駆け抜けるビクトリーロード - 5
一フロアをほぼ丸々使った、標準的な事務所複数分はあろうかという広さの執務室内は、ぴりぴりと肌を刺す空気で張り詰めていた。風船の表面を鋭い針でなぞっていくような緊張感の下、年若い人間の風貌をした男によって今日のスケジュールが読み上げられていく。
それを聞く黒い蹴爪が、こつ、こつ、と神経質そうに机を叩いている。
「本日の……ご予定でございますが、まずはこの後『月の石』一族の代表が挨拶にと訪れております故、支度整い次第こちらへお呼びする手筈に。ええ、はい。既に2時間程お待たせしておりますし、可能な限り早めに」
「それは会う必要はないな」
開始早々に話の腰を折られた部下は、次に続ける言葉を失って立ち尽くした。執務室内には他にも数名の職員達が控えていたが、誰一人声を発さずフォローも無く、室内はしんと静まり返る。
沈黙が、常に無条件の肯定を意味するとは限らない。
黙り込む部下達に、不満と不安の色を敏感に感じ取ったウィルヘルムは、なんだ、と殊更相手を見下ろす形になるように頭を傾け、黒光りする片目で威圧をかける。
「……その……アポイントメントも入っておりましたし、今日も早朝からお待ちになっておられて……」
「だぁかぁら何だというのだ? たかが付き合いが長いというだけの地味な下働き連中で、特別旨い話を持ってくる訳でもなかろうに。わざわざ私自ら会わねばならん理由がどこにあるというのかね?
本来であれば、我らが華麗なる一族の末席に名を連ねているだけで感謝して然るべき連中だというのに」
「で、ですが、先だっての一件でも彼らは後処理に奔走を――」
「その事を口にするなと言っただろうがっ!!」
「しっ、失礼致しました!!」
迸った甲高い怒号に、部下も、扉の傍に控えていた者達も揃って縮み上がる。ウィルヘルムの逆鱗に触れた「先だっての一件」が何を指しているのかなど、言うまでもない。西園寺の襲撃と、それに伴い事務所内で多くの者の目に触れたウィルヘルムの醜態は、いまや口にする事も憚られる禁忌と化していた。そんな事はこの事務所に務める者なら誰でも承知していた筈だったのに、生真面目さと気弱さからくる義務感が、束の間男にそれを忘れさせてしまったらしい。
周囲にとばっちりがあってもおかしくないとあって、報告を行った迂闊な男に、舌打ちでもせんばかりに忌々しげな眼差しが、扉脇に立つ一人から送られる。あいつは終わったな、と心の中で思っていたかもしれない。最もそう思っていたのは、しでかした当人だろうが。
動揺をまるで隠せていない顔に大量の冷や汗を垂れ流しながら、男は革製のメモ帳を無意味にぱらぱらと捲った。
「でで、では。わ私どもでたいお、応対しておきますのでっ」
「最初からそうしておけば良いのだ。いちいちこの私を煩わせるな、揃いも揃って気の利かない連中め。適当に手土産でも持たせておけ、それで喜んで帰るだろうよ」
「は、はっ!」
平伏する勢いで男は頭を下げたが、話が終わってもその場を去ろうとはしない。まだ何かあるのかと再び不機嫌になりかけたウィルヘルムに、彼は一層怯えながらも口を開いた。途中で仕事を放り出す訳にはいかない事情があるとはいえ、見た目よりは気丈なようであった。
「……冥府から今月の会報が届きまして、それによれば事務所査定の時期だという事でございます」
「……査定? ああ、あれか。それこそ言う意味がないだろうに、本物の馬鹿か貴様は」
「も、申し訳ございません。栄えある新月の一族、その正統なる筋であらせられる我らがウィルヘルム様。仰せの通り、ご報告どころか一考する事すら無意味ではございますが、お耳にだけは入れておきたく存じまして。ヴァイオレット様の事務所では、今年は勝利をお譲りになられるそうでございます」
「ああ、妾の親友だかを上に行かせたいの何のと言っていたからな。結果が出たら一筆祝辞を送らねばなるまい。それらしい文を考えておけ」
ウィルヘルムは幾らか機嫌を直し、銀の皿に盛られていた干し魚の細切れを嘴で摘むと、放り上げて飲み込んだ。ほぐれやすい肉質と塩の効いた濃い味が好ましい。カラスは強い味付けのものを好む。彼も例外ではない。
まだ昼さえ遠い時刻であるが、早くもウィルヘルムは酒が恋しくなってきた。この巨大な事務所は彼の城であり、何をしようが咎める者も咎められる者も存在しない。 帝王とはそうしたもの。それこそが生まれながらに恵まれた、一握りの高貴な者達の特権であると彼は信じて疑っていなかった。
確か先週贈られたままになっていたワインがあったなと思い出したウィルヘルムが体を起こすのとほぼ同時に、扉が正確な間隔を置いてノックされる。主がまた機嫌を損ねはしないかと神経を尖らせながら、扉脇の一人がそっとドアノブを回し、僅かに開いた隙間から小声で相手と囁き交わす。
「ウィルヘルム様、イザベラ様が間もなくご到着になられるとの事です。
午後2時からの予定が早まって悪いが、と……」
「おお、そうかそうか!
おい、おい何をしている! 早急に我が翼を整えよ! 艶出しの香油を持て!」
耳障りな呼び声に、メイク係が大急ぎで飛んでくる。主と同格の高貴なる来客を迎える支度をすべく、数名が言葉を交わしつつ慌ただしく駆け回り始めた。
ウィルヘルムは、満足そうにその様子を眺めた。こうでなくてはならない。新月の一族である自分が出迎えるのは、それに相応しい価値ある者でなければ。愛想良く挨拶を述べる練習を始めた時には、もう査定の件など彼の頭からは完全に消えていた。




