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第六章 舞踏会


 国境線での睨み合いは、ゲーンの騎士団が引き揚げたことによってひとまずの決着を見せた。

 ミラェルドレーは親書によって親善の場を設けることを提案し、その返答を待つ間、秋の祭事である舞踏会の準備を進めていた。



 王城には庭園が数多くあるが、それに比べて花壇が少ない。

 庭師は、無数にある庭園の整備はしても、小さな花壇を手入れする暇はないのかもしれない。だから、聖歌殿からの帰り道でその花壇を見つけた時、歌音は珍しく思って足を止めた。

 城の壁に沿って、隠れるように花壇がある。よく手入れされた色とりどりの花が種類ごとに咲き、花の織物のようだった。

「綺麗……」

 歌音は、衛兵に少し離れた場所で待ってもらい、花壇の前に屈んだ。

 特別花が好きなわけではないけれど、名前は知らなくとも、見れば可愛いと思う。

 花壇に咲いている花は、どれも見たことがない形をしていた。鋭角的な花びらを持つ白い花が、ごく細い茎といい物珍しく目を引く。

姫花(ルスミルム)ですね」

 突然声が降ってきたので、驚いて振り返れば、ダルダイムが一緒に屈み込んでいた。

 歌音は驚いて硬直してしまった。気配をまるで感じなかった。

「び、びっくりしました……」

 と言うと、ダルダイムはちょっと驚いた顔になった。声をかけて驚かれるとは思わなかったという顔だ。

 だが、背後から声をかけられて驚かないはずもない。自分が失礼なことをしたと気付いて、申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ありません。熱心に見ておいででしたので、ついお声を……」

 歌音は首を振り、微笑んだ。

「いえ、私こそすみません。この花は、姫花(ルスミルム)というのですか?」

 ダルダイムは隣に来て、六枚の花弁に太い指を添えた。

「姫君のようにか弱く、たよりないことから名付けられました。育てることは難しくない、暑さにも寒さにも強い花ですが、細い茎や純白の花びらが姫君を連想させるのでしょう」

「お詳しいんですね。そういえば、どうしてここに?」

 歌音を見つけてきたとも思えない。そう思って訊ねると、ダルダイムは背後に置いてあったブリキのじょうろのようなものを見せた。

「花に水をやろうと思い……ここは私が世話しているので」

「そうなんですか。花がお好きなんですね」

「私は、剣より土を弄っている方が性に合うようです」

 ダルダイムはそう言って仄かに笑った。その笑顔は穏やかだ。

 歌音は、大木のような身体の根元に小さな花を守っているような人だと思った。身体は大きくても、戦いは好まない性格なのだろう。土弄りは、むしろ彼に似合っている気がする。

「私もお手伝いしてよろしいですか?」

「いえ、カオン様のお手を煩わせるわけには……」

「いけませんか?」

「あ、いえ……」

 しゅんと悲しそうな顔になった歌音に、ダルダイムが悩みながらもじょうろを渡そうとした時だった。

「何をしておいでですの? 聖歌姫(セ・カノルス)静ノ騎士(ウィー・リンター)

 メルメインが背後に立っていた。

 両腕を組み、極端に差のある二人の座り姿を訝しげな目で見下ろしている。

 歌音は立ち上がり、両手を身体の前で重ねて微笑んだ。

「こんにちは、メルメイン様。花壇の花を見ていたんです」

 歌音とメルメインの身長はあまり変わらないが、持っている気質が違うというだけで一回りも違って見えた。歌音に対して(はす)に構えたメルメインの視線を、歌音の穏やかな目が受け流している。まるで火と水だ。

 メルメインが、皮肉っぽく笑った。

「ずいぶん仲がおよろしくていらっしゃるのね。私とも仲良くしていただきたいわ」

「はい、もちろん」

 ダルダイムは少しヒヤリとした。微笑む歌音も、彼女が自分に向ける感情の一部は感じ取っているのだろう。それが何故なのかは分かっていないのかもしれないが。

「ところで、異世界とはどんな場所かお聞きしてもよろしい? 聖歌姫の御父君はどのような身分の方かしら。わたくしと同じ、議会の方? それとも、姫というくらいだから王族かしら」

「私の世界にはほとんど王族がいらっしゃらないんです。父は普通の会社員……勤め人です」

「あら、では平民なの。それでは、聖騎士様とは釣り合いませんわねぇ」 

 明らかな挑発の表情。それでも、メルメインは華やかだった。赤茶の瞳は情熱を形にしたようで生気がある。歌音は、それをまっすぐに見つめた。

「確かに私の父は身分の高い人ではありませんが、家族想いの優しい人です。それは、どのような身分の人であっても、大切なことだと思います。メルメインのお父様も、そうなのではありませんか?」

 歌音の目はどこまでも穏やかだった。まるで避雷針のように、まっすぐに伸ばした背からメルメインの挑発を地面に逃がしているようだ。

 メルメインの目が、不意に鎮まった。歌音の為人(ひととなり)を観察するように慎重に見つめてくる。

「そうですわね、わたくしが望んだことは大抵叶えてくださいますわ」

 相手を怒らせようとする意思が、メルメインのなかから去っているようだった。一人の人間として歌音を見極めようとしている。

「でも、すべてが叶うわけではありませんわ。どうしても手に入らないものができた時、聖歌姫ならどうやって手に入れて?」

「……それは、『もの』ですか? 『夢』ですか?」

「どうかしら」

 つんと突き放されたことにも気付かず、歌音は少し考え込んだ。

 やがて、真面目な顔を上げる。

「『もの』でも、『夢』でも、手に入るまで力を尽くします。少なくとも、私の世界ではそう言います」

「どうしても手に入らなければ?」

 鋭く提示された質問だったが、歌音の答えは素早かった。

「最後まで諦めません。それが本当に欲しいものであるのなら」

 メルメインの手が、一瞬強く、組んだ自分の腕を握った。納得したくないような、一瞬気押されたことが悔しいような表情をしている。

 その唇から、忌々しそうなため息が洩れた。

「手に入れられる人間だから言える台詞ですわね」

「え?」

 歌音は、不思議そうにメルメインを見つめた。自分の何をもってそう判断したのかが分からないという顔で。

「伝承で謳われる姫君の割には、人間臭いんですのね、聖歌姫って。もっと神々に近いのかと思ってましたわ」

 シェラフィールスもそんなことを言っていた。またも見当違いのことを思われていたことが恥ずかしく、歌音は苦笑した。

「人間ですから」

「もういいですわ、お行きになって。待っている方もいるようですし」

 彼女の言う通り、衛兵達がこちらを窺っている。もう少しメルメインと話をしていたかった歌音は残念そうに眉を下げたが、衛兵達を待たせてばかりもいられない。

「はい、では、失礼します――」

「そういえば」

 メルメインが、立ち去ろうとする歌音を呼び止めた。

「あなたの名前、忘れてしまいましたわ。なんておっしゃいましたっけ」

 歌音は、名前を忘れたと言われたのに嬉しそうに笑った。

「加納歌音です、メルメイン様」

「では、次からはカオンと呼びますから、あなたもメルメインとお呼びになって。あなたに敬語を使われるのも、使われるのも癪だわ。次からでよろしいから」

 歌音の顔が陽に照らされたように明るくなり、満面の笑顔になった。

「はい、失礼します!」

 丈の短いドレスを軽やかに翻して去っていく歌音の後姿を見つめるメルメイン。その背後から静かな視線が注がれた。

「……何か言いたそうですわね、ダルダイム様」

「いえ……聖歌姫がお気になりますか?」

 一度否定しておきながら結局は訊くところがこの聖騎士はまどろっこしい、とメルメインは思った。

「気になるのに決まってるじゃありませんの。アルフレイン様は女性が苦手で、誰も目に入らなかったのに、聖歌姫だというだけで目をかけられるなんて、卑怯ですわ」

 それだけではないことを彼女自身分かっているようで、言葉には悔しさが滲んでいる。

「しかも、そのことにご自身が気付いておられない。周囲を押しのけてアプローチしているわたくしが馬鹿みたいじゃありませんの」

 メルメインは、気付いているのかいないのか、ダルダイムの前では饒舌になる。顔を合わせると途端に不機嫌にもなる。情熱を宿す少女の瞳には、静かな聖騎士は覇気がないと見えるらしい。それでも、ダルダイムを無視しようとはしない。

「何故、あのようなことを?」

 ダルダイムが訊ねると、メルメインはもう一度、歌音が消え去った回廊を眺めた。

「……ただ思っただけですわ。運命に選ばれたものがどういう風に欲しいものを手に入れるのか。勝利を約束された人間の心のなかを。全く意外性がなくて、驚きましたけど」

 その瞳が、凪いだようにふっと穏やかになった。かすかに細めた目に癪だという本心が現れている。認めるしかないという諦めも。

「ものなら金貨で買える、夢なら意思で叶えられる。……だけど、人の心だけは。本当に欲しいと願っても、異性の心だけは、運命の導きがなければ手に入らない。あのお二人が時折見つめ合っている姿を見た時に、それが分かりましたわ」

 ダルダイムは何も言わなかった。ただ、一言だけ。

「……ですが、いずれはお帰りになる方です」

「世界が違うからなんですの?」

 消極的な男の台詞を、メルメインは一笑した。

「そんなことで絆が切れるくらいなら、女は最初から運命の恋なんて夢見ませんわ」

 勇ましく言い切るお嬢様に珍しく驚いた顔をしてから、ダルダイムは静かに笑った。


      ♪


 ル=ビ・リンが眠りから目を覚ますと、外は暗く暮れていた。

 石造りの魔導殿は、春と夏は快適だが、秋と冬は凍ったように冷える。そろそろ暖炉が必要かもしれない、と思った。

 彼が聖王から与えられた使命は、毎日の祈祷と魔導殿の管理、式典への出席。それ以外にも細々したことはいくらかあるけれど、おおむね日々は穏やかで単調だ。

 つまり、退屈だった。

 最近では、何百年と積み重ねた年がそうさせるのか、昼から眠ることも少なくない。起きれば夜ということもよくあった。

 薄い寝巻の上にケープ(ニー)を羽織り魔導殿の回廊に出ると、息が白くなるまでではないにしても、大分冷えていた。外を見やると、王城の方が明るく焚かれている。それでようやく、今日が舞踏会だったことを思い出した。

(行く必要はないか)

 祭事の一つであるため出席するようにとは言われているが、式典ではないので強制ではない。今代の聖王も彼が華やかな場を面倒がることを知っているので、迎えも来なかっただろう。

「最導師様?」

 若いというよりは幼い声がして振り返ると、ジェインが本を抱えて立っていた。

「何をしておいでですか?」

 それはこちらの台詞だと思う最導師だった。

「外を見ていた。そなたこそ何をしておる。舞踏会へは行かぬのか」

「ああいう場は苦手なので。ボ……私がいなくても、誰も気にはしないでしょうし」

 彼は、魔導法を使う聖騎士ということから、また、他の理由からも特別な監視下にある聖騎士だと王城の誰もが知っている。

 だが、心ない人間はともかく、同じ聖騎士達は気にするだろう。

 かといって、あえて勧める気もなかった。決めたことに口出ししてほしくないのは自分も同じだからだ。

「では、珈琲(キャテ)でも淹れよう」

 そう言って魔導殿の中に入っていく最導師の後を、よく知るものでなければ分からないほど微かな喜色を浮かべて、ジェインは子犬のようにてこてことついてくる。魔導法のすべてを極めた最導師に、彼はひそかに敬愛を抱いていた。

 ル=ビ・リンが着替えて茶室で珈琲(キャテ)を淹れていると、ジェインが口を開いた。

「そういえば、この度の舞踏会には聖歌姫がお()でになるそうです」

 人と関わりを持とうとしない知ノ騎士にしては珍しく他者の話を茶の場に出したので、最導師は少し驚いた。

 聖歌姫は、異界のものという出生と強い聖性以外はまるで平凡な少女だが、その素朴さが王城では好まれるようだ。ジェインにまでその影響が表れていると知って最導師は驚いたが、彼にとってはいい傾向でもある。

「……聖歌姫が、舞踏会?」

 しかし、話の内容を遅れて理解した最導師は、手を止め、不可解そうな顔をした。

「聞いておらぬぞ、そのような話は」

 ジェインも驚いた。聖歌姫は最導師と宰相が後ろ盾になっているはずだ。

「宰相様の手違いでしょうか」

「舞踏会で何をするつもりか」

「……踊るのでは? あるいは、皆の前で歌われるのか……」

 そう聞くと、最導師はますます渋い顔になった。ジェインが心配そうに「最導師様?」と訊ねる。

「……聖歌姫の聖歌は、普段、よく響くであろう」

「はい」

「あれは、聖歌殿がその身に沁みついた聖性をもって声を拡張しておるからだ。聖歌姫の聖性に反応して、声を響かせる」

 最導師が何を心配しているのか、ジェインにもおぼろげながら分かってきた。

「……と、いうことは」

 不安そうに顔を強張らせたジェインに、最導師は苦々しい顔をする。

「舞踏会場のような聖性の薄い場でまともに歌えるかどうか分からぬ。知らぬこととはいえ、ニドルクレウ・ニア・シシルスも余計なことをする」

 最導師が宰相の名を呆れたように呟くと、ジェインは音を立てて椅子から立ち上がった。

「失礼いたします!」

 駆け出ていったジェインを見送ってから、ル=ビ・リンはふと思った。

「いや……本当に知らぬことであったかは、怪しいものだ」


      ♪


(花が金の野原に咲いているみたい)

 歌音が座る貴賓席からは、ダンスホールが見渡せた。ホールはいくつものシャンデリアに照らされ、場を彩る金の装飾がまばゆく輝いている。そこでさまざまな色のドレスを舞わせ、男性と踊る女性達は、まるで踊る花のようだった。

 歌音は、その中で唯一、シェラフィールスが用意してくれた純白のドレスを着ていた。

 シェラフィールスが歌音をイメージして作ったものだという。シルクのような艶のある生地に金の刺繍が刺されている。小花の髪飾りも純銀を用い、これは王族でもめったに着けないという。それを聞いた歌音はとても身に着けられませんと言ったのだが、聖歌姫として貴族の前に出るのなら必ず必要だと説き伏せられてシェラフィールスから借り受けることになった。

 歌音は聖歌姫であり、異界人であるということからも、舞踏会でありながらダンスは強要されなかった。シェラフィールスから基本の動作は教えてもらったが、異界人と踊ろうとする物好きもいない。だから安心してきらびやかなダンスを眺めていることができた。

 その姿を、遠くからアルフレインが見つめていた。誰も歌音を誘わないことにひそかに安堵している。

「お前は踊らないのか?」

 ダンスホールから、シェザーレイが満足そうな顔で帰ってきた。華やかな場に興味のない彼の恋人が舞踏会へ来ることはないので、やりたい放題だ。アルフレインは呆れた顔でそれを見た。シェザーレイがダンスホールの端を指す。

「お嬢様達がそわそわしてるじゃないか。お前の女嫌いは知ってるが、一人とくらい踊っておけ。騎士の名折れだぞ」

「そんな気にはなれない」

 アルフレインが素っ気なく言うのには、訳があった。国境線から戻ってきてからというもの、留守にしていた間の仕事が思っていた以上に溜まっており、まともに歌音と話ができていないからだ。今日も、歌音が来るというから来たようなものであり、そうでなければ、皆が踊っている間に歌音に会いに行こうとさえ思っていた。

 シェザーレイも遠目に歌音の姿を見つけた。

「ほう、面白いドレスを着ているな。シェラフィールス王女の仕業かな」

 膨らんだドレスの女性が多い中で、歌音のシンプルだが上品なドレスは、清らかなイメージによく合っている。

「さすがに聖歌姫には申し込めんか」

「ダンスは踊れないだろう。わざわざ恥ずかしい思いをさせることはない」

 アルフレインが澄ました顔でそう言うと、シェザーレイは面白げに笑んだ。

「申し込みたいということは否定しないのか」

「あげ足を取ってる暇があったら、もう一曲踊ってこい。まったく」

 最近、シェザーレイは今まで以上に二人の間を揶揄して面白がる。悪気はないのだろうが、昼間までの雑務の疲れもあって、つい言葉がきつくなってしまう。だが、彼をよく知っている友人はまるで気にしない。

「では、俺が申し込んでこようかな。簡単なダンスなら大丈夫だろう」

「――レイ!」

 たまらずがなってしまった時だった。

 ダンスホールの入り口がざわつきはじめた。王城楽団が高らかなファンファーレを響かせる。王族が現れた合図だ。

「シェラフィールス・ディ・ア・ミラェルドレー王女殿下――」

 声と共に、小柄な姫君が粛々とダンスホールに入ってきた。

 月明かりの如き白銀の髪が虹色のドレスに映え、人里に下りてきた妖精のようだ。

 王女は人々が見守る中、壇上に上がった。聖王の隣の席に座ると、可愛らしく微笑む。

 歌音も周囲に倣って一礼した。

 顔を上げた瞬間、シェラフィールスと目が合った。シェラフィールスは嬉しそうに笑みを浮かべ、歌音も微笑んでもう一度頭を下げた。

 再びダンスホールに楽団の音楽が流れはじめ、ダンスが再開される。

 しばらくすると、壇上からシェラフィールスが降りてきた。すかさず貴族の子息達がシェラフィールスにダンスを申し込もうと身構えたが、シェラはそれらには目もくれず歌音の元に駆け寄ってきた。

「カオン!」

 歌音も椅子から立ち上がり、シェラフィールスを迎え入れた。

「こんばんは、シェラフィールス様。いらっしゃったのですね」

「最初は行かないつもりだったの。でも、カオンがいるのならそれもいいかと思って。ねぇ、何か食べた? お酒は? ケーキ(シュフト)がきっとおいしいわ。食べに行きましょうよ」

 ダンスホールの一方の壁際には、溢れるほどの料理が用意されていた。まさか、そこに王女自身が行けるわけがないと思い、歌音は戸惑った。

「ご自分で行かれるんですか?」

「いけない? いけないなら、誰かに取ってきてもらうわ」

 と言うや否や、それを聞きつけた子息達が、「私が持ってまいります!」と名乗りを上げて、数分もしないうちにクリーム(シューン)チョコレート(ショコレ)で作ったお菓子を持ってきてくれた。歌音の分もあり、歌音はありがたくそれをいただくことにした。実は少しお腹が空いている。

「ありがとうございます」

 と、お礼を言うと、貴族の子息達はぽかんとしてから、慌てて礼をした。聖歌姫に声をかけられるとは思っていなかったのだろう。あるいは、思っていたより穏やかな少女であることに驚いたのかもしれない。

 そして、思っていたより親しみやすいことを知ると、がぜん興味が湧いてきたようだった。

「聖歌姫は異界の方とお聞きしましたが、異界とはどのような場所ですか?」

「王女殿下と仲がおよろしいのですね。まるで姉妹のようで、ほほえましい」

「ダンスは踊れますか、よろしければ一曲」

「抜け駆けはいけませんよ、私と是非――」

 急に辺りが人と声で埋め尽くされ、歌音はどうしたらいいのか分からず、お菓子の皿を持ったままうろたえた。

 今日はここに座り、後に一曲歌ってほしいと言われただけで、ダンスは踊らなくても踊ってもいいと言われている。だからレッスンを受けてきたのだが、だからといって知らない人と踊れるかは分からない。

(でも、申し込まれているのなら、踊った方がいいのかしら)

 しかし、誰と踊ればいいのだろう、と考えている間に、背の高い人が一際近くに来ていた。

「では、私と踊っていただけますか。聖歌姫(セ・カノルス)

 白い手袋を差し出している男性を、歌音は一瞬、誰かと思ってしまった。

 久しぶりに見るせいか、歌音が知る姿より凛々しく、見知らぬ人のように見えた。

「アルフレイン様……?」

「カオン、見惚れていてはダメよ、早く手を取らないと」

 傍でシェラフィールスが囁く。歌音ははっとして「は、はい」と答えてアルフレインの手を取った。

 光ノ騎士相手では分が悪いと思ったのか、貴族の子息達は渋々引き下がる。

 二人は、ホールに進んでいった。

 心臓の鼓動が妙に速まり、落ち着かない気分になる。顔がほてり、何かを話さなくてはならないという気になった。

「私、少ししか教わっていないのですが」

 すると、アルフレインが笑った。

「私も得意ではありませんから、大丈夫です」

 歌音はきょとんとしてアルフレインを見上げ、笑ってしまった。

 何が大丈夫なのか、分からない。しかし、頼もしく請け負われるよりよほど安心できる言葉だった。

 音楽が変わる。二人はステップを踏みはじめた。

 言葉とは裏腹に、アルフレインのダンスは慣れたように軽やかで、安心して踊ることができた。

 周囲から視線を感じるが、好奇の目に晒されることにはもう慣れた。今はただ、アルフレインだけを見ていればいいと思う。

 いつの間にか、近くでシェラフィールスがイルミラと踊っていた。まだ小柄な王女だが、歌音に教授しただけあって足取り危なげなく、楽しそうに踊っている。

 取り残されたシェザーレイが、壁際でその様子を眺めていた。

「まったく要領のいい奴らだ」

「お前が言うか」

 その隣に、長身の女性が立った。

 薔薇色のカクテルドレスを着たローザインが立っていたので、シェザーレイは目を剥いた。彼女が着飾るところは久しぶりに見る。そして、普段は甲冑を身に纏っている恋人が着飾れば誰よりも美しいということを再確認した。

「珍しいな。どういう気の変わりようだ?」

 ローザインは胸の下で腕を組み、特に踊る気もなさそうな顔でダンスホールを眺めている。その目には歌音の姿が映っていた。

「聖歌姫がいらっしゃるというのでな」

「お前まで姫目当てで来たのか」

 少し呆れ気味にシェザーレイが言うと、ローザインは目を細めた。

「……なんだか嫌な予感がするのだ。よく分からんが」

「お前が前に言っていた、姫の存在が鍵になるかもしれないということか?」

 答えは返ってこなかったが、ローザインの表情は明らかにそう思っていると告げている。

 撥弦楽器がか弱げな響きを残して消えると、楽団がゆっくりと曲を終わりへ向かわせた。

 楽団の演奏が止むと、聖王の席である最壇上の貴賓席から、一人の男が下りてくる。

 男は、ホールを静々と進み、歌音の傍まで来た。歌音は自然と男を見上げる。

 背が高いが、ローブを纏った身体は細く、神経質そうな眼をしていた。髪の色は灰色。血色も悪く、鋭角的な顔立ちだが、歌音を見下ろす眼には隠せない知性の光と信仰深さがある。

 男は、歌音に恭しく会釈をした。

「宰相を務めております、ニドルクレウ・ニア・シシルスと申します。聖歌姫(セ・カノルス)聖歌(セノン)をお聴かせ願えますか」

 歌音は初めて見る宰相に緊張しながらも、「はい」と答えた。

 ホールを、貴賓席へ通じる階段の下に向かって戻り、向き直る。王城楽団に目配せをした。

 楽団がゆるやかに伴奏をはじめる。人々の視線が集まる中、歌音は息を吸い込んだ。

 しかし、その唇から洩れたものは、歌ではなく小さな声だった。

(……え?)

 歌音は目を見開き、ホールに集まった人々もざわめきはじめた。

 唇からは確かに声が聞こえる。だが、かろうじて歌にはなっているけれど、聖歌姫が日ごろ聖歌殿で歌っている聖歌には程遠く、子どもの鼻歌のようだ。

(……声が、響きが、違う?)

 そこに至って、歌音はようやく聖歌殿の性質に気付いた。聖歌殿で歌う声は伸び伸びとしているような気がしていたけれど、あれは本当に歌音の声を拡張していたのかもしれない。

 あるいは、そこに留まっている聖性が、歌音の聖性に反応して特別な音を出していたのかもしれない。だとしたら、ここで同じように歌うことはできない。

 やがて、貴族達のひそやかな笑い声が聞こえてきた。失笑や嘲笑。戸惑うように音楽を奏でている楽団。徐々に歌音の声が小さくなっていく。

 歌音も、これ以上は歌えないと思った。少なくとも、楽団をバックにしている限り、どんどん声が埋もれていくばかりだ。

(どうしよう。()()()()()()()()()()

 しかし、どこで止めればいいのか分からない。

「ねぇ、これどういうこと!」

「これでは見世物ではないか」

 いつの間にか集まってきたイルミラとシェザーレイが、アルフレインに険しく問いかけた。ダルダイムも傍に来ている。だが、アルフレインは、強張った顔のまま何も言えなかった。何よりも不自然なのは、宰相がこうなることを予期していなかったとは思えないことだ。

「アルフレイン、聖歌姫を止めて」

 小さな叫びが聞こえ、振り返ると、ジェインが息を切らしながら立っていた。アルフレインは素早く問い返す。

「どういうことだ?」

「ここでは聖性が薄いから、聖歌姫の声は響かないんだ。まして、こんな広い場所じゃ」

 アルフレインが歌音の方を振り返り、走り出そうとする。

 と、その隣を赤い影が駆け抜けていった。

「聖歌姫は緊張していらっしゃるのですわ!」

 突然、歌音の声よりも高らかな少女の声がホールに響いた。

 戸惑いがちだった楽団の音楽が止み、歌音も驚きで歌を引っ込めてしまった。

 見ると、歌音と貴族達の間に一人の少女が進み出ていた。情熱的な真紅のドレスを纏った、サイルリー議会長の令嬢、メルメインだった。

「はじめて皆様の前で歌うのですから、当然ですわ。ねぇ、聖歌姫」

 メルメインはそう言うと、衆目も気にせずずんずんと歌音に近付いていき、琥珀色の液体を注いだグラスをその手に持たせた。そして、そっと囁く。

蜂蜜酒(レヒーズ)よ。しっかりしてちょうだい。一緒に踊ったアルフレイン様に恥をかかせる気?」

「メルメインさ――」

 さん、と歌音が言いかけると、メルメインは無理やりグラスを歌音の口に付けた。言うなと言ったでしょう、ということらしい。歌音が咽せかける。

「この程度でへこたれるようなら、笑うわよ。カオン」

 厳しくも優しくそう言ってくれた少女に、歌音は微笑み、恥ずかしげに言った。

「ありがとう、……メルメイン」

 歌音は、メルメインがくれた蜂蜜酒を飲むと、グラスを彼女に渡し、楽団の指揮者に声をかけた。

「すみません、ピアノ(ピニア)だけで演奏していただけますか」

 指揮者は心得たというように頷き、奏者に目配せすると、指揮棒を上げた。

 ここでは歌音の声は響かない。ならば、伴奏の音を小さくするしかない。それで聞き苦しくならないかどうかは、歌音の力量と度胸にかかっている。

「――――」

 息を吸い込んだ。広いホールの隅々にまで声が行き渡ることはないだろう。けれど、怖くはない。

 心を込めて歌うことだけは、毎日続けてきたのだから。


   静かな夜に鳴く 鳥よ

   お前が抱える悩みを 打ち明けておくれ


 小鳥のように細い声が、しかし確かに響きはじめた。

 それは聖歌でもあり子守唄でもあり、誰もが寂しい夜に一度は口ずさんだことのある歌だった。


   闇が怖いのならば 夜明けまで

   お前の傍に いてあげよう

   光が見えず塞ぐ心を

   そっと包んでなぐさめよう


 ホールが再びざわめきはじめた。とても聖歌姫の歌声とは思えない。

 だが、細い声で驚くほど堂々と歌う歌音の姿は、人々の心を惹きつけた。

 そして誰言うとなく、あちこちから歌が響きはじめる。

 ホールを、大合唱が埋め尽くした。


   誰もが一人ではない

   夜が明ければ光が 闇の中にもぬくもりが

   愛すべき心は 聖魔を越えて

   その心に芽生えている


   歌え 誰かのために

   歌え 弱さを乗り越えるために


 曲が止み、拍手が起ころうとした。

 けれど、最壇上に座る人物が声を発したことによって、それは叶わなかった。

「見事だ、聖歌姫」

 幕の下がった貴賓席から、一人の男が姿を現した。

 歌音は驚きながらも、その姿を目にした。床まで届くガウンを羽織った、四十半ばの男性だった。髪はガウンと同じ焦げ茶で、穏やかな、意思の強そうな眼をしている。彼が、この国の王なのだろう。

「この場で堂々と歌い上げる心の強さ、しかと見せてもらった。その強き心を見込んで、恥知らずにも頼みたいことがある。ゲーンへ、特使として赴いてもらいたい」

 場がざわめき、あちらこちらで戸惑いの声が上がった。それを鎮めようと、宰相であるニドルクレウが手を払い、後を引き継ぐ。

「ゲーンは、親交の場を設ける代わりに聖歌姫を特使にと所望してきた。我が国としても、魔導国へ聖歌姫の聖歌を届けることは親交の証になると思っている。聖歌姫、お引き受けいただけるか」

 ざわめくホールの中、聖騎士達は一様に苦い思いでそれを聞いていた。立場上、聖王や宰相を非難することはできない。それでも、イルミラが苦々しく呟いた。

「……卑怯だ。こんな場所で断れるわけないじゃないか」

 人々の視線が集まる中、歌音はうろたえることなく目を閉じ、黙していた。

 本当の意味でこの世界のためにできることがある。それが怖いようでもあり、嬉しいようでもある。

 歌音は顔を上げると、聖王に向かって堂々と言った。

「お引き受けします。私をゲーンへ行かせてください」

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