蹴り開けてクローズド - 6
夕暮れが美しい。
初めてあの男が来た日、途方に暮れながら見上げた時のように。
赤い。ただ赤い。くすんでいると言われる都会の空であっても、ふとした拍子に目を向ければ、はっと胸を打たれる事がある。その為には、ああ空はそこにあったのだと、普段は存在ごと忘れているくらいで丁度いい。気付こうと思うからこそ気付ける。意識して他の全てを頭から追い出して、初めて、日頃見ている暇も余裕もない、空の青さと赤さなどというものが入ってくるスペースが出来る。心を空っぽにする瞬間を持てなければ、その翼で空を駆けるカラスであってさえ、いつも自分が羽ばたき生きているのが、あの遥か大空の一部なのであると感じる事すらままならない。
事務所が入るビルの屋上で、カーラは久し振りに思い出していた。
自分が、飛んでいた事を。
鉄柵の上に留まり、かあかあと、やはりあの日と同じように遠くで鳴いている都会のカラス達の声を聞きながら、生きているという実感にカーラは浸っていた。あれを羨ましいと思った事が何度あったか知れないが、今この時ばかりは確かな優位性を感じる。少なくとも、野生のカラスには感慨も高揚感も持ち得まい。苦労するから感動がある、などというお決まりの文句にうっかり賛同してみたくなるのも許そう。
そもそも苦労したのは間違いなくとも、その苦労とは全く別の所で勝手に話が進んで勝手に解決していたのだが。
何かを考えようとしても、ぼんやりするばかりでなかなか纏まらない。そして、そのぼんやりが心地良い。おそらく自分は、羽根を膨らませて嘴を半開きにした、実に間抜けな姿をしているのだろうなあとカーラは思う。
「……いや……なんつーか……」
隣にいる西園寺を意識しながら、顔は正面に向けたまま、極めてやり辛そうにカーラが口ごもる。
後ろ手を組み背筋を伸ばしたその輪郭は、夕日の光を尽く跳ね除けるかのように強い。
西園寺を屋上に誘ったのはカーラだった。あの騒ぎの後で事務所に戻り、そこで更にまた一悶着、二悶着とあり、目を回して卒倒しそうな時間もだがしかしようやく峠を越えて、僅かに生まれた苦情と抗議と罵倒と確認の合間の空白。こうして屋上に出るついでに西園寺に声をかけてみたのはいいものの、珍しく上を向いてみた途端、赤々と燃える太陽に目を奪われて動けなくなってしまった。
暫しの無言から声をひねり出したはいいが、続くうまい言葉が出てこない事にカーラは苦労している。
というよりは、見付かっているが言いたくないのかもしれない。
おまけにこういう時に限って、あれだけやかましい西園寺が無言を保っている。
せめて今日の己の功績を通常営業で喚き立てていれば、それに便乗してだいぶ話しやすくなるものを、空気を読む事が空気を読まない結果に繋がるのだから、つくづくこの男は一人だけで完結した世界を持っている。
世界の中をもうひとつの世界が歩き回っているとなれば、相容れないのも混乱するのも当然か。
意を決して、カーラは抵抗を跳ね除けると、その先を告げた。
「ちょっと見直したよ、うん。あんた、本当の馬鹿なんだね」
思わぬ形で死神として完全体になった少年の体には、特に問題がない事が確認された。あくまで簡易的なチェックのみを行った現時点では、であるが。
間違っても解決した訳ではない。それどころか導火線に爆薬を振り掛けて火を着けた段階だ。この後事務所に戻ってからも、明日以降も明後日もそのまた次も、当分落ち着く事ないばたばたした日々が続く。
少年には西園寺以上に煩雑な手続きがこれから待っているだろうが、ひとまず、それはいい。
これまでの事を思えば、煩雑であろうと何であろうと、いいのだ。
今日から大変だなと思う。
しかし本当なら、何も起こらなかった筈だった。
大変な事になど、なりたくても永遠になれない筈だったのだ、あの少年は。
苦労は買ってでもしろ云々という。では、どんなに買いたくても買えない苦労はどうすれば良い?
答えは、西園寺に放り投げろ、だ。少なくとも、不完全な死神見習いに関しての結果は保証された。
「まあ、あっちのサトイモ坊主はいいとして……。
あー、あんたはおかしな所とかないのかい? いや頭は別として。
ありゃ一枚を取り込むものなんだろ本来。それを力技で二分割しちまったんだから、ほら、どっかしら調子悪いとことか出てきてたり? きてなかったり? しない?」
「うむ、率直に言ってとても快調だ。つまりいつもと同じという事だな。
これといって変わりはないが、心配痛み入る」
「心配はしとらん、心配は。……うん、そうだね、最初っからおかしかったあんたには半分が適正量なのかもね。坊主は坊主でもともと半分だったんだしさ、これで半分足されて埋まったって事か」
うんうんと納得を数度の頷きで表現しながらも、どことなく感じる歯切れの悪さ。声音に茶化す気配を滲ませる事で、自分は目下の展開にしっかりついていけているのだと、別段、西園寺や少年を普段以上に気に掛けてはいないのだ――と表現している自覚がある為だろう。
身も蓋もない言い方をしてしまえば照れ隠しである。どうも調子が悪いのは西園寺達ではなく自分の方らしいと、カーラは翼をもぞもぞ震わせた。気の利いた嫌味のひとつかふたつ言おうとしても、まずそんな気が起こらない。
きっと、空が晴れすぎているせいだ。あの遠くの雲が今すぐここまで来て、埃くさい一雨をもたらしてくれれば、適当な悪態をついて退散する事が出来るのに。
「カーラ嬢には、申し訳ない結果になってしまった」
気まずさを西園寺の声が一蹴する。かと思えば、それでまた新たに混乱の種を撒き散らしていく辺り、この男の存在の奔放さを表している。
「……何が?」
「君の事も考えてはいたのだが、許可証の使用に当たっては少年を優先させるべきだと判断した。君ならばこの決定を理解し尊重してくれるだろうという確信に基いてとはいえ、私の独断だったのは否めない」
「ああ、何かと思えば羽色の話かい。んなのいいよ、別に」
あんな真似をしでかした事についてはやはりまだ色々言いたいが、変える前提なら少年を優先したのは正しい。そもそも不完全体であった少年とは違い、カーラの能力は職務遂行には何ら不都合がないものである。
問題があったのは容姿のみ。その容姿についても、もう気にしていないと前に西園寺に言った。
むしろ、申し訳ないというのなら謝って欲しい事は他に大量にあるのだが、そちらは謝る必要があるとさえ思っていないのだろう。あれは私の独断だった、に至っては、独断でなかった試しがあったのかと最早突っ込みどころしかない。
考えれば考える程頭が痛くなってくるが、そのズキズキとくる鈍い痛みが、今日だけは不思議と愉快で快かった。
「うむ、君はカラスとして群を抜いた美を誇っているのだから、そう急いで変える必要はあるまいと私も思う」
「……いや、別に変えなくていいって言ったのはそういう意味でじゃなくてね……っていうかまだ美しい言うか」
「だが、コンプレックスは他者の評価だけでは覆せない面がある。次の機会を待ってくれたまえ」
「もう力手に入れたのに何の機会が来るんだよ……はは、でも、あんたならありそうだ」
羽色の事は気にしていないと言ったのに気にしていた西園寺に、笑いが漏れる。
本当のところは気にしていない訳でもなかったのだから、いつものように「ひとの話を聞け」とは言えなかった。
抜けかけた小さな羽根が、駆け上がってきた不意のビル風で頬に張り付く。
自分からは見えないその色は、白なのか、それとも黒なのか。
「……まあ、でも……本当に直さなくてもいい、っかなぁ……」
遠くを見てカーラは呟き、声の余韻を打ち消す為に、急いで羽繕いをする。
白い風切り羽根は、夕焼けの色をほのかに帯びていた。




