駆け抜けるビクトリーロード - 8
翼は何の為にあるのだと思うと、昔問われた。
正しい目標へと羽ばたく為でしょうかと、少し考えて答えた。
まだ若かったというだけでなく、目の前にいるのがまさにそれを体現したかのような人だったからだ。
しかしその人は笑って、怖い事や厄介な事があったら一目散に逃げ出す為さと答えた。
生き様とあまりにも相反するその答えに怪訝そうにしていると、更に笑って種明かしをされた。
嫌になったら、いつでも逃げられる。
そう思っていれば、どんな面倒事にも向かっていけるのだと。
静かなビル外を、片手でブラインドを捲り上げた窓越しに見る。
日中ならばまばらにある人通りも、夜となれば完全に絶え、静謐さや荘厳さからは程遠い寂れた黴臭い静けさだけが、見下ろす狭い通りに満ちていた。
西園寺は、窓から手を退ける。支えを失ったブラインドががしゃがしゃと騒がしい音を立てて降りると、事務所内にはそれきり静寂が戻った。難しげに首を傾げて地図とにらめっこするカーラの姿もなければ、皆の気分転換にと、いつもより高価なジャスミンティーを開封している少年の姿もない。カーラは、慎重な性格らしく最後の確認の為にと外を見回っており、少年は、そんなカーラに触発されたように、ボクも歩いて見てきますとビルを出たばかりだ。
実際の所は、両者ともここにいると落ち着かないからだろう。ただその時を待つという緊張に耐えられない、決戦の瞬間はそれ程までに近くに迫っている。
あと一日、あと半日、あと3時間、あと2時間、あと――。
遂に秒読みの段階にまで至った今、事務所内に残ったのは西園寺ひとりだった。
否、正確にはもうひとり、いる。
ここ数日間、朝の一瞬を除き主が座っている光景を見る事さえ珍しくなった所長用机を通りすがりに指先で叩き、西園寺は、その先にある扉の前に立った。片手には、受け皿に乗せたコーヒーカップがある。
空いている側の手で、扉の中央をノックする。返事はない。
西園寺は二度目のノックはせず、相手が起きてこれを聞いている確信があるかのように、口を開いた。
「真神くん、少し出てこないかね。
出陣の杯とはいかないが、少年が丁寧に練って淹れていったココアがあるぞ。甘い物は心を安らがせ」
「断る」
「そうか。出てきたくないというなら仕方あるまい」
返事があってもなくてもきっと同じだったと思える軽さで、あっさり西園寺は退いた。
だがその場から去ろうとはせずに、彼は向き合っていた扉にくるりと背を向けると、そのまま力を抜いて凭れ掛かる。広い背中が扉に当たった際の音は、中にいる真神にも伝わっただろう。
「そのままで聞いてくれたまえ。
聞こえているか? 聞こえているのだろうな。ふむ、返事は結構。聞いていてさえくれればいい。君の事だから知っていると思うが、カーラ嬢も少年も今はここにいない。よってこれは私と君だけの声だ」
体重を扉に預けたまま、西園寺は手にしたカップに口をつけた。
真神の応答は再びなくなる。気配さえも希薄で、扉の向こうに誰かがいるとは、あらかじめ入っていく所を見ていなければ予測もできそうにない。
西園寺は構わず、扉を挟んだ背中越しの会話を続けた。相手が見えようが見えまいが、答えようが答えまいが、存在していようがいまいが、まるで気に留めずに言いたい事を完遂せんとする姿は、滑稽なくらい日頃の彼であった。だから、だろうか。奇妙でちぐはぐな光景だというのに、日常を匂わせるのは。
「死神時計で0時を回り次第、行動に移る。
期間は一日、24時間。
カ-ラ嬢によれば、余程模範的な事務所でも、仕事を開始するのは早くて4時か5時というのが昨今の標準らしいな。ましてやウィルヘルムくんの所をいわんや、だ。この空白の4時間プラスアルファは我々の貴重な稼ぎ時となる」
「………………」
「間もなく迎える明日、より具体的にウィルヘルムくんの所が仕事を開始する時刻をご存知かね?」
「………………」
「知らないか、うむ、私も知らん。だが予想はつく。おそらく昼までは動かん。
あの事務所はいつでもそうなのだ。私も確認している。カーラ嬢は熟知しているだろう。
まったく呆れるくらいに、あそこは日頃から昼過ぎまで働かない!
それは査定といえど変わるまい、なにせ向こうには急ぐ必要がないのだ。急がねばならない理由がない。いやはや、余裕とは怖いものだな真神くん! 怠慢と習慣は違和感を包み隠してしまう」
相手の油断が楽しくてたまらないとばかりに、西園寺は愉快そうに肩を揺らして言った。その張りのある声にも、自信に満ちた笑顔にも、扉に凭れながら尚整った姿勢にも、些かの不安も滲んでいない。まさしく事務所の者達に豪語した通りに、一日後に待ち受ける己が勝利を信じて疑っていないのだと、目にした誰もが呆れながら、あるいは感心しながら認める王者の佇まい。
とはいえ、その輝きが不快感にしか繋がらない者もいる。
「何が言いたい」
真神が言葉を返したのは、話したかったからではなく、いい加減に雑音を追い払ってしまいたかったからだろう。顔の近くに寄ってきた虫に、反射的に手を振ってしまうような。
「兵は神速を貴ぶとは至言だな。かつて私が人身売買組織を壊滅させた時にも、その後押収された臓器を有効利用する為のルートを確保した時にも、兎角スピードが物を言ったぞ。
誰かがうるさく言い出す前にやってしまうのだ。この手段が有効なのはいつでもどこでも変わらないが、最大効率で最大効果を発揮するには手数が重要でね」
手数、と西園寺は言った。
それは、この零細事務所と最も縁遠いもののひとつ。
「私は、君にも来てほしいと思っている」
「断る」
真神の返事は、部屋を出ないかと誘われた時と変わらなかった。
内容は同じ。地獄から響いてくるような声のトーンも同じ。
何の変化もないという事が、却って強い拒絶の意志を感じさせる。
共に来て欲しい。それは参戦を決めてから、西園寺が今日この瞬間まで一言も真神に示さなかった意志だった。カーラや少年が再三、九割がた諦めながらも真神に助力を乞うよう西園寺に進言していたし、彼女らも一度は自ら声をかけていたというのに、西園寺は端から真神など眼中にないかのように、彼という存在を丸ごと除外して話を進めてきていた。諦めが良すぎるとカーラが嘆いた程だ。
それが、もうじき本番が始まるというここにきて、突然。
だが、西園寺に臆した様子はなかった。故に、勝負を前にして不安に負けたのだという印象は受けない。だからこそだろう。堂々と助けろと言ってのけるのは、まるでこのタイミングを待っていたようだと思わせるのは。
実際は、そんな事はなかったのかもしれない。
もしかしたら、そうであったのかもしれない。
「俺は何もしないと言った。貴様がこの掃き溜めへ来た初めから、それ以外言っていない筈だ」
「そうとも、君は何もしない事をしてくれた。暗に見逃してくれていたという訳でもあるまい。
真神くん、君は本当に何もしたくなかったし、何が起ころうがどうでも良かったのだ。それ程までの諦観を生むものとは一体何だね。これが人間であれば死ねるが、死神では自殺も出来ないときている」
過去を知る訳ではない。真相を知る訳ではない。真実を知る訳ではない。真神を知る訳ではない。
それでも、西園寺にはある程度の確信を以て推し量る事が出来た筈だった。
しかし西園寺は、以前に真神が置いていった酒の事には一切触れようとしなかった。
元より解答を求めての問い掛けではなく、答えなら真神からあの酒を手渡された時点で出ている。それにも関わらず聞くのは、西園寺が常に話したい事を話すだけの生き物だからだった。
「さぞ辛かっただろう、同情するぞ。
安心したまえ、安易や軽率な同情などではない。何故なら私は同情というやつを全くしないからだ!」
「その無駄に動く口を閉じて俺の前から即刻消え失せろ、西園寺貴彦」
「消えるとも、じきに。そしていずれは。
だがそれは今ではないのだ。君にとってはお生憎様でご愁傷様と言うより他ないが、私はとりあえず上を目指すように出来ているからなあ――」
悲しげでもなく物憂げでもなく、さりとて特別楽しそうという訳でもなさそうに、西園寺が呟いた。
それ自体が、珍しいといえば珍しい。
誰かが下を通っていったのか、ブラインドの向こう側で一瞬仄白い光が走り、すぐに暗闇が戻った。安っぽい照明が、真夏の陽炎に揺らぐ地面のように、じりじりと瞬いて室内を照らしている。
「勝利は良いものだぞ、真神くん」
「知っている」
「そうか、知っているか。ならば君を泥に沈めたのもそれだな。
だが、ここの皆はそうではないのだ。勝ちに伴い生み出される様々なものを知るより前に、勝ちを知らない。
この勝利の果てに、カーラ嬢はあの美しい翼にもう少しの自身を持てるようになるだろう。
感心にして勤勉なる少年は、より才能を活かせるかもしれない多くの可能性に、新たな舞台で出会うだろう。
真神くん、君はそうだな、特に何も得ないな! より広くて快適な寝室くらいは提供できるかもしれないが」
勧誘する気が全くないとしか思えない物言いが、自分で言って自分で面白かったかのように西園寺は笑った。
もう返事はなかった。コーヒーカップも空になっている。
西園寺はそれを、わざわざ持ってきていた受け皿に戻した。
「休憩中のところ失礼をした。ではさらば!
吉報を待っていてくれたまえよ」
西園寺の背が、扉から離れる。コーヒーカップを所長机に置く微かな音を最後に、事務所内は完全な静寂に支配された。
扉。人の世界と、死神の世界とを隔てる境界線。死神の世界と、真神の世界とを隔てる境界線。
話す西園寺の声と、聞く真神の声。両者の距離が縮まる事はないまま、会話は終わった。
遠くで、自動車のエンジンが低く鳴る。街はまだ眠らない。人はまだ眠らない。そして、死神も。
空では月を中心に、照らされた雲が渦を巻いている。




