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日澄の空夢

作者: 日光一

冬の朝の冷たい空気が肺に心地良く、目に刺さる陽光が刺激的だった。

 彼女は今日も僕らの世界の片隅で歌っていた。

 病的なまでに細く白い輪郭が僕の目を捉えて離さない。彼女のそんな壊れそうに儚い存在感がとても好きだった。

 彼女の作る世界を壊したくなくて、僕は、彼女の後姿を眺めながら、少しだけ時間を止める。

 煌めき表情を変える光の中で、彼女はやはり幻のように僕には思えた。

 声を掛ければ、手を伸ばせば、存在を定義してしまえば消えてしまいそうな。僕の心がそのことに少しだけ粟立つ。背中を駆け巡る感覚がぴりぴりとして痛かった。

 いつまでも時間は止めていられない。まるで神様にそう言われたように彼女は僕の気配を感じ取って、首を傾け、黒く明瞭に光る瞳を僕に向けた。表面的にはまるでビー玉のようにきらきらとしているのに、その奥深くに広がる漆黒は奈落に等しい深淵を思わせる底知れなさがあった。

 事実、僕は多分彼女について奥深いところまで何も知らないのだろうと思う。無論、他者を真実の意味で全て解することなど、誰にもできないのだとは僕も思うが、それでも彼女はその中でも別格であるように思う。

 「おはよう、早いのね」

 子供の様に、悪戯っぽく淡く微笑む彼女は僕の知る誰よりもおぼろげで、美しく、繊細だった。

 僕は斜め下の地面を見て、おはようと口を開いた。

 僕の言葉に彼女は笑みを崩さないまま首を少し傾ける。その仕草が小動物を思わせて、必要以上に可愛らしかった。

 それだけのことなのに、朝からいいことがありそうだと僕はとても嬉しくなった。

「ねえ、そういえば、貴方は空を知っているのよね?」

 彼女が目線を上に向けて、そこに広がる水色の空を眺めた。急に話題が変わったから、僕は少し驚いて、目を泳がせた。

「そうだね、ここに来る前はそういう生活をしていたから」

 外の世界で生まれた僕は、ずっと中の世界で生活していたという彼女にはとても珍しい存在だったようで、彼女がここに来てから随分とそのことを聞かれた。

 僕も本当に小さな頃のことだったから、多くを知っているわけではないけれど、外の世界の話は彼女の興味を惹いて止まないようだった。

「外だと、食糧も自分で取るの?」

「そうだよ、僕はまだ小さかったから、父さんと母さんが協力して取ってきてくれてた」

 僕は外の食糧事情が如何に大変なものなのかをゆっくりと語った。その度に彼女は感嘆の言葉を漏らし、驚き、納得し、不思議そうに僕の一つ一つの言葉を咀嚼した。

「貴方の話って本当に面白いわ」

「なら、僕も覚えていてよかったと思えるよ。ここに来る前は色々あったから」

 実際に命の保証のない世界だったのだと僕は付け加えた。

「ごめんなさい。そうよね。でも、本物の空を知っているのはとても素晴らしくて素敵なことだと思うわ。いいなあ、私もこの空の下にいつか出てみたい」

 彼女の目の先にはあれから少し時間が経って、青色に変わった空が広がっている。

 僕もその目の先を見上げる。今でも綺麗だとは思う。それでも、この空は残酷で、儚いもので、僕らの世界からはとても遠いものだ。

「ねえ、貴方なら笑わないで聞いてくれるかな?」

「もちろん。どうしたの? 改まって?」

「……あのね、私、いつか外に出てみたいの。願望ではなくて」

「……それは、また、どうして?」

 彼女がそんなことを言い出すとは思っていなかった僕は驚いて、続きを促した。

「どうして……。そうね、理由を考えていなかった」

「理由もなく危険を冒すのはとても無謀に思えるけど? 君はここの生活が嫌いなの?」

「ううん、そういうわけではないの。上手く言葉に出来ないけれど、そうね、この空のことをもっと知りたいと思っているから、かな? 雲が私達の見えない所ではどうなっているのかとか、風の動きはどう違うのかとか、空気の温度はどう感じるのかとかそういう本当に小さなことを私は自分の身体で感じてみたいの」

「なるほど、それは確かにここに居たら分からないことばかりだね」

 僕は彼女の言葉を頭の中で何度も反芻し、頷いた。

「うん、そんなことを考える私は変かな?」

「いいや、変ではないよ。斬新な考え方だと思う」

 そう思ったことを僕は正直に彼女に伝えた。彼女は少し考え込み、寂しそうに目線を遠くに移した。

「いつも皆に話すと、笑われていたわ。でも、何となく、貴方ならそう言ってくれる気がしていたの」

「買いかぶり過ぎだよ。多分僕は外から来てるからってのもある」

 だからこそ、ここでの常識的な考え方から外れたことも受け入れられるだけの価値観がある。

「ねえ、外の世界に行ってみない?」

 予想はしていたが、僕は少し辟易して、首を引いた。

「君、もしかして何か危ないことを考えているんじゃない?」

「あら、付き合ってくれないって私は言っているんだけど?」

「そんなときめく様な意味合いのこもった言葉じゃないことくらい僕でも分かるよ。でも、君がそう提案してくるってことは何か当てがあるってことだね?」

「ええ、耳を貸して」

 こそこそと彼女は命懸けになるはずの方法をまるで、どこかへ遊びに行く計画のように僕に耳打ちした。ただその内容は僕が考えていたよりもずっと現実的で、確かにそれは試す価値のあるように思えた。

「……分かった。君を信じるよ」

 ありがとうと彼女が微笑んでくれたのを見て、僕は言葉だけでなく、決心した。

 時間になった。僕は、その瞬間を見逃さなかった。

 僕らの世界の扉が大きく開かれた。普段は何も思うことも無く再び扉が閉まるまで待っているだけだったけれど、この時ばかりは違った。

 今だと叫んで、扉の裏に居た僕は、彼女の身体を飛び出させた。

 バタバタと大きな音がして、外の世界も平穏を破られたことを悟ったのか慌てた様子が僕にも伝わった。

 しかし、その時にはもう何もかもが遅かった。僕らは身体を滑り出させて、外の世界に飛び出していた。すぐに先に外に出ていた彼女に追いつく。

「やったね、何とかなった」

 興奮した声で、僕は彼女に口を開いた。

「ええ、これが外の世界なのね。何て広いんだろう」

 僕らの眼前には広大な世界が広がっていた。何もかもが大きく、輝いて見えて、眩暈のような感動すら覚えた。

「本当だね。僕もすっかり忘れていた」

「見て! 太陽が、雲が、空があんなに大きい」

 彼女の目の先には彼女が願っていた全てがあった。彼女の顔には中の世界に居た頃のような悲壮感が一切何の痕跡も無く失せていた。

 僕はその表情を見ながらとても嬉しくなり、充足し、やがて不安になった。

 果たして、僕はいつまでこの笑顔を守れるのだろう。胸に浮かんだ不安を掻き消す様に、僕は彼女の隣に並びながら、問いかける。

「ねえ、これからどうする?」

「とにかく行けるところまで行きましょう。それからゆっくりと空を眺めて、太陽が落ちたら、二人で寄り添って寝て、また太陽が昇ったら、何か食べて歌いたいわ」

「それは、素敵な計画だね。とてもわくわくするよ」

「でしょう? ずっと歌を歌いながら考えていたの」

 空に身を任せて、彼女は笑った。白と青と透明の世界。それが僕らの新しい世界だった。

 僕にはまだ、未来のことなんて欠片も分からないけど、それでも、彼女が喜んでくれるのなら、この世界を祝福すると思えるのなら、いつまでだって隣に居て、守ってあげたいと僕は心に誓った。

 最後に、僕は今まで僕らをこれまで守ってくれていた世界を振り返った。入口の白いプラスチックのプレートには消えかけた字で、『セキセイインコ』と書かれていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] どこか謎に満ちた二人のやりとりと、最後の最後で明かされる事実に「お」となりました。 しっかり起承転結が付いており、メリハリのあるストーリーだと思いました。その分、水彩度等で感じた浮遊感は薄…
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