駆け抜けるビクトリーロード - 4
「…………うん、だから戻すってば」
「その通りだとも。戻そう」
「………………」
にこやかな表情で、戻そう戻そうと壊れたスピーカーのように同じ言葉を繰り返す西園寺に、とうとう意思疎通不可能な域まで本格的にイカれたかとカーラは戦慄した。それとも自分が何か聞き逃しているのかと、必死に先程までの会話内容を振り返ってみたが、西園寺が潔く勝負を諦めて現職務を全うしたいと思えそうな要素は、上下逆さにして振っても落ちてきそうになかった。
カーラは黙っている。少年も黙っている。西園寺も微笑を浮かべながら、やはり黙っている。不可解さが生む静寂が事務所内に落ちようとした寸前、ひとつの不機嫌な声がそれを遮った。
「おい」
それは、唯一これまで反応らしい反応を示さず、また西園寺も反応を伺おうとしていなかった真神だった。いつの間に一同に向けられていたのかさえ定かではない顔は、最早不機嫌を通り越して凶悪と呼べるまでになっている。人一人くらいなら射殺せそうな灰色の視線に、西園寺は真正面から快活な視線を叩き付け、そして叫んだ。
「西園寺死ん太郎デス彦(26)ニックネーム『ゼロ』だ!」
「……何故名乗る」
「うむ、君はおそらく次に『そこの馬鹿』とでも言うだろうと思ったのでな。私には既に死神としての正式な名前があるのだよ。括弧以下を外せば申し分ないとカーラ嬢も言っている」
「そうか。では西園寺死ん太郎デス彦(26)ニックネーム『ゼロ』、余計な事はするな」
「却下だ! これは先回りできなかったな、はっはっはっはっは!!」
「ちょ――ちょっとちょっと待って。二人だけで通じ合ってないで、え、何? どういう事?」
会話についていけず、あたふたとカーラは狼狽える。
真神の怠惰と怠慢はいつもの事。とはいえ今回に限っては、西園寺は特別何かを企んだ訳ではない。この事務所が許されたたったひとつの仕事を、やるぞと改めて宣言しただけだ。
この男が逆境に置かれて特別何も企んでいないという事が既に特別なのかもしれないが、よしんばそこに違和感を覚えたのだとしても、嫌な予感がする程度ではわざわざ真神は介入してこないだろう。
踏み込んできたという事は、つまり何かが明確に見えたという事だ。これから起ころうとしている、西園寺が起こそうとしている、間違いなく面倒臭くて迷惑極まるビジョンが、真神には。
「魂を回収してプラスに出来ないのであれば、魂を戻して相手をマイナスに落としてやればいい。回収する筈の魂が回収出来ないどころか元の肉体に戻っているのなら、それはゼロにすらならん。
ゼロとマイナスならマイナスの方が負けだ。よって、うちが勝つ」
「――ば」
固唾を呑んで成り行きを見守っていたカーラの嘴が、その時、限界まで開いた。
「バカかああああああああああああああああああああ!?!!?」
迸る絶叫の後半は、ほとんどカラスの鳴き声と化していた。うわあ、と声に驚いた少年が釣られて声をあげる。束の間本当に言語を忘れていたのだとしても、この瞬間のカーラの驚きには足りまい。
「おまっ、おまえっ、おま――自分が何言ってんのか分かってる!?」
「勝とうと言っている」
「そこじゃねえ!!
あんたのソレの対象になるのは、手違いで魂を抜かれた人間じゃない。予定通りに死ぬ人間まで勝手に生き返らせるって事なんだよ!? それも、それも、こんな馬鹿げた試みの為に!」
「生き返ると言っても一時的にだろう。勝敗が決するその日の終わりまで引っ込んでいてくれれば良い。そもそも『査定当日に死亡した人間を、得点目的で生き返らせてはならない』という規則があるのかね?」
「規則に定めるまでもない常識だろそんな事!
聞かなくてもやっちゃ駄目って分かる事はいちいち定めねーよ!」
「そうでもないさ。でなければ、キリンを連れてスーパーに入るなという類の法を定めたがる人間など生まれまい。それで、どうなのだね真神くん? 直接的にしろ間接的にしろ、私の言った行為を禁じる法はあるのか?
いや、君が止めにきたのだ。ならば聞くまでもあるまいな!」
「無い」
「見たまえカーラ嬢! 無い、即ち実行可能という事だ!」
得意気に言い放つ西園寺に、カーラは全身から力が抜けていく思いだった。
今の心情を一言で表すのならば、こうなる。
嘘だろ、と。
だが、現に真神は否定していない。それどころか、否定する事で肯定してしまった。
禁止されていなくても、やろうとする者など普通いない。しかしやる者がいなかろうと、禁止はされていないのだ。
今になって西園寺の発言がもたらした事の重大さを理解し、衝撃がじわじわとカーラの全身に染み渡る。それでもカーラは必死に抵抗した。なぜこうまで認めるのを拒むのか自分でもはっきりとは分からなかったのだが、これに納得してしまったら、誕生から今日まで植え付けられてきた価値観が根底から破壊されてしまうようで。
「な……無いって事と、実行可能って事と、実行して意味があるかって事は全部違うだろ!? もしも、もしもあんたの言うやり方で勝つ……勝ったように見えたとしたってだよ? 肝心の判断をする上層部が、それでオーケーとしなくちゃ無駄になる。自己満足の数字遊びで終わりだ!」
「最終的な魂の数以外に、増加及び『減少』の過程は勝敗判定に影響するのかね? 真神くん」
「勝敗の判定は最も労力を割かずに済む、純粋な数の大小比較のみで行われる。過去に数以外の要素で勝敗が決した例は一切無い」
「結構! 生き字引きのようだな君は!」
これであらゆる憂いは晴れたとばかりに、西園寺の瞳は既に決戦当日を見ている。隣できょとんとしている少年をフォローしてやる余裕すら、今のカーラからは消えていた。
だって、これでは――。
融通のきかない世界。がんじがらめの紐の中。
究極の事なかれ主義こそが、実はまるで究極の自由であったかのようではないか。
「ひ、引き算まではしてくれるかもしれないったってさあ……。
ゼロの下のマイナスカウントしてくれる保証まではさすがに……ないんじゃない?」
「なければ真神くんがとうに言っていると思うが」
「うぐ……そ、そうだ!
やるにしたって、向こうより先に魂を見付けて片っ端から戻してかなきゃいけないんだよ! どうするのさ!?」
「頑張らねばな」
「精神論やめろボケッ! 人手足りねーし一日しかないんだぞ!」
「逆だ。一日という短期決戦で、かつ相手が油断しきっているから畳み込める。長期なら競り負ける」
「だとしたって追いつく訳がない!
スタートして暫くは何とかなっても、あっちが気付けば抵抗してくる。そうなりゃ数で押される。囲まれて妨害されて、あっという間だ。最初にリードした分なんてあっさり消し飛ぶ。相手が何人抱えてると思ってんだ!」
「何人いる?」
「合わせて60だよ阿呆!」
「ならば、私が61人分働こう。それで勝てる」
へなへなと、カーラの翼が落ちた。
「……阿呆」
掠れ声で呟いたきり、放心したようにカーラは動かなくなる。
慌てた少年が名を呼びながらゆさゆさと体を揺さぶるが、ぐったりと脱力したカーラは無反応。それは、万策尽きて諦めた者の反応である。だが、それだけではない事に本人ですら気付いているかどうか。
極度の呆れがもたらす虚脱。逃れられない運命を悟り襲われる、途方もない無力感。それらに混ざって、決して開く筈のなかった扉が目の前で突然こじ開けられ、差し込む光明と開けた景色に、感極まって打ちのめされた部分が紛れもなく存在したという事に。
真神が、がたりと席を立った。
ハッと我に返ったカーラが少年の手を押し退け、去っていく背に縋るようにして叫ぶ。
「まって。待って待って待って所長。ほんと今寝に行くのはやめて。お願いです止めて。てゆーか何で正直に禁止されてないって言っちゃったんです!? あるって言っとけばそれで済んだのに!」
「嘘をつくのが面倒だったからではないか?」
「おめーは黙ってろ! しょちょー!」
「もう止めた。俺は知らん事だ」
背を向けたまま、真神が言った。
「俺がどう答えたかなど無意味だ。そこのそれが動いた時点で、俺の返答など関係がない。俺が何を答えようが、どんな法が敷かれていようが、動いたならそれはやる。違うか?」
「ううぅ……」
「茶坊主の修行も、くだらん蹴落とし合いも、貴様らで勝手にやればいい。こうなれば、余計な事をするなと命じる事自体が最早余計で無駄だ。
どうなろうと俺は何もしない。俺には関係ない」
無愛想な音を立てて、扉が閉じた。




