を終えたウィルヘルムは、すこぶる上機嫌であった。
緊張した面持ちで嘴周りをナプキンで拭いていた人型の青年が、一礼して下がる。ぶるんと頭の羽根を震わせ、気怠げな大欠伸を漏らすと、ようやくウィルヘルムは重い腰を上げた。
この、事務所という名の城において、彼が望めば手に入らないものなどほとんど無いと言って良い。流石に全く無いとはいかないが、古くから冥府中枢に食い込んできた一族の本流という後ろ盾はあまりに強大で、故に大概の不祥事や放蕩は見逃されるか握り潰されていた。
とはいえ、職務そのものを放棄する訳にはいかない。
堕落しきった暮らしぶりはさておき、彼が正統にして完全なる死神である事は間違いなく、魂を狩り集めるのは単なる課せられた仕事という枠に留まらず、彼自身の存在の証明でもある。この事務所も近いうち一族の後続に譲り、自動的に上へと昇る結果が約束されていたとしても、それまでの間、自らの手で仕事は続けていたという事実だけは必要だった。
上に立つ者は下々が手を染める仕事まで全てを知らねばならぬという建前の為に、誰もが通らされる消化試合。
馬鹿馬鹿しいとは、やる側も振り回される側も思っている。それでも体裁だけは整えなければならない。
「いってらっしゃいませ、ウィルヘルム様」
「いってらっしゃいませ、旦那様」
「いってらっしゃいませ」
部下達の見送りを受けながら、億劫そうに、だが形だけは堂々とウィルヘルムは飛び立つ。
出るまでが長かったといっても、仕事自体は特にどうという事はない流れ作業である。既に死んで浮いている魂を拾って回るか、ちょうど死にかかっている人間を少し引っ張ってやるだけ。死者が出る場所も時刻も日々送られてくるリストに記載済みで、それを順に辿っていけばいいという単純なもの。
大振りに羽ばたきながら、まずは事務所から6ブロック目という最も近い予定地点に着く。
だが、そこに漂っている筈の魂は見当たらなかった。
はて、と彼は一瞬空中に静止したものの、簡単に周囲を見回しただけで、深く気にはせず次の予定地点を目指す。とうに死んでいる筈の魂が見当たらない。明らかな異常事態であるが、こうした事はそう珍しくなかった。冥府から送られてきたリストに該当者間違いがあったか、場所か時刻がずれていたか、さもなければ昨日仕事を終えてから今日こうして出向くまでの間に、魂が限界を迎えて消滅してしまったか。
いずれにせよ、彼にとっては考えるに値する異変ではなかったのだ。
たかが人間の魂ひとつ、見付かるまいが見逃そうが消滅してしまおうが、犬のように探し回る必要がどこにある。こうして仕事には出ているのだから、それで充分すぎる。
――と、定期的に生欠伸をしながら飛んでいたウィルヘルムも、三箇所を回って空振りという結果に至り、とうとう円盤を取り出して翼を止めた。
ここは犯罪が多発するスラム街でもなければ、銃弾の飛び交う紛争地帯という訳でもない。死者が少ない事自体は普通なのだが、それにしても予定通りに魂が獲れる筈の場所で全て空振りというのは妙だ。
向かう場所を間違えたかと、彼は首を傾げる。しかし、全部の場所を間違って記憶するというのもまたおかしい。
「リストは……おっと、置いてきてしまったか。ち、面倒な……」
ウィルヘルムが、持ち上げかけた翼を苦々しく下ろす。
斜め読みで出発したのが思わぬ仇となった。斜め読みで大概は事足りるのだから、今日が特別運が悪かっただけとはいえ、確認する為には事務所まで戻らなければならない。
そうしたくない彼は、諦め悪くもう一度周囲の魂の気配を探ってみるが、昼の食前酒と食後のカルヴァドスを飲みすぎたせいもあって、うまく感覚が働かなかった。
仕方なく、面倒な、と吐き捨て、彼は方向転換する。
更にあともう僅かに彼が注意深ければ、遥か遠くでウィルヘルムの姿を見付けたカーラが慌てて低空飛行に移り、建物の影に身を隠すのに気付けたかもしれない。仮に気付いたとしても、目障りな出来損ないがまた領内を徘徊している程度にしか思わなかっただろうが。
「は……? 魂が見当たらない、ですか……?」
戻ったウィルヘルムに報告を受けた部下は、豆鉄砲を食ったような顔をした。
その呆けた顔に苛立った彼は、そうだ、と荒っぽく答える。
「リストを取ってこい、私の部屋か……どこかにある筈だ。今一度場所を確かめる」
「は、その、本日の死亡者リストでございますね」
「何度も同じ事を言わせるな無能めが、早くしろ」
叱責され、泡を食ってその若い男は走っていった。
別の部下が持ってきた果実水で喉を潤していると、そう時間はかからず、見覚えのあるリストを手に、首を捻りながら男が戻ってくる。勝手にページを開いている事は、別段咎められない。場所を確かめると主が言っていたのだから、先に確認しておいて正しい場所を伝えれば手間が省ける。この点については、下働きなら当然とはいえ気が利くとウィルヘルムも一定の評価をした。だが。
「ウィルヘルム様が向かわれたのは、A1地区とA2地区、A3からB2地区にかけてでございましたね」
「そうだ。急いで見たからひとつふたつ縦横にずれていたのかもしれん」
「ですが、そのどこでも全て死亡者が出ていますが……」
「何だと?」
「ええと、お待ちください……はい、間違いありません。A1地区は午前3時04分に、A2地区では午前7時43分に。B1地区では午後12時18分のものと、昨日22時40分のものが未回収のままです。ひとつも見当たらないというのは考えられないかと……」
「現に見当たらなかったのだ。貴様が読み間違えているだけではないのか」
「そ、それなりに名の知れた建物がある地区ですから、そう大きく間違うという事はないかとっ!」
「貸せ!」
緊張からか震え出し、もう一度確かめようとした男の手から、ウィルヘルムはリストを引ったくるように奪う。
確かに、男の言う通りだった。今しがた報告された場所、リストに載っている場所、そしてウィルヘルムが巡回してきた場所は完全に一致している。男が口にした、それなりに名の知れているという建物も、目標地点に向かう途中で彼自身目撃していた。
彼は、穴が空くほどリストを凝視する。
間違いない。死んでいる。本当に死ぬべき魂だったのかは知らないし興味もないが、数の上では4人の死者が出ている。これらは死んでいなければならない。まさか、4つ全てが冥府の記載ミスとでもいうのか?
いまだ酒の残る頭で、彼は考えた。どうなっているという疑問以外、具体的な形は浮かんではこない。しかし。
「おかしいぞ」
おかしな事が起きたというだけであって、何が起きているかを明確に掴んだ訳ではない。それでも、嫌な予感があった。
栄えある新月の一族。彼らが在る場所には、常に華麗にして平穏なる日常が在り続ける。それこそが勝者。それこそが歴史。ならば僅かでも日常にひび割れが生じる事自体、あってはならない事なのだ。
黒雲が、爆発する。
ウィルヘルムは喉を引き攣らせて叫んだ。周囲の部下達が、その声に一斉に飛び上がる。
「おかしい、おかしいぞ!! 貴様ら、至急確認を取れ!!」




