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取り戻せないスターダスト - 5

あるのかないのかも定かではない程度の息を、唇の隙間から吐く。

真神は、ベランダに立ちぼんやりと前を眺めている。静まり返った黴臭い通りを臨む表情は厳しげで、その実何を考えているのかは誰にも知りようがない。ただ、近寄り難い。

そのような状態であっても、間近に迫る気配には反応する。極めて緩慢にであるが首を上へ向けかけて、やはりやめた、というように、あるいは小さく舌打ちでもするかのように、また元に戻す。単なる反射的な行為であったのかもしれないが、そうだとしても反応してしまった事自体が不覚なのだろう。

より正確に言うならば、反応してしまった後で、まだこんな事をぐずぐずと考えてしまっている時点で。

あたかも伝承に記される降臨の光景のように、というにはあまりにも無駄に偉そうに過ぎるが、直立姿勢のまま真っ直ぐに降下してきた人影が、真神の正面、ちょうど頭を見下ろせる辺りの位置で静止した。

西園寺だった。

下へ向けられた視線と、もはや上を見ようとさえしていない視線がすれ違う。


「迎えに来たぞ、真神くん!」

「帰れ」

「帰れと言われてもここが今の私の住居だ。それは部屋に戻れという意味かね?」


当たり前の事を聞いて相手の神経を逆撫でしながら、西園寺は件の部屋の方へと目をやった。


「なんだあぁー、お前飲めるのか!?」

「飲めますよぅ、飲まないだけですぅ」


というような片方は酔った、片方は困惑した声が、ここからでは見えない窓を通し微かに聞こえてくる。絡む側と絡まれる側とで生じる問題はあれど、概ね楽しくやっている光景が伝わってくる声音であった。

うむ、と満足そうに細めた目を、西園寺は再び真神へと戻す。


「歓迎会なら、つい先程二度目の歓談の時間を迎えた所だ。つまり次でもう一つ何かを挟んでお開きと相成る。私が思うにこれは真神くん、省略された事務所所長からの挨拶が相応しいのではないだろうか?」

「断る。顔は出した、あれで役目は果たした筈だ、それ以上は無駄で面倒だ」

「そうか、それが君の意思なら私は何も言うまい。

君は、あれを開けるという決意を我々に示してくれたのだからな。この上何をしても無粋になるというものだ」


ひとりで納得し、ひとりで話を進め、ひとりで解決に至ってしまう。いつだろうといつも通りの西園寺の姿に、これといった反論も罵倒も行わず、真神は無言を保った。

気軽に人を寄せ付けない顰め面と相俟って、大抵の者はその沈黙を拒絶として受け取っただろうが。


「ああ、どうしてこの場所が分かったのかと問いたいのかね?

答えよう、我らが事務所が間借りするこのビルの4階外壁部において、唯一ここにだけベランダが存在する。そして事務所内の間取りから、そこの扉と繋がっているのは君の寝室のみだ、真神くん。

ここはあの優秀な少年にとっても不可侵の領域のようだな。掃除も何もされていない為、一見未使用のように思えるが、時折床や手摺りの砂埃の位置にずれが生じていたのを私は見逃していないぞ。確信を得たなら後は簡単だ! タイミングを見計らい、外に出て上から降ってくればいい!」

「無駄に力に馴染むのが早い奴だ」


夜の闇に陰影を一層濃くした真神の顔は、普段とは違った疲れを滲ませて見えた。


「翔ぶのは最低限でいい、俺達のような者は」


イカロスになりたいか、という続きは、声にはならずに終わった。

真神は、西園寺を見ていない。


「あれを開けるのに決意は要らん。

丁度いいと思っただけだ。機会が来たなら、投げてしまえとな」

「流れに身を任せるのにも決意は要るものだ。ここでこれ以上を論ずる気にはならないがね。

さて真神くん、そんな君の為の一杯がここにある」


気取った、だが様になった動作で安っぽいコップを差し出した西園寺に、ここにきて初めて真神は露骨に不快そうに顔を歪めた。目の前の飾り気が無いコップ。それを満たす透明な液体が何であるのかなど、改めて聞くまでもない。


「俺は飲まんと言った筈だ」

「うむ、それは聞いた。何せこれを開けたのだ、その意志は最大限に尊重されるべきだと私は思う。だが同時に、だからこそ最後にもう一度聞いておきたいのだよ。本当に君が飲まなくていいのかね?」

「構わん」

「了解したよ。そして理解した、それが君の、あの酒に込められた心への応え方なのだとな」

「随分ロマンチストなようだな、資本主義の走狗のような男が」

「仕事にロマンは必要不可欠だとも、ロマンとは多くの金と人を動かす原動力となるものだ。時にそれらを根こそぎ奪いもするがね」


西園寺は素直にコップを引っ込めると、その縁を自らの下唇に添える。


「では、この一杯は私が頂くとしよう」

「勝手にしろ」

「私が頂いたという事は、私の好きにしていいという意味になるな」


好きにしていいも何も、この場合の頂くに飲む以外の意味があるのか。

考えたくなくても、思考というのは勝手に走る。耳から入ってきた言葉の意味を考えてしまう。

根が、生真面目であればあるだけ。

真神の心に疑問が差し込まれた時には既に、乾杯、という西園寺の張りのある声が響いていた。

同時に、真神の視界の端を何かが掠めていく。

西園寺の腕だった。無論というべきか、コップを握っていた。

西園寺が腕を大きく空に向かって振り上げ、コップの中身であるところの酒を高々とぶち撒けたのである。

西園寺は笑っている。

真神は無言のまま。

カーラが見ていたら――確実に絶叫していたであろう。


「……何をしている」

「君も知っているだろう、古来より最も大きな盃は天にある。それをほんの少々満たしてやっただけの事。残念ながら今が夜ではないのが風情に欠けるが、なあに、見えないだけで星はあそこに存在しているとも」


西園寺は胸をこれ以上ないほど張って言った。それこそ、反り返って仰向けに倒れそうな程に。オーバーアクションはこの男の常だが、喜劇にしか見えない仕草でさえ、実際に動けば何故か物にしている。

コップ酒を天に放り、星々の形作る盃を満たす。本気なのか、真面目なのか、誰もが聞けば正気を疑う真似を、もしも問われたならば西園寺はこう答えるのだろう。

本気?真面目?何を言っている、私はたった今それをやってのけたばかりだが、と。

西園寺は生まれた時からそういう男であり、永遠にそういう男であった。


「カーラ嬢より初日に聞いているぞ。天国は空の上に、地獄は地底深くにあるのだったな。ならば真神くん、これは天に向かって放るのが最適というものだ、うむ」

「貴様――」


真神の顔に浮かんだ怒りは、瞬時に消えた。

時に感情が抑えを外れたとしても、それを反論や行動に変えるだけの気力を、いまだ真神は有していなかった。

火種はある。されど燃え上がるまでには至らない。

西園寺が放ったコップ一杯分の酒はたちまち散ってしまい、既にどこにも見えはしない。

当然ながら、それは天へと昇っていった訳もなく。


「……地面に落ちたぞ、結局は」

「行く所まで行けば、落ちる事など分かり切っている!

私に酒を無限に上へ飛ばし続ける能力があれば話は違ってくるが、今日はここまでとする他なかろう。死神として力をつければ可能になるのかね?」

「……お前の声を聞いていると頭痛がしてくる。もういい、さっさと戻れ。そんなものは無い」

「うむ、それではやりたい事もやったし失礼しよう! よければ君も後片付けに来るといい!」


意気揚々と言い放つや来た時と同じように垂直に上へ飛び上がり、突風のように西園寺は去っていった。墜落でもしてしまえという一言が去り際に口から出かかったあたり、真神にしては、この騒々しい一時に心を割いていた方だったのだろう。あるいは無理やり割かされたというべきか。

普段ならば無視を貫けた。やり過ごせもした。

僅かとはいえ、その境界を振り切ってしまう材料を西園寺が運んできた。

つくづく余計な真似をしてしまったと、次に真神の苛立ちは己に向かう。

酒など持ち出さなければ、こんな事にはならなかった。しかしあの時は、それでいいだろうという気になった。その気を起こさせた前提となる記憶は、何があっても消えはしない。どれだけ遠ざかっても忘れられはしない。

真神は空を見上げた。都会の空の青は、いつも薄い灰色にくすんでいる。真神自身の瞳のように。


「あそこにいる、か。そんな事は起こりはしないさ。何も残りはしない――」


呟き、下を見る。

散り散りになって落ちていった酒は、どれだけ目を凝らそうと、もう確かめる事が出来なかった。


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