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ブースト要らずのスタートダッシュ - 2

ふわりふわりと空中を移動していくのは、なんとも言えず不可思議な心地であった。飛んでいるといっても、別段、腕を翼のように羽ばたかせている等の努力をしている訳でもなく、あちらへ行きたいと念じれば、すうっと身体が動いている。

移動の際の感覚も、飛行機、ヘリ、スカイダイビング、ジェットコースター、それら諸々いずれとも違っていた。風も感じなければ、内臓が持ち上がる気持ち悪さもない。これが魂なのだと、納得する他はなかった。

あるいはカラスの羽ばたきにも、さしたる意味はないのかもしれない。


「気分はどうだい?」

「悪くない。生身で空を飛ぶというのは、私も初めてな経験で新鮮だ」

「そりゃ初めてじゃなきゃ困るよ」


当たり前の事を再確認しつつ、一人と一羽は更に進む。

やがて眼下に、雑多な建物群が見えてきた。

幾らか斜めに旋回しながら、カラスが西園寺を振り返る。


「もうじき着くよ」

「ふむ、しかしここは、私の記憶によると錦糸町ではないのか?」

「そうだよ。天国がお空の上に、地獄が地底深くにあるんだから、それらを振り分ける冥府はド真ん中の地上にある。何もおかしくはないさね」

「確かに。そして多くの人間は地上で死ぬのだから、回収という点でも理に適っているな」


くいと西園寺が顎を捻っていると、ひとつ大きく羽ばたいて、カラスが宙に停止した。

追って、彼も止まる。


「あれだ」


カラスが左の翼を広げた下には、小汚い4階建ての雑居ビルが、他のビルの隙間にひっそりと建っていた。

全く掃除がされていないのか、外壁は埃で鼠色に薄汚れ、所によっては得体の知れない蔦が這い登り、最悪と断言できる日当たりの悪さも相俟って、十年単位で放置された廃ビルにさえ見える。2階と3階部分にはテナントらしき看板があるが、それとて本当に入居者がいるのか定かではない有様。

そもそも冥府云々の関連施設に、テナントが入っている時点で何かが間違っている。さしもの西園寺も、眉を顰めた。驚いたというよりは、単に確認したい事ができたという様子であったが。


「魂を統括する施設にしては、小さなビルだな」

「や、ビルじゃないよ。あのビルの4階、そこがうちの事務所だ」

「なるほど。ひとつの疑問は解決したが、それにより私のもうひとつの疑問は更に深まった。4階のみとすると、ますます小さすぎはしないだろうか。

そして、うちの、とは?」

「……本当は着いてから説明しようと思ってたけど、話がこじれそうだから先に言っとこうかね」

「それがいい、生じた疑問は、解決できるならその場で解決するのが最適だ」


説明が長くなりそうだと見たのか、カラスの足元に再びあの円盤が出現する。


「まず冥府っていっても、その実態は大小の組織の集合体だ。

本部の下に支部があり、支部の下にはまた支部があり……ってな感じでね、子会社孫会社みたいに分かれてる。単純にでっかい建物がひとつドォーンとおっ建ってて、そこで全部執り行ってる訳じゃないのさ。

そしてうちは、それらの中でも最底辺の弱小零細事務所になる」


そう聞かされても特に動揺も見せない西園寺をじっと眺めて、カラスは更に先を続ける。


「……なんでそんな所に自分が、って思わないかい?

逆さ、うちぐらいしか引き取り手が無かったんだよ。押し付けられに押し付けられまくった挙句、とうとう他のどこにも押し付けようがない、どん底のうちまで回ってきたってこと」

「ふうむ、厄介事を恐れた、という事かな」

「恐れたって……まあ、嫌がったんだね。どこも忙しいから。

我々生まれつきの住民と違って、あんたは冥府に関して何も知りゃしない。

ましてや人間だ。そりゃどこだって受け入れたくなんかないさ」

「人の魂を扱う立場の者が、なぜ人を嫌がるのだろうか?」

「あんたらは牛や豚を食べるが、牛や豚が自分の職場に来て一緒に働き出したら困るだろうが」

「残念ながら私の元に牛や豚が雇用を求めて訪れた事はなかったが、意思疎通に問題がなく能力が充分と判断すれば、人と代わらぬ待遇で採用するようにと伝達はしてある」

「……あんたに同意を求めるだけ無駄だったね……」


へにゃ、と首を曲げてカラスが萎れた。

最初から疲れていた声が、会話が進むにつれて輪をかけて疲れてきている。もっとも西園寺と話した常識人は大概がこれに近い反応を示すので、殊更カラスの適応力が乏しい訳ではない。

すぐにカラスは、気を取り直したように頭を上げた。同時に、足場となっていた円盤も消滅する。

力強い羽ばたきを再開しながら、カラスは言った。


「あんたがうちに来た経緯は、そんなとこ。

仕事内容については、中で所長から説明があるから」

「所長殿か、どのような方だね?」

「……あー……会えば分かるよ、嫌でも。

昔は中央にいて、なんかやらかして飛ばされたんだって聞くけど、どうだろうね。詳しくは知らないんだ。……さ、説明終了、もう行くよ」


カラスは身を捻り、下のビル目指して降りていった。

西園寺は腕組みをしたまま、エレベーターにでも乗っているかのように直立姿勢で降下していく。慣れんの早すぎだろ、と、螺旋状に飛びながらカラスは改めて呆れていた。


到着したビル内部は、外観に相応しい様相を呈していた。

つまりはオンボロで、汚かった。上にあがる手段は狭い階段しかなく、その階段も砂と埃とタバコの吸殻と、何故か生米などが散らばって汚れ放題であった。階段に沿った内壁には、こぼれた油を暫く放置してから拭き取った後のような染みが広範囲に渡って広がり、場所を選んで壊せば死体のひとつやふたつ埋められているのではないかと疑わせる雰囲気がある。

途中の階で郵便物らしき物が目に入った時は、西園寺も足を止めた。


「外に看板があったが、このビルは使われているのか?」

「下は普通に人間が使ってるよ。うちみたいな所が、専用ビルなんて持てる訳ないしね」


両足を揃えてぴょんぴょんと階段を跳ねて上がっていくカラスに、西園寺も続く。

最上階である4階のフロア――というか薄暗くて狭い廊下には、飾り気のない扉がひとつだけ付いていた。意外にも、扉の窓からは明るい光が漏れている。あるいは生きている人間には見えない光なのかもしれないが、既に死んでしまっている彼には、それを己が目で確かめる手段はない。

翼を嘴に当てて、こほん、と咳払いをし、思い出したようにカラスが西園寺を振り返って睨む。


「いいかい、神妙にしといとくれよ。初顔会わせなんだから」

「私はいついかなる時も、その時取るのに相応しい態度をとる、それだけだ」


自信を持って胸を張る西園寺に、どこがだ、とカラスが小さく言った。

鳥の背中に諦観を漂わせつつ、扉に向き直る。


「……えー、戻りましたー、開けてくだっせーい……」


カラスが翼の先端で、とん、とん、と扉を叩くと、ちょうど本が出現した時のように、扉全体がぼうと淡く光った。曇った半透明になった扉を、カラスが擦り抜ける。それを見て、西園寺もまた躊躇なく扉に突っ込んでいった。

ふたりが通り抜けてしまうと、扉が一瞬強く輝く。

振り向けば、そこには最初見た時と同じ、何の変哲もない無愛想な灰色の扉があるだけだった。

視線を前に戻す。ちょこちょこ交互に足を出して歩いていくカラスを追いつつ、西園寺は素早く室内に目を巡らせる。

そこは事務所と呼ぶには、あまりにもお粗末であった。

あるものといえば安そうなソファにテーブルに、本棚に電灯、ブラインド付きの窓。ビルの幅に忠実に大して広くもなく、本当にただの個人事務所といった風である。

薄汚い外観に反して、事務所内部は意外なほど整理整頓が行き届いていたものの、少なくとも、魂を扱う場所としての厳粛さを見出すのは困難である。

彼の目が、大きな窓に近い一箇所で止まった。


「どうも所長、連れてきました。この男です」


カラスの言葉に、窓際に置かれた室内唯一の机にいた人影が、椅子ごと振り返った。今まで眺めていた窓の外の景色を反映するかのように、億劫そうに半目になった、その瞳は灰色がかっている。

所長とカラスが呼んだのは、外見だけならば人間と変わらない男であった。

中途半端な長髪に黒スーツ、目の前にいる相手全てを鬱陶しがっているかのような面構えは、見た目で人は判断できないとはいえ、大概の者が見ただけで関わるのを避けるであろう負のオーラを放っていた。

寄るな危険、あるいは猛犬に注意。

年齢は、よく分からなかった。聞かれれば、20歳から30歳代くらいと、多くの人が迷いながら答えるだろう。こうしている間でさえ、ひどく若々しくも見えれば、それなりに年を重ねても見える。


「魂を迎えに行った気分はどうだ? カーラ」

「……あー、どうって事はない、って感じですかね。ええ、たいして違いはありゃしません。

ほれあんた、こちら、うちの所長の真神さん。ご挨拶しな」

「そうか、カラスのお嬢さんの名前はカーラというのだね」

「いや名前はいーから、挨拶」

「君がここの所長か、私は西園寺貴彦という。よろしく、真神くん!」


ゴブァ、とカラスが嘴から液体を吹き出した。

瞬時に繰り出されたカラスキックが西園寺のこめかみを打ち、なかなかの勢いで仰け反る。

初対面から新入社員に君付けで呼ばれた男はといえば、目の前のそんな光景を底冷えのする目で眺めている。といってもそこに殺意や怒りは感じ取れず、どちらかといえば電池切れで冷えたという方が適切に思えた。

物静かなと言えば聞こえの良い無気力な声が、ほとんど動かない唇から漏れ出る。


「掃き溜めへようこそ。

俺が当事務所所長の真神雄一だ。よろしく」

「自分が勤めている場所をそのように言うものではない。

それは自身だけではなく、カーラ嬢を含めて、ここに携わる者達すべてを侮辱する事になる」

「……あんたちょっと黙ってろって……!」

「カーラ、どこまで話してある?」


臨終間近のセキセイインコのように膨らませた翼を上下させていたカラス――カーラが、はっと真神を見上げた。


「ええっと、お前は今日から死神だー、って事と、うちが最底辺の弱小事務所だって事と、有り体に言ってあんたの置かれた状況はご愁傷様だ、って事です。

あれ? これ最後の言ったっけ?」

「最後のは聞いていないな」

「だそうです、そんな感じです。仕事内容は所長から説明お願いします」

「では説明しよう。西園寺貴彦、お前は何もしなくていい。以上、説明完了だ」


一瞬の静寂が、一部屋だけの事務所内に落ちた。

そろそろと、カーラが真神の表情を伺う。


「……あのー……所長……」

「何もしなくていい、とは、聞いたままの意味だろうか?」

「聞いたままの意味だ。むしろ、何もするな。

仕事は今まで通りカーラにやってもらう。お前は仕事以外の事をしていろ、それで全て上手く回る」

「そうはいかないよ、真神くん。

私は死神という役割を課せられたのだ、ならば全力で取り組まねばならない」

「全力で何もしない事に取り組め、西園寺貴彦。

というか説明完了以降の会話に意味があるのか? 面倒だ」


怠そうに頭を逆に傾けた表紙に、ぐぎ、と真神の首が鳴った。

ばさりと羽ばたいて、カーラがテーブルに乗る。


「やー……なにもすんな、はさすがにマズいですよ、所長」

「何がまずい。誰もここの仕事を監督などしていない、つまり、何もしなくていい。分かりきった事を聞いて会話量を増やすな」

「それでもっすねえ……」

「ああーっ!!」


末期の退廃的空気を切り裂き、驚きと喜びに溢れた、キラキラと明るい声がこだまする。

カーラが振り向く。西園寺も振り向く。唯一振り向く必要のないポジションの真神は、片目だけを向けた。仮に背中を向けていたとて、振り向くという動作を選んだかどうかは極めて怪しかったが。

こんな事務所には全くもって似つかわしくない、一人の少年がそこに立っていた。部屋の構造からして、台所にいたのが、話し声を聞きつけて出てきたらしい。事実その手には、茶飲み盆を抱えている。

声に恥じない、純粋さを絵に描いたような瞳。緩くウェーブがかった細い髪。そのまま世界名作劇場に登場できそうな出で立ちの少年は、両手で持っていたお盆を棚に乗せると、固まって立つ大人達に向かい、とたとたと駆け寄ってきた。


「カーラさん、カーラさんっ!

あのっ、この人がっ?」

「ああそうだよサトイモ坊主、哀れなうちの新入りさ」

「ボクはサトイモじゃないですよぅ」


若干唇を尖らせたものの、すぐにパッと明るい顔になって、内部に星でも飛んでいそうな眩い瞳で、カーラと貴彦との間を何度も視線を往復させる。

外見は10歳くらいであろうか、ふっくらとした頬が健康的だ。

じっと見ている西園寺に気付くと、慌てて居住まいを正す。


「あっ、すいません! ボク、ここでお手伝いをさせて頂いてる者です」

「ふむ、見たところ子供のようだが、カーラ嬢の例から考えて子供という訳でもないのだろうな。私は西園寺貴彦という。君の名前は?」

「ボクに名前は無いんです、まだ半人前ですから!

えっと、西園寺さんはいきなり死神なんでしょう? すごいなあ」


候補生はそういうシステムなんだ、と言いつつ、カーラが何故か僅かに目を逸らした。

にこにこと西園寺を見上げながら、少年は興奮を隠せない口調で言う。


「新しい人が来るって聞いて、ボク、すっごく楽しみにしてたんです!

3人だけの事務所も、これで賑やかになるなぁって!」

「3人? 君達の他には誰もいないのかい?」

「そうそう、これで全員だよ。

計3人……あんたも含めりゃ4人か。超のつく弱小零細事務所だって言っただろ?」

「なるほど、心得た」


それを聞いても、やはり西園寺に怯む様子は見られない。

膝を折って少年と目線の高さを合わせると、よろしく、と片手を差し出す。

少年は嬉しさに紅潮した顔で、その手を取った。握手をすると、小さな手はすっぽり包み隠されてしまう。


「君はここで、どういった仕事をしているんだね?」

「はいっ、お掃除と、お茶汲みです!」

「そうか、この事務所内は実に良く整えられている。誇るべき仕事ぶりだ、胸を張るといい」

「えへへ……」


掛け値なしの賞賛を受けて、少年が恥ずかしそうに頭を掻いた。

カーラは何と言っていいのか分からないように、そんなやりとりをテーブル上からぼけっと眺めている。年上の青年が子供を誉める、あって当然な光景だというのに、何だろうか、この曰く表現し難い違和感は。

たぶん馴染みっぷりにあるんだろうなあ、とは、ぼんやり頭に浮かんでいる。

いやあんた、そいつ人間じゃねぇんだぞと。

真神は、先程から無反応を貫いていた。目は開いているが、寝ているのかもしれない。


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