その5 変わらないもの
ちゅんちゅん、と閉じられたカーテンの向こうから聞こえてくる、鳥のさえずりに彰は目を覚ました。枕元に置いてある携帯を開くと、まだアラームが設定されている時刻よりも早かった。眠りが浅かったのだろうか、頭がぼうっとする。アラームを解除して、カーテンと窓を開けた。生暖かい風が頬を撫でる。しばらく頬杖をついて眺めていると、宮津家の玄関のドアが開いて、郁が現れた。彰は欠伸を噛み締めながら、自転車に近づいて出発の準備を整える郁の姿を見守る。スタンドを蹴り、自転車を押して道路側に出ようとしているのに、彰は声をかけられなかった。ぼうっとしていたのだ。不意に顔を上げた郁と目が合った。訝しげな様子に、ようやく我に返った。
「あ、えっと、おはよう、郁くん」
郁は何も言わない。けれど、じいっと彰の顔を穴が開くほど見ていた。いつもだったら何も言わずに、そのまま学校に行ってしまうのに。すると、郁が口を小さく動かした。
〈おはよう〉
声は聞こえなかった。それでも、ちゃんと届いた。彰は満面の笑顔を浮かべる。
「郁くん、いってらっしゃい。練習、頑張ってね」
ぎこちないけれど確かに頷いてみせた郁は自転車のサドルに跨り、背中を向けて去っていく。彰は、ぼすんと勢いよくベッドに仰向けに倒れた。
「ふっ、ふふふっ、あははははははっ!」
反動でベッドの隅に積み重ねていた薄い本が崩れて床に落ちてしまったが、気にせずに大きな笑い声をあげた。その後、リビングにいた母に「朝から何やってたの?」と呆れられたが、彰は上機嫌に朝食を平らげ、鼻歌まじりに家を出た。
体育祭の後片づけが終わり、午後からは授業だ。5限は選択授業で、日本史を取っている生徒は2組の教室で、地理を取っている生徒は3階の多目的室で授業を行う。彰は地理を、郁は日本史を選択している。教科書やノート、筆記用具を持って多目的室に着いた彰は、自分の席に座ろうとして「しまった」と声を上げた。
「どうしたの、彰。また何か忘れ物でもした?」
日直の仕事があって遅れてやってきた春海を、彰は悲愴な面持ちで迎えた。
「……また座布団、忘れた」
彰は学校に座布団を置いている。教室移動の際には持ち歩くようにしていたのだが、地理の授業は資料集やら地図帳やファイルなど、持ち運ぶものが多くて忘れがちになってしまう。いつもだったら春海が気がついてくれるのだが、たまに忘れて腰と尻を痛めることが度々ある。硬くて座り心地の悪い椅子に小1時間座り続けなければならないのは拷問に等しい。
「またぁ?もう高嶋先生来ちゃうよ。今から取りに戻っても間に合わないって」
地理を担当する高嶋征太は、頼れる兄貴として多くの生徒から慕われている。養護教諭の小埜雪生とは正反対の性格で明活朗々だが、よく生徒をからかって遊んでいる。
「ああ、私の腰が……」
めそめそと肩を落としつつ決して柔らかくはない椅子に座ろうとしたが、何かを見つけた春海に肩を叩かれた。
「彰、あれって宮津くんじゃない?ほら、あそこ、廊下にいるの」
「え?――本当だ。郁くん、どうしたの?何か用でも、ぎゃっ」
入り口のところに立っている郁に駆け寄ると、いきなり顔面に何かを押しつけられた。ずるりと落ちて彰の手に載ったそれは、包帯を全身に巻かれたパンダ、ミイラパンダのちびキャラがプリントされた座布団だった。ぱちぱち瞬きを繰り返して、なぜか不機嫌な郁を見る。
「また忘れてただろ、これ。お前の席に座ろうとした前野が気づいて、俺に言いに来た。ったく、手間かけさせんじゃねぇよ、馬鹿。今度は、教室に持って帰ってくんのを忘れんなよ」
「へぇ、わざわざ宮津が持ってきたの?今まではそんなことしなかったのに、どういう風の吹き回し?」
春海が面白そうに廊下にいる二人を見比べる。郁は舌打ちをした。
「うっせぇな。日向には関係ないことだろ。いちいち余計な詮索してくんじゃねえよ」
苛立たしげに頭を掻いて踵を返そうとする郁を、思わず、彰はシャツの袖を掴んで引き止めていた。
「……?何だよ」
「えっ、いや、あの……ありがとう。届けに来てくれて、ありがとう」
「別に。いいから、もう離せよ。遅刻する」
ごめん、と慌てて手を離すと郁は息をついて、無造作に彰の頭をくしゃりと撫で「じゃあな」と教室に戻っていった。途中、高嶋先生とすれ違って何か言われたのか、とても嫌そうな顔をしていたが、その理由は分からない。
「彰、チャイム鳴るよ。その赤い顔、何とかしておかないと、あんたも高嶋先生にからかわれちゃうよ」
春海の忠告と同時に、チャイムが鳴った。
放課後、HRが終わって帰り支度をしていた彰は斜め前の席の春海に話しかけた。
「ねえ春海、今日は部活ないし、久し振りに“Un chat noir”にケーキでも食べに行かない?」
「あーごめん。今日は家の用事があるから無理だわ」
「そっか、分かった。また今度行こう。じゃ、私は今から青い店にでも行ってこようかな。確か、気になってる作家さんの新刊が発売してるはず。手帳手帳っと」
「――彰」
低い声で名前を呼ばれた。振り返れば、いつものエナメルバッグではなく、茶色の革でできた鞄を肩から提げた郁が立っていた。少し緩められた濃い赤色のネクタイの結び目を注視していると、また呼ばれた。
「おっと、ごめんごめん、どうかした?」
「ぼけっとしてんじゃねぇよ。お前、また華里中央駅前まで行くのか?」
「あ、聞かれてた?そうだよ、今から行くの。郁くんは、今日は部活無いんだよね。もう帰るの?」
「いや、俺も駅前まで用があって――今週の日曜日、飛鳥の誕生日だろ?今日しか時間ないし、なんか買っておこうと思って」
「そうなの?私も青い店に行った後に、飛鳥くんの誕生日プレゼント買おうと思ってたんだよ。いやぁ、奇遇ですなぁ。二人で買いに行けば、プレゼントの中身とか被らないからいいよね」
「……おい、念のために言っておくけど俺は青い店に用は無いからな。お前の下らない趣味に付き合ってる暇なんか無いんだよ。俺の言いたいこと、分かるよな?」
清々しい笑みにある威圧感に、彰は肩を竦める。
「ちぇ、分かってますよ。先に飛鳥くんのプレゼントを買うことにすればいいんでしょ?そうすれば、郁くんは無駄に時間を持て余すことがなくなる、だよね?」
「分かってるんならいいんだよ。ほら、さっさと行くぞ」
「ちょっと待ってよ、郁くん。もう、ひとりで行っちゃうんだから。春海、また明日ね!」
「はいはーい。行ってらっさい」
手を振りながら幼馴染の後を追っていった親友を見送った春海は、自転車小屋を見下ろせる窓側に立った。
しばらくすると郁が現れ、自分の自転車に鍵を差し込んで鞄をカゴに適当に突っ込んだ。そこへ近づいていったのは彰だ。自転車を動かして小屋から出す郁を、少し離れた場所に立って待っている。自転車を引いて彰のところまで来た郁は、おもむろに彰の頭を犬のように撫で回しだした。乱雑な扱いを受け、彰が奇声を漏らすのが聞こえる。ぐしゃぐしゃになった頭を手ぐしで整えようと苦心している彰は、自分の手から鞄が消えていることに気づいていないようだ。彰の鞄は、いつの間にか郁の手元にあり、郁は何でもないように自らの肩に提げて歩きだす。髪を梳き終えた彰が、きょろきょろと辺りを見まわす。きっと、鞄が無いことに気づいたのだろう。郁が立ち止まって、彰に向かって何かを言った。彰の嬉しそうな笑い声が聞こえたような気がして、春海は人知れず微笑んでいた。
「あいつら、相変わらずじゃん」
突然割って入った声に顔を上げると、横に、愉快そうにしている前野がいた。
「そう?変わったんじゃないかと、あたしは思うけど。彰はともかく、宮津が」
「宮津が?変わったって、どこが?俺は、あいつは何も変わってないと思うけど」
意外な答えを返した前野に、春海は「変わったよ。いつも近くにいて分かんないの?」と言う。すると前野は、もう小さくなった二人の後ろ姿に穏やかな眼差しを向け、
「変わってないよ、あいつは。いつも近くにいるからこそ分かる。昔からずっと、あいつが目で追い続けてる先にいるのは、ひとりだけ。他は眼中になし、って感じでさ。――ほんと、変わらないよな、あいつ」
と笑った。
「なんか負けた気分なんだけど。むかつく」
春海は、ちょっと悔しそうに顔を歪めて、前野の脇腹にパンチを入れた。
華里大学前駅から、華里中央駅まで私鉄の路面電車に乗って約10分。大手の百貨店や映画館、レストランやファッション店が揃う華里の中心部に着くと、授業終わりの学生たちで活気づいていた。彰たちは、まず、飛鳥への誕生日プレゼントを探すために百貨店へと向かった。
「郁くんは何にしようとか決めてあるの?」
「まあな。この前、何となく聞いてみたら、あいつ植物図鑑が欲しいって」
「植物図鑑?」
「夏休みの自由研究で、上級生の植物採集した作品を見て、興味を持ったらしいんだよ。華里大学には植物学部とか園芸学部があるだろ?そう教えてやったら、大学に行くために今から勉強しておきたいんだと。父さんと母さんには内緒にしておいてくれって頼まれて、植物図鑑も自分で小遣い貯めて買うからって言ってるけど――」
「植物図鑑って高いもんね。うんうん。可愛い弟の夢を陰ながら応援する兄、まさに、兄弟愛ですな!」
感動の涙を拭う素振りをしていると、バシィッと容赦なく頭を叩かれた。
「変なこと口走ってんじゃねぇよ、馬鹿。なにが兄弟愛だ」
「ぎゃっ、般若みたいな顔しないで。冗談だよ、冗談。ささ、そうと決まったら5階の書店に行きましょうそうしよう」
品揃えが充実していると評判の書店で植物に関する棚を二人で検分し、それぞれの内容も比較しながら、小学生にも使えて、かつ専門的な知識も身につけられる植物図鑑を選んだ。値段は野口英世が2枚分だ。会計を済ませ、包装された植物図鑑を受け取った郁は、ファッション誌が並べられた棚にいる彰のもとに行き、立ち読みをしている雑誌を肩越しに覗き込んだ。ちょうど開いていたページは、スタイル抜群の男性モデルに独占されていて、彼の特集が組まれているようだった。〈現役学生モデル、一之瀬夏の冬服コーデ〉と題されている通り、様々な冬服を着ていた。
「――おい」
「うわっ、いつからそこにいたのさ、郁くん。心臓に悪いよ。気配消しすぎだよ。忍者だよ」
「お前が鈍感なんだろ。普通、ここまで近づいたら気づくだろ。――それで?お前は何にするんだよ、飛鳥の誕生日プレゼント」
雑誌を閉じて元の場所に戻した彰は表情を明るくさせた。何か良い案があるようだ。
「私もね、飛鳥くんの応援しようと思ってさ。さっき、郁くんを待ってる間に電話したんだ。神林寺さんに」
エレベーターの下降ボタンを押した郁は“神林寺さん”に反応を示した。聞いた事がない苗字だった。微かに表情を険しくする。
「……誰だよ、神林寺って」
「え?ああ、郁くんには、まだ話してなかったっけ。確か――7月の初めだったかな。散策がてら華里大学の英国式庭園を歩いてたら、汚れた白衣が芝生の上に落ちてるの見つけてね。これは面白いと思って持ち主を探してたんだ。だって、白衣だよ?」
「知らねぇよ、変態」
「だって男の人のサイズだったし、見過ごすわけにはいかないでしょ。しばらく歩き回ってたら、花壇のところに、しゃがんで独り言してる怪しい人に遭遇したの」
彰が拾った白衣は、その怪しい人のものだった。寝癖だらけの頭に、線の細いフレームの眼鏡をかけた彼は話しかけられて驚いていた。あまりにも暑かったから白衣を脱いだのだが、かける所が無かったので適当に放置しておいたのだという。神林寺文人と名乗った彼は華里大学で植物学を専攻している准教授で、研究に熱を入れすぎて忘れていた白衣を届けてくれた礼にと、特別に通常は許可を得た学生しか入れない温室の中を案内してもらった。温度や気圧の調節が可能な温室は、蓮の花や高山植物など多様多種な植物に溢れていた。
「神林寺さん、30歳なんだけど植物の話しだすと子供みたいに目を輝かせて、可愛い人なんだ。電話で飛鳥くんのことを話したら、温室と、なんと研究室の見学までさせてくれることになったんだ」
エレベーターのドアが開き、誰もいない空間に彰は先に乗って1階のボタンを押した。ドアが閉まり、階数を知らせる表示を見上げながら、話しつづける。
「飛鳥くん、今週の土曜日って空いてるかな?神林寺さんは講義が無い時なら、いつでも構わないって言ってくれて。あ、大学には私も行くことになってるから」
「俺も行く」
視線を下ろした彰と、郁は目を合わせた。
「でも、土曜日は部活あるんじゃなかったっけ?練習試合が近いから、休むわけにはいかないんでしょ?今日、前野くんが言ってたよ。飛鳥くんのことは私に任せて。大丈夫だって。はぐれないように、ちゃんと見てるから」
アナウンスが鳴り、ドアが開いた。彰は右肩にかけた鞄の持ち手の位置を整え、歩きだす。隣の郁が難しい顔をしていることに気づいて、袖を引っ張った。
「郁くん、どうしたの?お腹すいた?」
「腹は減ってるけど、いや、そうじゃなくて……土曜日は、午前中だけだから。俺も行く。お前だけだと心許ないからな」
そう言って、袖を掴んだままの彰の手を軽く握りしめた。大きな手に包まれて、なんだか守られているみたいだ。
「……何笑ってんだよ、不細工」
ぐいっと少々乱暴に手を引かれる。彰は、自分の肩に触れる郁の腕を感じながら、すれ違った通行人が持っていた青い袋に目を留めた。
「あっ!青い店に行かないといけないんだった!」
結局、郁も付き添うことになり、BL漫画のコーナーで興奮する彰の隣に立っていたが、周囲からの好奇の目に晒されているのが耐え切れなくなって少年漫画の棚に逃げ込んだ郁を、清算を終えた彰が申し訳なさそうに迎えに行き、駅前のクレープ店で奢らされることになったのは言うまでもない。
チョコバナナのクレープを頬張りつつ、抹茶あずきのクレープを食べている郁の横顔を眺めた。さっきから「くそ甘い。甘すぎる」と愚痴を零す唇は、相変わらず毒ばかり吐く。でも、クレープを食べ終えると自然に、手を繋いでいた。
――郁くんは、何を考えているんだろう?
作品に度々登場する「青いお店」とは文字通り、青い店のことです。私のオアシス。
ちなみに、この二人、まだ付き合っていません。ええ。