その2 限定的な心配性
miaの理想、保健室のアノ人が登場します。
放課後、とはいっても、ほとんどの生徒が部活動に専念しているであろう校舎の廊下を、彰は歩いていた。その表情は思わしくない。
(どうしよう。このまま放置しておいても大丈夫そうだけど、行かないで戻ったら先輩に怒られるし。でもなぁ……)
ぐずぐず悩みながら進んでいると、目的地に辿りついてしまった。
保健室だ。
ここ、華里大学付属高校の保健室に勤務している養護教諭は、男である。噂によると元ヤンで、1人で1000人を叩きのめした伝説があるとかなんとか。保健室を訪れるのが初めての彰は、ここを開けたら元不良教師がいるのだと思うとドアを開けるのも怖くなり、誰か友人を連れてくれば良かったと後悔した。
(もうこうなったら仕方ない。女は度胸!行くぞ!)
ノックを3回する。返事はない。いないのかな、とドアに掛けられた小さな看板を見ると〈在室中〉となっていた。いるのかいないのかどっちだ!と面倒臭くなった彰は思い切ってドアを開けた。
「小埜先生、いるんですか?いないんだったら、いないって言って下さい!」
「――いなかったら、いないなんて返事がくるわけないだろ」
「ぎゃひっ!?」
すぐ後ろから声がして飛び跳ねる。首を高速回転させると、黒いシャツとパンツに白衣を羽織った、20代後半の男が立っていた。奇声を上げた彰を眼鏡越しに切れ長の目で見下ろしているのは、噂つきの養護教諭、小埜雪生だ。
「野暮用で保健室を離れてたんだ。悪かったな。で、なんの用だ。怪我か、病気か、生理痛か。というか具合が悪いんだったら、とっとと家に帰って寝ろ」
入り口にいた彰を押しのけて保健室に入った小埜は、黒い頭を掻いて肩を回す。
(なに!?今から私は殴られるのか!?二度と生きて帰れないの!?)
せめてお茶菓子を食べてから来るんだったと目尻に涙を浮かべて固まる彰に、小埜は不思議そうな顔をして近づいてきた。
「おい、お前……」
彰に向かって手を伸ばしてくる。
(ひぃっ!)
ぎゅっと目を閉じた彰は、とっさに「郁くん助けて!」と叫んでいた。なぜ両親ではなく真っ先に幼馴染の名前を呼んだのかは、彰にも分からない。
手首を掴まれ、ぐいと引き寄せられる。消毒液の匂いが強くなったと感じた直後、真上から「おい」と低い声が落ちてきた。
「お前、火傷したのか、これ」
小埜が真剣な顔で見つめる先は、彰の左手だった。手の甲が赤くなっている。
「は、はい。ポットのお湯を、鉄瓶に入れている時に手にかかっちゃって――」
「こっちに来い。すぐに水で冷やしたか?」
「はい。部室に流し台があるんで、5分ほど。その後、先輩に保健室に行った方がいいって言われたんで来ました」
「そうか。そんなに腫れてはいないし、軽いやつで済んだみたいだな。今度からは気をつけろよ。そこで座って待ってろ。軟膏を塗ってやる」
薬品棚に足を向けた小埜を眺めながら丸椅子に腰かける。薬品の匂いに混じってコーヒーの香りがするのは、小埜が休憩中に飲んでいるからだろう。軟膏を手に戻ってきた小埜はデスクにあったキャスター付きの椅子を引っ張り、彰の正面に座る。左手を取って、軟膏を塗られる。
彰は目の前にいる小埜を、じっと見ていた。
(なんか、郁くんに似てる)
髪の色や顔立ちや声ではない。はっきりとは言えないが、どこか共通しているものがあるように思えた。
視線を感じたのか、小埜が顔を上げる。至近距離で目が合って硬直した彰を、特に気にすることなく、小埜は立ち上がって薬を片付けようと背を向けた。
ほっと彰が肩を撫で下ろして安堵の息をついていると、
「さっきの“郁くん”って、お前の彼氏か?」
「へ?」
突然の問いかけに思わず間抜けな声が出た。なんだ違うのか、と言われた彰が「ただの幼馴染です」と答えると、小埜は興味がなさそうに相槌を打ち、デスクから紙を取り出した。
「報告書だ。お前の学年クラス名前と、怪我をした時間と経緯、その内容を記入したら戻っていいぞ。利き手は左じゃないよな?」
「あ、右手なので問題ありません」
「なら良かったな。軟膏を塗っておけば2、3日で治るだろう。ないとは思うが、もし水ぶくれが出たら近くの病院の皮膚科に行け」
「はい。ありがとうございました、小埜先生」
記入し終えた報告書を渡すと、小埜は目を通して読みあげる。
「駒沢彰、1年2組――菅野先生が担当してるクラスの生徒か。あの先生、相変わらず変なことばっか口走ってないか?」
「変なことですか?急に“萌え”とか“ktkr”とか言いだしたり、帰りのHRで“そのまま青春謳歌しちゃって!先生、見てるからね!”って鼻息荒く言われたことはありますけど」
「……予想していたのを、はるかに超えてるな」
菅野の奇行は学内でも有名だが、彰は彼女が好きだ。お勧めのBL漫画を教えてくれるし、声優や最新のアニメの情報にも詳しいので頼りにしている。この前も古典の質問をしに行ったら、いつの間にかスポーツ漫画について熱く語り合っていて、隣のデスクにいた英語の先生に二人して怒られてしまった。
「じゃあ駒沢、もう行っていいぞ」
「はい、ありがとうございました」
報告書を確認した小埜に頭を下げ、ドアに手をかけようとしたのだが――
「小埜先生!急患だ!」
「うわっ!」
勢いよくドアが開いたことに驚いた彰が後ずさると、背後で「壊れるから静かに開けてくださいって言ってんのに…」と低い声で小埜が呟いたのが聞こえた。
「ちょっとウチの部員が派手に転倒しちまってな!骨折れてないか見てくれ!」
猛獣のような大声を発して保健室に現れたのは、彰の学年主任で男子バレー部顧問の権田宗司だ。熊のような大きな図体で頭は坊主という豪快な見た目に一致した中身を持つ、個性的な教師の1人だ。
「おい、宮津!早く来い!」
権田が廊下に顔を戻して言った内容に、彰はびくりと肩を震わせた。
(郁くんが怪我?)
入り口を占拠している権田に阻まれて廊下に出ることも叶わない。郁が怪我をしたのだろうか。骨が折れたなんて、どんな転び方をしたのか。
焦りを感じながら待っていると、権田に続いてドアの陰から郁が姿を見せた。部活指定の長袖のユニフォーム姿で、腕をまくっていた。
郁の顔を見た瞬間、彰の体が無意識に動いた。
「郁くん!」
「あき、――駒沢」
なんでここに。そう問いかける声の元に、彰は駆け寄って無我夢中で、その左腕に、しがみついた。
「なっ、にしてんだよ馬鹿!腕を離せ!おい、離せって!お前、日本語も通じなくなったのか!?」
腕を振って拒絶する郁に対抗し、ぎゅっと腕を絡める。
「馬鹿なのは郁くんだよ!いつも人に転ぶな怪我するなって言っておいて、自分が怪我してるじゃん!」
「おい」
「しかも骨折するだなんて!いくら私でも骨折したことなんてないよ!どんだけ抜けてるのさ!」
「…おい」
「昔からそう。郁くんは私のことばっか注意してる。小さい頃に鬼ごっこして、私が鬼になったら無理に追いかけて転ばないように、わざわざ捕まりにきてくれてさ!」
「……黙れ」
「そりゃ嬉しかったけど!『あきらちゃん、僕ここだよ』って出てきてくれた時の、かおるちゃんの可愛らしさったらそれはもう――」
「黙れって言ってんのが聞こえねぇのか馬鹿彰!その口塞いで窒息させるぞ!」
耳鳴りがするほどの罵声を浴び、彰は条件反射で口を手で覆った。
そして、あることに気づいた。
廊下に面した保健室のドアに、寄りかかって立っている男子がいることに。
「よ、よう駒沢。何ていうかだな、その……ぶっ、いや違うんだ。ごめ、ぶふっ、はははははっ!」
堪えきれず腹を抱えて笑い転げだした彼は、彰と郁のクラスメイトのお調子者、前野浩二。郁と同じ、バレー部のユニフォームを着ている。抱腹絶倒なう、の彼は片足を空中に彷徨わせている。
「怪我したのは郁くんじゃなくて、前野くんだったっていうこと?」
「ぶっ、そ、そういうこと。宮津には、ここまで肩貸してもらってただけだし、それに俺、骨折してないし……ぷっ、駄目だ、笑いが止まんない」
涙ぐみながら笑い続ける前野をよそに、彰は満面の笑みを浮かべていた。
「なんだ、郁くんが怪我したわけじゃなかったんだ。そうかそうか。良かった良かった」
「――なにが良かった良かった、だ?」
ドスの効いた声に、彰の口元が不自然に引きつる。すっかり忘れていた。
今は見ない方がいいと本能がぎんぎんに告げている。
(よし、逃げよう)
しがみついていた腕を解放して地面を蹴った。が、
「逃げんじゃねぇよ」
がしっと両手で頭を押さえつけられ、足が地面に埋まるのではないかというくらい力を込められる。
「痛い痛い!痛いよ、郁くん!」
「誰が馬鹿だって?誰がお前より抜けてるって?どの口がふざけたことぬかしてんだ。この口か?いっそ針と糸で縫いつけてやろうか?あとな、俺がお前ばっか注意してんのは、お前がどうしようもない間抜けだからだよ。こっちは迷惑してんだよ。それを、お前は、どうでもいいことまで喋りやがって。なあ、一回、記憶失くしてみるか?」
「嫌ですごめんなさい私が馬鹿でした!馬鹿で抜けてるのは私です!ごめんなさい!」
ぐいぐい両側から押しつける郁の大きな手に自分の手を重ねる。痛いからだ。頭蓋骨が割れそうだからだ。
すると、ぴたっと郁の手が止まった。頭に載っていた重力が一気になくなる。
「……その手、どうしたんだ」
「えっ?あ――」
(やばい。この展開はかなりよろしくない)
急いで手を引っ込めようとしたが、素早い動作で郁に手首を掴まれてしまった。
「――熱湯が手にかかって火傷したそうだ。軽傷だったから病院に行かなくてもいいけどな」
「小埜先生なんで言っちゃうんですか!?この薄情眼鏡!」
「怪我したのを黙っててどうする。余計な心配はかけたくないんだろう?それと、何度も言うが、眼鏡が俺のアイデンティティーみたいな言い方は止めろ」
「眼鏡が目に入ったから言っちゃっただけです。どうしてくれんですか。怪我したなんて知られたら、どんな毒で説教されるか――」
「説教されると分かってるんなら、金輪際、怪我をしないように気をつけるんだな。無理だとは思うが」
「ちょっと。無理ってどういうことですか。今まで小埜先生のこと誤解してたの謝ろうと思ってたのになんなんですか。格好良ければ何しても許されるわけじゃないんですよ。それと今気づいたんですけど、小埜先生って私の理想そのまんまなんですよね。写真撮ってもいいです――むぐっ!?」
小埜に鬼気迫っていたはずが嬉々として熱く語り始めた彰は、背後から口を塞がれ、廊下に引きずられた。
「小埜先生、すいませんでした。この馬鹿の戯言は忘れて下さい。権田先生、20分ほど練習抜けますんで後は頼みます」
「ああ、面白いもん見せてもらったからな!前野のことは俺に任せろ!」
がははははと笑い飛ばす権田に複雑そうな表情で礼を言い、郁は横に顔を向けた。
「……なにニヤニヤしてんだよ、前野。気持ち悪い」
「いや?ベツニナンデモナイヨ?」
口を手で覆って小刻みに震えている前野を冷たく一瞥し、腕の中の彰を見下ろして盛大に顔をしかめ、歩きだす。
「ほどほどにしとけよ、“郁くん”」
小埜の呑気な声を背中に受けて、郁は彰の腕を、強く引いた。
彰は思った。現在置かれている、この状況は何なんだと。
保健室から連行され、茶道部の部室に続く道を歩いていたはずだったが、その真向かいにある家庭科室に押し込まれて壁にポスターのごとく貼りつけられた。今日は料理部も手芸部も活動していないので誰もいない。顔の横に手をつかれ、逃げ道を失う。
誰もが憧れる、少女漫画で定番の壁ドンに立ち会っているのなら喜ばしいが、自分がされているのでは胸キュンどころでない。自分の命が危機にさらされる予感のする壁ドンなんて少女漫画でもBL漫画でも見たことない。あるとしたら少年漫画だ。カツアゲだ。
「おい」
幼馴染でなくても分かる。今の郁は機嫌が最高潮に悪い。声で分かる。
「謝ります、何度だって謝りますから、どうか勘弁して下さい。命だけはどうか――」
「手、もう痛くないのか?」
「へ?」
本日、二度目の間抜けな反応をした。
郁の瞳は、わずかに赤みの残っている彰の左手に注がれていた。
「いや、もう痛くないよ。少し、ヒリヒリするだけ。指も動くし」
握ったり開いたりを繰り返してみせると、そっとしておけ、と止められた。
(えー……えっと、今、何時だろう。部室出てから、結構経ってるよね)
時計を見ようと右側に顔を向けた直後、左肩に微かな重みと温もりを感じ、彰は息を呑んだ。顔を時計に向けたまま、目を動かすと視界の端に茶色がある。
郁は、彰の肩に額を押し当てるように寄りかかっていた。
「保健室に、お前がいて、何かあったんじゃないかって思った」
「……ごめん」
「あの保健室には二度と行くな」
「二度と行くなって言われましても、それは難しいんじゃ……」
「いいから行くな」
「………善処、します」
これから怪我したら私はどこへ行けばいいのだと思ったが、左側からの圧に負けて頷くしかない。郁も本気で言っているわけではないのだろうと軽く考えていた。
しばらく黙り込んでいた郁が彰から離れて、出入り口に行ってしまう。
「お前のなけなしの脳みそで理解できたんなら、さっさと行け。俺も練習に戻る」
「はい分かりました。――あ、小埜先生に謝るの忘れてた。明日、また行こうっと」
彰が何気なく口にした言葉に対し、郁は開けている途中だったドアをぴしゃんと閉め、彰を睨みつけた。
「ついに脳みそ全部溶けたのか?お前、分かってないんじゃねぇか。謝るって、お前、小埜先生に何やらかしたんだよ」
「別に何もしてないけど、私、今まで小埜先生のこと誤解してたんだ。元ヤンとか怖い噂があるから、近寄りにくいなって避けてて。でも、本当は優しい人なんだって分かった。口では悪く言ってても、目は穏やかなの。あの皮肉も先生なりの優しさなんだよね。だから謝りたくて。それに――黒髪で眼鏡に白衣って、私の理想なんだよね。あの分かりにくい性格も好き」
「それが本音か」
呆れる郁に、彰は笑いながら近寄る。
「それにね、小埜先生は郁くんに似てるから。仲良くなれたら、もっと郁くんのこと分かるかなって。そっくりだよね」
そう言って、からから笑う。数秒間、彰を凝視していた郁は、ばっと顔を背けてドアを開け放ち、
「調子に乗んな不細工!」
と言い捨てて早足で出て行ってしまった。
残された彰は、うーんと首を傾げる。
――それにしても郁くんは、どうして私が保健室に行くのを、あんなに嫌がるんだろう?
郁くんは小埜より口が悪いですが、現役時代の小埜と比べれば、まだ可愛いほうです。