その3 素直になれない
今回はアノ英語教師と、猫(彼)が登場します。
あと、登場はしませんが前作のモデルも、なぜか知りませんが出ています。
毎年、6月の第3日曜日になると華里では“紫陽花祭”が開かれる。華里一帯が紫陽花色に染まる時期に、祭の開催地である華宮神社に屋台が並び、近所の人や学生達が集まって賑わうのだ。今年も梅雨の最中に関わらず快晴で、彰は朝から上機嫌だった。宿題やら予習を済ませ、ネットを放浪している間に日が傾き始めてきたので、浴衣の着付けを始めた。いつもは私服で行くのだが、お気に入りのBL漫画の扉絵で、花火をバックに受けの方の男子が浴衣を着ていたのを見てハートを打ち抜かれ、自分も青春を満喫するためには浴衣で行くしかないと思い、母に買ってもらった。
母の手を借りながら、なんとかして着付けを終えた彰は、姿見の前に立った。
彰が選んだ浴衣の柄は、紺色の生地に大小さまざまな大きさの朝顔が咲いているものだ。帯は真っ白で、巾着袋と下駄の鼻緒は白と水色のグラデーションになっている。全体的に大人っぽい雰囲気でまとまり、大満足だ。
髪もアップにしてお団子にし、銀色の糸で黒地に刺繍が施されたシュシュで飾り、鏡の前で検分していると、携帯のバイブ音が鳴った。着信相手を表示させると〈日向春海〉とある。春海は彰のクラスメイトで、小学校からの親友だ。同じ茶道部員でもある。今年も紫陽花祭に一緒に行こうと約束していて、華宮神社で待ち合わせをしている。
小学校に上がるまでは郁と、お互いの両親に連れられて紫陽花祭に行っていたが、郁は人込みを嫌うようになり、紫陽花祭に行かなくなった。不意に訪れた物悲しさに疑問を感じながらも、彰は携帯の通話ボタンを押した。
「もしもし」
〈あ、彰?ごめん!今日、行けなくなった、って――だから分かってるってば!〉
受話器越しに届いた声は焦っていて、なんだか騒々しい。
「ちょっと春海。行けなくなったって何かあったの?」
〈ああごめん。今、ばあちゃんが急に来てさ。なんか、孫――あたしにとっては従兄弟なんだけど、どうやら彼女できたみたいなのに、まだ見せてくれないたらなんたらって愚痴ってきて〉
「おばあちゃんって、料理上手で破天荒でゴシップ好きの?」
〈そうそう。今から彼女の顔を見に行くから、華里大学の女子寮まで案内しろって五月蝿くて。今、家にあたししかいないし――待って、ばあちゃん!夏くんに話してから行かないと駄目だって!あたしが怒られるんだってば!ああもう!――そういうことで、ごめん!この埋め合わせは必ずするから!〉
最後に、ばあちゃん待って!と春海が怒りの声を上げ、ブチッと通話が途切れる。
「……切れた。まあ、仕方ないか」
春海の従兄弟は華里大学に通っていて、確か今は2年生のはずだ。彼は人気モデルでもあり、一度だけ会ったことがあるが、背が高くてスタイルが良く、とても綺麗な顔をしていた。
「モデルと付き合ってる彼女さんって、どんな人なんだろ。やっぱり背が高くて、お洒落なのかなぁ。いや、それだと萌えがない。ここは……」
「彰お姉ちゃーん!」
浴衣姿のまま、思考を二次元の世界に飛び立たせていた彰の元に、1階から底抜けに明るい、無邪気な声が届いた。
「この声……飛鳥くん?」
部屋を出て、ゆっくりと階段を降りると、玄関で飛鳥が手を振っていた。応対していた母は、彰が来て台所に戻っていった。浴衣姿の彰に、飛鳥は目を輝かせてキレイキレイと連発する。
「ありがとう。それより飛鳥くん、今日は、どうしたの?」
「今日は紫陽花祭でしょ?だから彰お姉ちゃんと一緒に行きたくて誘いに来たんだ。僕らと行かない?」
「僕ら?」
「おい飛鳥、勝手に行くなって言っただろ。大体、あいつは日向と―――」
開いたままの玄関のドアから現れたのは郁だ。面倒臭そうな顔をして中に入ってきて、そこにいた飛鳥を見下ろし、顔を上げて彰を見つけ、言葉を切った。
郁の登場に、彰も驚いていた。
「もしかして郁くん、紫陽花祭に行くの?人が集まるところは嫌だって言ってたはずじゃ……」
その疑問に答えたのは飛鳥だった。
「本当はね、お母さんと行くって約束してたんだよ。でも、用事ができて行けなくなって、それで郁お兄ちゃんにお願いしたんだ。最初は嫌がってたけど、お母さんが――」
「飛鳥。それ以上は言うな」
「どうして?」
「どうしてもだ」
自分を見下ろす兄の焦った様子に飛鳥は首を傾げつつも、分かったと頷いた。
どういうことだと彰は怪訝に思っていたが、飛鳥の頭を撫でていた郁が再び自分に向き直ったところで声をかけた。
「そうだ郁くん。この浴衣、新しく買ってもらったんだけど、どうかな?似合う?」
返事はない。それどころか、ぎろりと睨みつけられた。聞くんじゃなかった、と彰は後悔した。
「ええと――あ、そうだ。さっきですね、春海から用事ができて行けなくなったって電話がきまして。せっかく準備したんだし、お祭りに1人で行くのもなんだから、仲間に入れてもらいたいんだけど――いい?」
勿論だと答える飛鳥に対し、郁は何も言わない。ただ、早く早くと外に行きたがる飛鳥の手を握って、その場に留まっているところを見ると、彰が同伴することに反対しているわけではないらしい。彰は口元を綻ばせる。
「ちょっと待ってて。財布と携帯、持ってくるから」
彰は二人に言い、巾着袋を取りに急ぎ足で部屋へと戻った。
日も落ち、縁日の照明が辺りを照らす華宮神社に着くと、そこには既に沢山の人がいた。家族連れ、カップル、友人同士。様々な関係で繋がっている人々を眺め、彰は目を細める。飛鳥を挟んだ位置にいる郁に目を向けると、険しかった表情が少し和らぎ、懐かしそうに辺りを見回していた。左手は、しっかりと弟に繋がっている。
「飛鳥くん、郁くんの手を離さないでね。人が多いから気をつけないと」
「馬鹿。飛鳥よりも、自分の心配でもしてろ。お前の方が確実に迷子になりそうだ」
「またそういうこと言う。高校生にもなって迷子になんかなりませんよ。そんな乙ゲーにありがちな展開は二次元に限る、ですよ」
容赦ない郁の言葉に反論すると、何を言ってるんだコイツ、みたいな顔をされた。引かれたか、と彰は苦笑いをする。すると何を思ったのか、飛鳥が有り得ない提案をしてきた。
「だったら、郁お兄ちゃんが彰お姉ちゃんと手を繋げば良いんじゃないの?そうすれば、誰も迷子にならないよ」
彰と郁の足が同時に止まる。賑やかな音が飛び交う中、気まずい沈黙がおりた。
(……良いことを考えつきましたね飛鳥くん。これが二次元でしたら褒め称えてあげたいほどです。でも、到底無理なことなんだよ、それは)
郁は、予想通りの反応をした。
「そんなに嫌そうな顔しなくても。まあ、高校生ですから平気平気。ここは三次元、そう、三次元なんだから!」
「………どうでもいいけど、はぐれるなよ」
拳を握って高らかに言いきった彰に、郁は冷めた表情を崩すことなく呟き、歩きだした。
屋台が並んだ通りに入ると、ますます人がごった返しており、歩くことも困難になる。途中、見かねた飛鳥が僕と繋ごうと手を差し伸べてくれたが、子供の細腕にかかる負担を考え、断った。
慣れない下駄を履いていたこともあり、足元に気を取られていたのだろう。すれ違おうとした若い青年が肩にぶつかり、後ろに押しのけられた。
「うわっ、と」
倒れそうになったのを、なんとか体勢を持ち直して堪える。安堵の息を零し、後ろを見ると、当の相手は振り返りもせず、横にいる友人と喋り続けていた。馬鹿が滲み出るような笑い声を上げる二人に、彰は腹立たしい気持ちになり、抗議しようと声を上げかけたところで、はっと気づいた。
(これは、この展開は……)
肝が冷えるとは、こういうことを言うのだろうか。死亡フラグが立ったというのは、こういうことなのだろうか。
近くにいたはずの郁と飛鳥の姿が見当たらない。
(まずいよやばいよどうしよう。また郁くんに怒られて、延々と毒を吐かれて――)
頭を抱えて苦悶の表情を浮かべていた彰は、ふと、視界に入った人物に目を丸くした。
「――阿久津先生だ」
肩上で切り揃えられた黒髪に、涼しげな目元が印象的な女性が目の前を通り過ぎた。華里大学付属高校で英語の授業を担当している、阿久津祥子だ。学校では猫好きでクールビューティーな先生として女子生徒に慕われており、よく生徒から恋愛相談を受けているところを見かける。
阿久津の腕には猫がいた。最初は縫いぐるみかと思ったが、鳴き声を上げたので生きているのだと分かった。
(先生の飼い猫かな。いいな、猫。飼いたいけど、私、猫アレルギーだしな。くしゃみが止まらなくなるんだよね。そういえば、郁くんって猫に似てるかも。犬ではないよね。構いすぎると怒っちゃうとことか――)
阿久津を見送っていると、突然、強い力で肩を引かれた。わぁ、と間抜けな声が口から漏れる。反転した身体は勢いに乗り、支えとなった壁に添えた手から、仄かな温もりを感じて顔を上げると、
「この――大馬鹿!はぐれるなって言っただろ!お前の危機管理能力は小学生以下か!?」
何度も経験した怒声を頭から浴びさせられ、縮み上がる。
「ひぃっ、ごめんなさい!深く反省してます!誠に遺憾の意であります!」
「お前、反省してないだろ!」
「してます!反省してますってば!高校生で迷子になるのは二次元に限らないことが、身に染みて分かりました!」
「馬鹿!次元の違いなんかどうでもいいんだよ!お前な、……」
はっとして口を引き結んだ郁に、彰も我に返った。彰は郁の胸にしがみついている状態だった。恐る恐る周囲を伺うと、老若男女問わず、なんとも温かい目で見守られているではないか。ここに菅野がいたら、間違いなくツイッターで〈高校生で迷子になって幼馴染に怒られてる。青春なう〉と、つぶやかれていただろう。二人にとっては幸いなことに、いないが。
顔を赤くした郁は忌々しそうに舌打ちをして、同じく赤面している彰の右手を取って歩きだした。そのまま人込みに紛れるように足を進める。
「あの、郁くん」
「喋りかけんな」
一蹴された。言葉に詰まる彰だったが、それでも問いかけるように見つめると、郁は頭を掻いた。
「飛鳥は、この先にあるカキ氷の屋台の所で預かってもらってる。人込みの中、飛鳥を連れて探すのは大変だし、疲れるだろ」
「そっか。ごめんね、郁くん。探しに来てくれて、ありがとう」
ぎゅっと繋いだ手に力を込めると、郁の口が何か言いたげに開きかけ、だが、何も告げずに閉じられた。
カキ氷の屋台まで行くと、飛鳥はメロン味のカキ氷を食べていた。待っている間にと、郁が買ってやったらしい。
彰と郁もカキ氷を食べようと、それぞれブルーハワイとレモン味を頼んだ。もちろん彰の奢りだ。別に、払えと脅されたわけではない。喉が渇いたと訴えてきた郁が、やけに清々しい笑みを浮かべて見てきたことに怯えたからでもない。そう、断じて。もそもそとカキ氷を頬張りつつ、彰は自分に言い聞かせた。
「飛鳥、行くぞ」
カキ氷を食べ終えて、移動しようと郁が飛鳥の手を引く。そして空いている左手を、彰に差し出した。その手を、じっと見ていると、
「早くしろ馬鹿。打ち上げ花火が始まるまでに食料確保するんだろ。また迷子になったら、時間の無駄になる」
「また迷子になったら、探してくれるの?」
「だから、二度と迷子にさせないって言ってんだろ。探すのは時間の無駄なんだ。お前のためじゃなくて、飛鳥と俺のためなんだからな」
早くしろと急かされて、手を取る。掌越しに伝わる熱が懐かしくて、思わず笑みが零れた。遠い昔の記憶が蘇る。
「郁くん。私、肉巻きおにぎりが食べたい」
「相変わらず好きなんだな、それ。食べきれないって泣くなよ」
「言わないよ。もう――」
高校生なんだから、と言いかけた彰は口を噤み、息を吐いてから飛鳥に笑いかけた。
「飛鳥くんも食べるよね?肉巻きおにぎり」
「食べる!後、焼きそばとリンゴ飴とチョコバナナも食べたい!」
そんなに食べれるのか、と嗜める郁の声を聞きながら、彰は阿久津の姿を見かけ、首を傾げた。阿久津の隣には、郁よりも背の高い、20代前半の男がいた。さっきはいなかったはずだ。彼は人懐こそうな笑顔を浮かべ、ピンク色の綿あめを千切って口に放り込んでいる。楽しげに阿久津に話しかけている彼の髪は、郁のよりも明るい茶色だった。最初に見かけたときに阿久津が抱えていた猫の毛色に、なんだか似ていると思った。
「――彰」
「ん?なに?」
呼ばれて返事をした彰に、郁は、結って隠されていない無防備な耳に唇を近づけた。
「その浴衣、お前に似合ってる」
「本当?」
顔を離した郁は、続けて言う。
「ああ。夜に朝顔が咲いてると、間抜けに見えるよな」
「ん?それ、どういう意味?」
「その通りの意味だ」
ふい、と顔を逸らして先を進む。手を引かれつつ、彰は頬をむくれさせていた。
――似合ってる、だけじゃ駄目なの?