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彼の答え

最終話は郁くん視点です。


 ひとりで立てず、言葉も話せない時から、俺たちは一緒だった。幼稚園には毎日、手を繋いで通っていた。恥ずかしいとか照れくさいとか思うことはなく、純粋に、自然に、俺たちはそうしていた。初めて乳歯が抜けたときだって、予防注射に行くのだって、自転車に乗れるようになったときだって。いつも、そこには彰がいた。“かおるちゃん”と俺を呼ぶ、彰の曇りない笑顔を見ていると、なぜだか心が温かくなって、この笑顔に出会う為に俺は生まれてきたんじゃないかと、本気で思っていた。

 彰の身体が俺よりも、他人よりも弱いということを知ったのは、小学校4年生のときだった。毎年開催されるマラソン大会に、彰は一度も出席していなかった。それまでにも、遊んでいる最中に気分が悪くなったり、座り込んでしまったりしたことがあったので、俺は運動が苦手なのだと思っていた。この時も彰は参加せず、保健室に待機していた。「マラソン、頑張ってね」と手を振って俺を見送った彰の笑顔には、陰りがあった。そのことが少し気にかかり、マラソン大会が終了して保健室に行くと、彰はいなかった。養護教諭の先生が、彰は腹痛で病院に行ったのだと言い、担任の先生は俺に彰への連絡物を渡した。放課後、駒沢家を訪ねると、おばさんが出てきた。「あら、郁くん。マラソン大会で1位になったんだって?すごいわね」穏やかな笑みを浮かべていたが、目元は赤く染まっていて、腫れていた。彰の具合は大丈夫なのかと聞くと、おばさんは教室で俺を見送った彰と同じ表情になり、大丈夫だと言った。

 彰に会いたい。そう頼むと、おばさんは首を横に振った。

 明日は来るの。そう尋ねると、おばさんは何も言わなかった。

 彰に会わせてください。俺は泣きそうになっていて、声も震えていた。

 おばさんも泣きそうになりながら、俺の頭を撫でて、笑った。そして教えてくれた。彰が病院に行くことになった、本当の理由を。

 彰の部屋のドアを開けて目に飛び込んできたのは、ベッドに眠る彰の姿だった。まるで死んだように眠っている彰に、俺は近寄って手を握った。その手は温かかった。青白い顔をした彰の頬を撫でると、睫毛が震えた。

 「かおる、くん……?」

 どうしてここに。そう動いた唇からは音がしなかった。連絡物を届けに来たと話すと、彰はへらっと笑って「ありがとう。ごめんね」と言った。俺の心臓は悲鳴を上げていた。

 ――あんなこと、言うんじゃなかった。聞くんじゃなかった。

 俺の中で、激しい後悔が渦巻く。

 マラソン大会の間、トイレに行くと言って保健室から出た彰は、体育館に向かい、誰もいない体育館で走っていたらしい。そして、倒れた。なかなか戻ってこない彰を心配した養護教諭に発見されて、病院に運ばれたのだ。

 ――俺が悪いんだ。俺の所為で、彰は倒れたんだ。

 『どうしてマラソン大会に出ないんだよ。運動音痴だからって、ズルして休むな』

 ――どうして気づいてやれなかったんだろう。あんなに近くにいたのに。同じ時間を過ごしたのに。

 「……かおるくん」

 弱々しいけれど、はっきりと俺を呼ぶ声に顔を上げた。彰は、涙を零していた。きゅっと俺の手を強く握る。

 「ごめんね。ずっと、いっしょに走りたかったの。でも、できなくて。運動しすぎると気持ち悪くなって、心臓がどきどきして動けなくなっちゃうんだ」

 1位、おめでとう。そう呟いて、彰は再び眠りについた。俺は、枕を濡らそうとする雫を取り払うことができなかった。

 涙を拭う資格も、このまま彰の側にいる資格も、俺には無いんだ。

 その時、俺は決意した。



 「――郁くんは、生まれ変わりって信じる?」

 華里大学駅前から家まで歩いていた途中で、いきなり、彰は問いかけてきた。俺は引いていた自転車のハンドルにかけた飛鳥へのプレゼントに気を配りつつ、彰に目をやった。

 「なんだよ、急に。生まれ変わり?」

 「そう。今の自分じゃない、新しい別のものになるの。もし――もしもだよ、私が生まれ変わったとして、誰も私のことが分からなくなっても、郁くんは私を見つけてくれるかな?鳥になっても、花になっても、男の子になっても、郁くんだけは、私を見つけてくれる?」

 期待を込めた眼差しを向けられた俺は、足を止めた。

 「俺は、生まれ変わりなんて信じない」

 俺の答えに、彰は少し悲しそうな顔をした。目を伏せて「そっか。ごめんね」と歩きだす彰を、俺は空いているほうの手で腕を掴んで引きとめた。

 「ひとりで勝手に歩こうとすんな。……――お前は、お前は俺の隣にいて、ただ笑ってればいいんだよ。俺はもう、お前の手を離すつもりはないからな。いいか、その少ない脳みそで覚えとけ。生まれ変わったらだなんて、馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ」

 そう言って柔らかな髪に指を差し込み、耳に触れると、彰はくすぐったそうに笑った。俺の手に、彰の華奢な手が重ねられる。ひんやりした感触に思わず息を漏らした俺に気づかず、彰は言った。

 「ねえ、郁くん。私、生まれ変わったら――あ、そんなに怖い顔しないで。違うんだってば。あのね、生まれ変わったら、また私になりたいな。郁くんと出会って、いっぱい遊んで、こうやって手を繋いで帰って。それと、郁くんに怒られて、冷たくされて、守られて、こうして大切にされて。生まれ変わっても、もう一度、郁くんを好きになりたい」

 はにかんだ笑みを浮かべて真っ直ぐに俺を見上げてくる彰の瞳に、吸い寄せられそうになりながら考える。俺を好きになりたいっていうのは、ただの幼馴染としてなのか、1人の男としてなのか。

 親指で下唇をなぞってみても、彰は逃げずにじっとしていた。顎に手をかけて上げ、腰を折って顔を近づけても、逃げない。誰か通りかかったら放そうと思ったが、誰も通りかからない。誰も来ないのが悪いんだと責任を転嫁させながら吐息が降りかかるほど距離を詰める。それでも抵抗のての字も見せない。顔を真っ赤にして、ぎゅっと目を閉じて俺のシャツを掴んでいる彰に、俺は小さく笑って唇を重ね合わせた。甘酸っぱい感情が心を満たし、疼くような痛みをもたらす。心臓が壊れそうだ。胸に手を当てたくなるのを堪えて、俺は、目を見開いてぱくぱく口を開け閉めしている彰の額を小突いて、意地悪く笑ってみせた。間違っても、動揺しているなんて悟られないように。

 「お前が逃げないのが悪いんだからな」

 そう。俺がこんな捻くれた性格の持ち主になったのは、お前の所為だ。

 本当は優しくしたい、甘えさせたい、素直に好きだと言いたい。でも、お前が危なっかしいから、馬鹿なことばかりするから、他の男に隙を見せるから、俺は叱るしかないんだ。


 一緒にいなくなってから、毎朝、声をかけてくるようになった彰。今日は体調を崩してはいないだろうか、ちゃんと起きているだろうか。そんな不安を抱えながら、俺は毎朝、家を出る。

 彰を、ひとりで保健室に行かせたくない。あの気に食わない養護教諭がいるのもそうだが、俺の知らないところで苦しんでいるなんて、もう嫌だから。

 手を繋ぐのを拒否していたのは、彰から離れることを決めたのだから、そうすべきではないと思ったんだ。一度だけと許してしまえば、どんどん溢れてきて歯止めはきかなくなってしまう。なのに彰は、俺の決意をいとも容易く崩れさせ、俺を乱した。負けた気がして、悔しかった。


 火照った顔を冷まそうと手をぱたぱたさせている彰は目を落ち着きなく泳がせて、手と足が同じ動きをしていて、傍目から見ても滑稽だ。俺を意識しているからこその反応だから、とりあえずは良しとしよう。

 名前を呼んでも、しばらくの間は地面に目を向けていたが、手触りの良い髪をすくってみると、びくりと俺を見上げてくる。まるで小動物みたいな彰に、なんだか苛めてやりたいような気持ちになったが、ぐっと我慢する。

 「好きだ」

 お前が、とつけ加える。これで、この鈍感女にも伝わるだろう。


 けれど、やっぱり気恥ずかしいから、俺の口から次に出る言葉は毒になってしまう。


 「それでいい」と、彰は笑ってくれる。

 毒を吐いて、毒を吐いて、最後には愛を吐く。

 「それが、私の大好きな郁くんなんだから」

 と。


 fin.



ありがとうございました。

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