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駆け抜けるビクトリーロード - 2

アメンボのような格好で張り付いていた天井からどうにか引き剥がされた少年は、ソファに戻るのも忘れて床に尻をついていた。日頃は前向きで明るいその口から、珍しく細い溜息がこぼれる。


「はあ……やっぱりボク、向いてないんでしょうか……」


西園寺の無謀な振る舞いによって死神としての穴を埋められ、晴れて他と同じ完全な候補生となった少年だが、いかんせん修正された身であるが故の問題が山積みであった。

候補生とはいえ、死神は死神。正常な個体であれば、生まれながらに基礎的な力は一通り有している。たとえ行使する事はなくとも、ただ存在しているだけで、普通に暮らしているだけで、いずれ開花する為の下地は勝手に整っていくのである。言うなれば、雛鳥が巣立ちと共に飛べるようになるのと等しい。親鳥に見守られての多少の訓練は必要だとしても、飛ぶ為の基礎は、鳥に生まれた時点で全て持っている。死神の能力とはそうしたもの。種としての固有の力なのだ。

飛ぶ事ができないのは、生まれつき翼が曲がっている、羽根が足りない、筋力に乏しい、そういった欠陥個体だ。それがある日突然、人工の完璧な翼を手に入れましたといっても、それこそ生まれたての目も開いていない赤剥けの雛に、さあ飛べと求めるようなもの。

力を使う事。死神としての名前を得る事。それ以前に、このような異例の経緯から正式な登録など可能なのか。少年に与えられた課題は果てしない。むしろ、これからが本番だと言える。


「欠陥品としての穴が修復されたからって、すぐに死神になれるワケじゃないよ」


もはやその話をタブー視する事もなく、ソファの肘掛けに留まったカーラが足で首筋を掻きながら言う。


「死神になれたんじゃなくて、完全な候補生になれた、ってのが正確な話だからね、いい? あんたはやっとスタートラインに立てた状態なんだ。他所の子が生まれながらにいた位置に、やっと立ったの。……っつーか、今まで壊れたまま生きてきて変なクセが付いちまってる分、そいつらより不利さね」

「焦るな、とカーラ嬢は励ましているようだぞ少年」

「やかましい。とにかくこっからは実務の事も学ばなきゃならねーんだから、せいぜい気張りなよ」

「はいっ!」


お茶汲みと掃除だけだった、今までとは違う。

気落ちしていたのは僅かの間で、少年はすぐさま立ち直ると、ぴんと背筋を伸ばしていい返事をした。

死神の候補生は、基本は一律に等しい能力を持って生まれる。そこから各事務所へ適正に分配、配属され、先輩に当たる死神達の指導のもと仕事を学び、時至れば名前を得て正規の死神として役に就く事となる。ちょうど実習生やインターン期間といったところだが、人間とは違ってこちらに職業選択の自由はない。存在が職業なのだから、選びようがないのである。


「ただまァ、学ぶっつってもウチはなあ……」


明るくなりかけた雰囲気に水を差すように、カーラが渋い声を出す。

そう、その問題があった。学ぼうにも環境が最悪である。

他の事務所であれば、候補生を受け入れ、教育し、仕事を手伝わせる為の人員もマニュアルも整っている。事務所の規模による差こそあれ、最低限の箱はどこでも持っているのである。

ところがここは、仕事など期待されておらず、よって人員も増やされず、まして教育体制など望むべくもない。外れ者達の吹き溜まり。本当に、ただあるだけの事務所なのだから。

だが折角修復されたのだ、できればちゃんとした仕事を教えてやりたいとカーラは考えた。これまでは何も知らないまま健気に日々雑務をこなす同類を哀れむだけで、そんな気持ちを抱いた事さえなかったが、変わりつつある事務所の空気に当てられたのか、いつしか白羽根混じりの鴉にも変化が訪れていたのである。


思わせぶりに、ちらりと真神を見るカーラ。

この中で、死神として最もまともなのはあの男だ。普段の勤務態度はともかく、正統な教育を行うとなると適任なのは真神しかおるまい。


「他所に転属するという手がある」

「そんな!」

「ちょ、ちょっと所長ってば」


目線で振った結果思わぬ方向に話が逸れてしまい、カーラは焦って止めに入った。同時にあがる少年の悲鳴じみた高い声に、これでは自分達が追い出しにかかっているようではないかと思いながら。

真神に限ればあながち外れでもないのだろうが、多分に厄介払いの意図が含まれていようと、彼が決して、それだけで他の事務所へ行けと言った訳ではないのはカーラにも分かっていた。むしろこの事務所の現状を鑑みれば、その提案こそ妥当であり最良に近い選択なのだという事もである。何もない所で四苦八苦するよりも、既にノウハウの完成している所で教育を受けた方が、候補生としてまともになれた少年にとっては手っ取り早くて確実だ。早いだけでなく、正しい方向に伸びるだろう。

転属するという選択肢は、間違ってはいない。


「嫌です!」


が、カーラが先を言うより早く、当の少年が珍しくきっぱりとそれを拒絶した。動かされまいとしたのか、座ったままがしっとテーブルの脚にしがみ付いたのは、あまり意味がないが。


「ボ、ボクはここでカーラさん達と一緒がいいです! 違う事務所に送られちゃうなんてイヤですよう!」

「あー落ち着きな、まだそうすると決まった訳じゃあ……」

「それに治ったっていっても、ほら、ボクは元々お荷物だったんです。今更どこかに入れてくださいって言っても、受け入れてもらえないんじゃないでしょうか」

「あんたそれ自分で言うなよ。私が欠陥品って言うのとは訳が違うんだぞ」

「うぅ……だ、だって、そのぐらい主張しなきゃ本当にどこかにやられちゃうかと思って……!」

「わかったわかった、そんな興奮せんでも好きにすりゃいいさね。メリットなーんもねぇけどな。ですよね所長? 何も無理して追い出す必要はないんじゃないかっていうか」

「知るか。最初からそうしたいなら俺に話を振るな、面倒だ」


だそうだ、と、何やら涙目になりつつある少年を、ばさばさと翼を振ってカーラは宥めた。

基本的には真神にもカーラにも従順な少年であるが、案外強情な面もある。損な役回りを厭う性格ではなくとも、譲れない線はあるようだった。事務所の為に犠牲になる事は受け入れられても、離れるのは否、という事か。

それでも真神が命じれば少年に拒否権はないが、当の事務所長は二度と口を開くかとばかりに、半開きの目で虚空を見詰めていた。夏場の道端に落ちている蝉の方がまだ活力がある。


「ま、のんびりやる事さね」

「はい! あっ、じゃあボクお茶淹れてきますね! そろそろ三時ですし!」


少年はたちまち元気を取り戻し、ぱっと立ち上がるやパタパタと足音を響かせて台所へ駆けていった。

泣いたカラスがもう笑う、か。カーラは苦笑混じりにそう呟いた。まったく現金なものだ。

少年を留めた事で、手間が増えて苦労するのは主にカーラである。真神ではないが、少年の成長面と自分達の負担、メリットだけを取るなら他所に預けてしまうのが最も良い。それでは掃除をする者がいなくなるだとか、お茶を淹れる者がいなくなるだとかは問題ではなかった。元々それらは、何もする事がなかった少年用に無理をして作り出した仕事だからだ。

食わずとも飲まずとも、死神は死なない。

そして真神などは、放っておけば自分からは何ひとつ口にしようとしないだろう。

つまりは、少年が来るより前に戻るだけ。

そこをあえて、カーラは自ら面倒を引っ被りに行った。

少年は、わざわざ目指す地点への遠回りを選んだ。

しかしそれもいいさと、今のカーラは考えている。一人前の死神になるのに時間がかかろうとかかるまいと、どのみち永久に時が停止し続けているような、この落ちこぼれ事務所では同じ事。特別急ぐ必要もなく、ならば少年が一番満足できる方法で進んでいけばいいのだ。今となっては、あの明るさもこの澱んだ空間の清涼剤となっている。

未来が閉ざされているのを知りながら見るそれは痛々しいばかりだったが、こうなれば本当の光だ。日々目の当たりにする側が、やり切れなさを隠す必要もなくなった。


「時にカーラ嬢、先程訪ねてきたのは誰だね?」


頃合いと見るように西園寺に問われ、カーラはうっかり中断しっぱなしになっていた本来の用件を思い出した。滅多にない来客の応対は少年の仕事だが、今日は飛行訓練の最中だったのでカーラが出たのである。


「ああそうそう、今月分の会報ですよ所長。見ます?」


と右の翼を一振りしつつ報告。案の定、真神からの返事はない。

真神が無関心なのはいつもの事だったので、カーラは机に近付こうとさえせず、現れた会報をぱらぱら捲っていく。

主だった人事異動の発表。だからどうした。

スポット・今月の死者数と先月との比較。ただ比べるだけのデータに何か意味があるのか。

某国における死神の活動状況。別に海外出張する機会ないのにそんな事を知っても。

流し読みした内容は概ねそうしたもの。官製の会報だから仕方ないとはいえ、やはり毎号退屈で代わり映えしない。

西園寺は、横から覗き込むような真似はしてこなかった。関心があるのには違いないが、カーラが読み終えるのをおとなしく待っている。そういったマナーは心得ているのが妙に腹立たしい。


「会報があったのか。この事務所には置いていないようだが」

「そりゃ読んだら破棄しちまってるからさ。

いつ見ても中身の変わらんような本なんか、取っといても邪魔になるだけだし」

「成る程、そうした傾向の会報か。

だとしてもせめて過去3年間のバックナンバーは保管しておいてほしかったものだな。私の為に」

「知らねーよいきなり死んどいて。

これもねえ、どうせなら誰かさん一押しの酒場でも紹介してくれれば、まだ読む気になるんだけど。行く機会がないのは海外云々と同じでもさ、少なくとも数字とグラフと文字の羅列よりはマシってもん……っと」


カーラが、白羽根がぱらぱらと生えた目を瞬かせる。


「ああ、そういやそろそろ査定の時期なんだね今年も」

「カーラ嬢、査定とは?」


耳聡く西園寺が質問する。

ん、とカーラが横目を向けた。僅かに首が傾ぐ。


「簡単に言やぁ、事務所同士の格付け合戦だよ。

一日かけて競争して、成績優秀な所が上に行く。競争原理ってやつさね、一応」

「ほほう、素晴らしい!

では、その戦争に参加して我が事務所も上を目指そうではないか。機は熟せり、いざ飛躍の時だぞ諸君!」

「あー無理無理、それ無理。うちじゃ無理」


俄然活気付き、がばっとソファから立ち上がる西園寺を、カーラの普段以上に冷めた声が制した。

右の翼を振って会報を消し去るカーラを、自信に満ちたというより自信しかない朗らかな笑顔で西園寺が見下ろす。


「そんな事はないぞ、やってみせるとも! そこに勝ち負けを競う場が用意されているのならば、この私、西園寺死ん太郎デス彦(26)ニックネーム『ゼロ』(正式名)は必ず勝つ!」

「そのカッコセイシキメイカッコトジル要らないだろ……。

意気込むのは結構だけど、こればっかりはあんたでもどうにもならないって。何せ参加資格が無いんじゃね」

「公的な競争に参加資格が無いだと? それはどういう――」

「皆さん、お茶が入りましたよー!

あのですねあの、今日のお茶菓子はちょっぴり特別な……あれっ? お取込み中ですか?」

「……ふむ、その話は後にしよう。まずは少年の心尽くし、冷める前に頂こうではないか」


言って、ぱちんぱちんと西園寺は短く指を鳴らした。

そんな仕草でさえ、いちいち様になっている。壁の時計は午後三時を示していた。


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