第四章 恋ノ歌
聖歌殿を銀の光が満たす。
秋の澄んだ空に聖歌が響く。
今日も、王城に清らかな歌声が届いていた。
聖歌殿での務めを終えた歌音は、衛兵と共に館へ帰るところだった。
だが、柱廊の先に白い聖騎士の姿が見えると、衛兵達は何も言われていないのに頭を下げ、来た道を引き返していった。そういうものだと承知してしまったのだろう。
「こんにちは、アルフレイン様」
歌音が声をかけると、アルフレインは一瞬緊張したような顔をしたが、やわらかく微笑み返してくれた。
「……元気ですか、カオン」
「はい」
(最近、アルフレイン様の様子がおかしいような……)
館へ続く道を並んで歩きながら、歌音は、最近アルフレインと会話が少なくなっていることに気付いた。シェザーレイやイルミラとは話が尽きないのに、アルフレインと会うと言葉少なになる。
こっそり顔を窺うと、アルフレイン自身もそれを歯がゆそうに思っているような顔だった。言葉が出てこないというように。
だが、歌音はそれでも良かった。ただ並んで歩いているだけで気持ちが落ち着くから。
「そうだ、カオン、庭園にでも――」
と、アルフレインが口を開いた時だった。
「アルフレイン様――っ!」
甲高い声が近付いてくると思ったら、アルフレインの腕に一人の少女が抱きついた。
驚く歌音の目の前で、少女の娘用のドレスが翻る。
赤と白のストライプの生地に、緑の刺繍を刺した彩り鮮やかなドレスだ。ドレスと揃いの燃えるような長い赤髪が目を引く。睫毛を巻いた赤茶の瞳が、ちらり、と歌音を見た気がした。
年の頃は、歌音と同じだろうか。少女は、アルフレインの腕に絡みついたまま、優美に微笑んだ。
「お会いしたかったですわ、アルフレイン様。ようやく女学校が秋休暇に入って、戻ってこれましたの。わたくしのこと、お忘れではありませんよね?」
アルフレインは、思ってもみなかった珍客に度肝を抜かれて動けなくなっている。
ただ、知っている相手ではあるのか、顔をひきつらせながら少女の名前を呼んだ。
「メルメイン嬢……お戻りになったのですか」
それだけで、少女――メルメインは、無上の喜びを得たような顔になった。
「まあ嬉しい! 名前を覚えていてくださったのね。それだけで、馬車を急がせた甲斐がありましたわ。あと一日遅れていたら忘れられていたかも。いつも素気無くするんですもの、アルフレイン様ってば」
メルメインという少女は、アルフレイン以外の人間は目に入っていないかのようなはしゃぎようだったけれど、きちんと歌音の存在は認識していた。ひとしきりアルフレインに話しかけると、じっ、と歌音を見つめる。歌音は妙に緊張した。
「ところで、こちらのお嬢様はどなたですの?」
そう言われて、アルフレインもようやく頭のなかが正常に動きはじめたようだ。軽く咳払いをして、歌音を手で示した。
「メルメイン嬢、こちらは聖歌姫でいらっしゃいます。敬意を示すように」
「聖歌姫?」
メルメインは、その呼び名がすぐには分からなかったようだった。数百年に一度しか召喚されない聖歌姫は、王城の外の人々にとってはお伽噺の住人だ。
だが、思い出すと、今度は眩しいほどの笑顔で歌音に向き直った。
「そういえば、お父様がそんなことをおっしゃっていましたわ。これは失礼しました」
そう言って、ドレスをつまんでお辞儀する。堂に入った所作だった。
「メルメイン・フィ・サイルリーと申します。父は王城の議会で議会長を務めております。聖歌姫は異界の方とお聞きしておりますが、可愛らしい方ですわね。仲良くしてください、聖歌姫」
最初の勢いにあっ気にとられていた歌音だったが、名乗られたことに気付くと、慌てて自分もお辞儀をした。
「加納歌音と申します。メルメイン様。よろしくお願いいたします」
メルメインは表情豊かな少女のようで、歌音のつつましい挨拶に怪訝な表情を隠さなかった。
「……なんだか、聖歌姫という割には、ずいぶん気安い方ですのね」
「メルメイン嬢!」
「でも、よろしいんじゃありません、親しみやすくって。それよりアルフレイン様、これからお茶にしませんか? 珍しい紅茶と焼き菓子がありますの。是非、半年間のお話をお聞かせくださいな」
どんどん話が先に進んでいく。アルフレインは痛そうに額を押さえた。
「メルメイン嬢……申し訳ないが、私はこれからカオ……聖歌姫を館へ送り届けなければいけないのです。そのお誘いは、また今度」
「あら、どうして聖騎士であるアルフレイン様が聖歌姫の護衛をしていらっしゃるの?」
「護衛というわけでは」
メルメインの不機嫌さの矛先が、歌音の目から見ても悪い方へ向くような気がして、歌音は慌てて間に入った。
「私は近くの衛兵にお願いして戻りますから、大丈夫です。どうぞ、お気になさらず行ってください」
「いや、しかし――」
尚も言おうとするアルフレインの腕を、メルメインがぐいと引っ張った。余裕のある顔で微笑む。
「聖歌姫はお優しくていらっしゃるのね。お言葉に甘えますわ。さ、参りましょう、アルフレイン様。失礼いたします、聖歌姫」
「カ、カオン」
ほとんど引き摺り、引き摺られるような形で、二人の姿が遠ざかっていく。
その姿が見えなくなると、歌音の頭のなかに「台風一過」という言葉が浮かんだ。
「……姫? 供も連れずに何をしておいでですか」
振り返ると、きょとんとした顔のシェザーレイがこちらへ向かってくるところだった。
「あ……シェザーレイ様」
歌音は、少しほっとして向き直った。
「今、アルフレイン様がいらっしゃったのですが、メルメインとおっしゃるお嬢様とお会いして……」
シェザーレイはメルメインのことを知っているようで、あぁ、と納得した顔になった。
「メルメイン嬢ですか。女学院が秋の休暇に入ったから、お父様のところへ戻ってきたんでしょう。まぁ、ここで見つかるとはアルフレインもつくづく間の悪いヤツだ。驚いたでしょう、元気なお嬢様で」
我が意を得たりという気がして、歌音は笑った。
「はい。それにとても綺麗で、溌剌とした方ですね」
「あのお嬢様は毎年、秋になると王城に台風を巻き起こすんです。アルフレイン目掛けてというところが、周囲には安全なところでね。そうか、もうすぐ社交シーズンでもあるんだな」
「社交シーズン?」
歌音は王城の行事に疎い。駆り出されることがないからだ。それに対して、シェザーレイは親切に説明してくれる。
「秋になると、各地の収穫祭と一緒に王城でも舞踏会などが開かれるんです。領地を持っている貴族や議会に関わる人間の娘などが一斉に集まるので、なかなか盛大なものになります。しばらくは、王城が賑やかになりますよ」
「楽しそうですね」
と、歌音がのん気に言ったので、シェザーレイはこっそりと苦笑した。その時ばかりは、歌音も放ってはおかれないだろう。それを言えば、この少女は緊張しきってしまうだろうから、黙っていることにするが。
「さて、ということは、あれはしばらく邪魔しにきませんね。姫、草原へ遊びに行きませんか?」
大木が植わった丘の麓に草原があることは歌音も知っている。だが、今日はあまり時間がない。
「すみません……そろそろ戻らないと、ニルナ達が心配するので」
「伝言を頼めば大丈夫ですよ。秋の草原は気持ちがいいものですよ」
と、気軽に言って肩を取られ、有無を言わさず連れていかれそうになる。
同じ聖騎士でこれほど違うものかと、歌音は少なからず驚いた。
すると、背後で甲高い靴の音が鳴った。
「そこの不良聖騎士」
凛とした声に呼び止められる。
言葉からイルミラかと思ったけれど、振り返った先にいたのは、見知らぬ女性だった。
簡易な甲冑を着けている。背を覆う薔薇色の髪と濃緑の瞳。強気そうな表情が男よりも勇ましい。凛々しい眉。紅を差した艶やかな唇。そして、男性ほどもある背と、甲冑の上からでも分かるグラマラスな身体。
ぱっ、と、シェザーレイが歌音の肩から手を放す。
そしてそのまま、「お手上げ」をした。見ると、どこかひきつった顔をしている。
「帰っていたのか、ローザイン……」
「聖歌姫にまで手を出すとは、救いようのない男だ。その不埒な手、今ここで斬り落としてくれようか?」
細めた目で物騒なことをさらりと言った後、ローザインと呼ばれた女性は歌音の前に跪いた。歌音はびっくりした。
「お初にお目にかかります、聖歌姫。ローザイン・ピーリッツと申します。以後、お見知りおきを」
歌音は目の前がぱちぱちと瞬いて見えた。女性でありながら、ローザインは誰よりも正しい騎士のようだ。
「はじめまして……あの」
「軍では将軍を務めております」
「将軍様なんですね。加納歌音と申します。よろしくお願いいたします」
誰なのだろうと戸惑っていた歌音が安堵の表情を浮かべると、ローザインもにこりと笑み、立ち上がった。
「咲く前の蕾のような姫君に不良聖騎士をつけるのは心許ない。私が館までお送りしましょう」
その姿に頼もしいものを感じた歌音は「お願いします」と微笑んだ。
「姫」
「お前はここでいいぞ」
と、ローザインがシェザーレイに言ったが、二人が歩きはじめると、シェザーレイも苦い顔で後ろからついてきた。
「ここでいいと言っただろう」
ローザインがつれない言葉と視線をやると、シェザーレイはむすっとする。
「お嬢様の心を掴むのが上手い女将軍に聖歌姫を任せておけまい。お気を付けください、聖歌姫。男より女を口説くのが上手い女です」
しかし、歌音はシェザーレイとローザインの打ち解けた会話が面白く、くすくすと笑ってしまった。
「とても凛々しい方なので、分かる気がします」
「光栄です」
そう言って、ローザインが自慢げに微笑んだ。
「ありがとうございました」
「またお会いできますよう、祈っています」
歌音が館へ入っていくのを見届けたローザインは、踵を返し、王城へ引き返しはじめた。シェザーレイもそれを追っていく。
王城の回廊まで来ると、シェザーレイが突然ローザインの腕を引き、奥まった通路に引き込んだ。壁際に押し込めたローザインを逃がさないように、その前に立ち塞がる。二人の背丈はほとんど変わらないが、わずかにシェザーレイの方が高かった。
シェザーレイが小憎たらしい顔を引き寄せようと顎に手をやると、すかさず、女性にしては大きな手が若々しい聖騎士の顔を鷲づかみにした。
今度は、ローザインが険しい顔をしている。
「救いようがない男になった上に、節操までなくす気か?」
馬鹿にするような眼に睨まれたシェザーレイだったが、二人きりになったとあっては手加減する気もなく、不機嫌そうにその手を払い除けた。
「久しぶりに会う恋人に対する態度か、それが。開口一番『不良聖騎士』と言われた俺の気持ちにもなれ」
すると、呆れたようなため息がローザインの唇から洩れた。
「では、戻ってくるなり姫君の肩を抱いている姿を見せられた私の気持ちにもなってもらおうか、レイ」
シェザーレイが、ぽかんと口を開けた。顔を背けて静かに怒るローザインを見て、ようやく溜飲が下がる。
「……お前が立派に嫉妬してくれるとはな」
そう、まんざらでもない顔で言う。しかし、恋人は依然冷たかった。
「馬鹿なことを言っていないで、そろそろ真面目になれ。私がこの時期に王城に戻ってくるわけがないことにまだ気付かないのか」
もちろん気付いていたシェザーレイの目が、少し真面目になった。
「……ゲーンか?」
ローザインは腕を組み、小さく頷いた。
「ゲーン王はふた月ほど前から床に伏せっているが、代理となった王子が聖王の訪問を拒むようになった。西の国境線にゲーンの兵士が現れたという話も聞く」
「まさか、国境線から踏み込んできそうなのか」
「大陸の目がある限り、なんの宣戦布告もなく踏み込む真似はしないと思うが、西の国境線は警戒しておいた方がいいだろうな。そのうち、こちらからも騎士団を派遣することになるかもしれん」
北の魔導国ゲーンは、古くは戦の相手だったが、およそ六百年前、海を隔てて東に広がる大陸の助力によって調停されてからは佳き隣人となった。それが、ふた月ほど前から親善の席を延期するなどの心変わりを見せ、最近では聖王の訪問を拒んでいる。そのことは、シェザーレイの耳にも入っていた。
「第一王位継承者のウルィ王子も親睦派だったはずだが、なぜ心変わりをされたのか……戦になりそうか」
「ウルィ王子のお心が分からない限りなんとも言えんが……最悪の場合はそうなるだろうな。議会は近々会議を行う。お前達も出席が求められるだろう」
ローザインは、王城を守る聖騎士達と違い、将軍として度々北部へ赴いている。国境線の情報は最も豊富に正確に持っている。その彼女が楽観視していないということは、思う以上に状況が悪いということだ。
「せっかくの社交シーズンだというのに、どうにも雲行きが怪しいな」
シェザーレイがそう言って、うっとうしそうに髪を掻き上げた。
しかし、その脳裏を一人の少女の顔が掠めた。
「……戦争にはさせまい」
急にシェザーレイがそんなことを言ったので、ローザインは不思議そうに視線を向けた。すると、めったに見せない真面目な表情を浮かべている。
「異界からの客人に醜態を見せるわけにはいかないからな」
そう言って、笑う。それが誰のことを指すのか、ローザインにも分かった。
「聖歌姫か……もしかして……」
「もしかして……なんだ?」
妙なところで言葉を切った恋人を、シェザーレイは訝しげに見た。
彼女は、こういう時の勘が動物並みに鋭い。
「聖歌姫の存在が鍵になるかもしれん。なにせ、伝承で『救国の聖歌姫』と謳われるお方だ」
♪
「カオン様、お客様ですわ」
ニルナが意味ありげな顔で部屋にやってきたのは、空もとっぷり暮れ、もう少しで眠るという時刻のことだった。
「お客様、ですか?」
歌音は本から顔を上げ、誰だろうと思いながら玄関へ向かった。
すると、昼間別れた聖騎士が落ち着かない様子で待っていた。歌音は嬉しくなって、駆け寄った。
「アルフレイン様、どうなさったんですか?」
「いえ、近くを通りかかったもので……夜の散歩でも、と思いまして」
歌音の顔がぱっと輝き、ニルナを振り返る。
「ニルナ、いいですか?」
振り返ると、ニルナはにやけた顔で笑っていた。
それを急いで引き締めて、咳払いをする。
「光ノ騎士様がついていらっしゃるのなら安心ですわ。行ってらっしゃいませ」
「じゃあ……少しだけ」
「月の光が綺麗……」
外へ出ると、薄布のような月光が地上を照らしていた。
月とは違う天体なのかもしれないけれど、歌音は地球から見る月と同じものだと思っている。そう思うと、地球と繋がっている気がするからだ。
アルフレインは、歌音をいつか訪れた中庭に連れてきてくれた。
王城の館の明かりと月の光で足元が見えるほど明るい。夜空の下に浮かび上がった中庭は美しく、どこからか虫の音も聴こえてきた。もう秋なのだ。
「その、メルメインのことなんだが」
と、アルフレインが言った。
彼は、歌音に対して人前では敬語を使う。二人きりになるとくだけた口調になるのだが、慣れないのか、いつも言いにくそうにしている。
「はい、どうかなさいましたか?」
歌音が立ち止まって顔を見上げると、アルフレインはわずかに怯んだ。だが、すぐに真面目な顔になる。
「彼女は特別な相手というわけではないんだ。それだけ伝えておきたくて」
「そうなんですか」
と言って、歌音はにこやかに笑った。
昼間見たメルメインとアルフレインはとてもお似合いだったので、そうであってもいいなと思っていたのだが。
すると、アルフレインが奇妙な顔になった。どこか落胆したような。
「……カオンには、特別に想う相手がいるのだろうか」
そして、ぽつりとそんなことを言ってから、急に慌て出した。
「い、いや! 言いたくなければ、訊かないが」
「特別な相手、ですか?」
「恋人」のことだろうか、と歌音は思った。だとしたら、もちろんいない。
「いません。でも、憧れている人はいました」
「え?」
アルフレインが驚いたように目を丸くした。
それは、今となっては遠い昔のような話だった。
「同じ学校の先輩でした。剣道の強い方で、頭も良くて、凛々しくて……先輩に憧れている女の子がいっぱいいました。私、この世界に来る前、その人にチョコレートを渡そうと思っていたんです。……あ、チョコレートというのはお菓子の名前なんですが、そのお菓子と一緒に気持ちを伝えるという風習があるんです」
「気持ちを伝える……」
不安そうに呟いたアルフレインに、歌音は苦笑した。
「もちろん、告白する勇気なんてありません。ただ、卒業してしまう前に思い出を作りたかった。それだけで……」
本当にそれだけの理由だった。親友からからかい交じりに告白しないのかと訊かれ、しないと答えていたが、今思うと、気持ちを伝えるつもりがなかったのは勇気がなかったからではないような気がした。
「でも、今は……」
冷たくなりはじめた夜風が二人の間を吹き抜ける。
何かを言おうとして振り返った歌音は、けれど、アルフレインの顔を見た瞬間、何を言おうとしたのか分からなくなってしまった。言葉が続かない。
「今は……?」
アルフレインが訊ねる。優しい湖水色の瞳。その澄んだ色に目を奪われてから我に返り、背中を向けた。
「な、なんでもありません」
何故か、アルフレインの顔を見るのが恥ずかしい。
「そ――そういえば」
話題を変えようと、歌音は明るく言った。
「この間、ニルナに歌を教えてもらったんです。聖歌ではないんですが、昔からある古い歌だそうで……アルフレイン様はご存知ですか?」
「ど、どうだろう。聴いてみなければ分からないが」
「で、では、聴いていただけますか?」
「あ、あぁ……」
アルフレインが頷くと、歌音は自分でも何をしているのだろうと思いながら、風を吸い込んだ。
どんなに胸が騒いでいても、歌いはじめれば大丈夫。
それは、アルフレインもよく知る歌だった。
心に咲く花に 名前をつける
可憐な花びら一枚 ちぎり 唇に
蜜を分け合えば 心は一つ
名付けた想いを ここで告げれば
この心は永久に 彼方のもの
明日を共に生きよう
さわさわと木々が揺れる。歌に喜んでいるように。
歌音はちゃんと歌えたことに安堵して、息をついた。
「素敵な歌ですよね。私、この歌がとても好きに――」
振り返ると、アルフレインが見たこともないほど赤い顔をしていた。
夜目にもそれと分かるほど、耳まで赤くしている。つられて、歌音も赤くなった。
「あ……アルフレイン様……?」
おずおずと声をかけると、アルフレインがはっとする。
「すまない。……そろそろ戻ろう」
背中を向けて、歩きはじめる。
熱くなった頬を押さえながら、歌音もその背中について歩きはじめた。
館が近くなってくると、玄関先で話をしている侍女長と若い騎士の姿が見えた。
騎士は、アルフレインと歌音に気付くと、急いだ様子で駆けてきた。
アルフレインが厳しい顔で迎える。
「どうした」
「宰相閣下がお呼びです。至急、軍議の間にお越しください」
「分かった。すまないカオン、ここで失礼する」
アルフレインは歌音に礼をすると、部下の騎士と共に走り去っていった。
胸騒ぎがする。
「侍女長、どうしたんですか?」
玄関先の侍女長に訊くと、年嵩の侍女長は皺の深い顔をいつもより優しく微笑ませて言った。
「カオン様がお気になさることではありません。さ、中へお入りください。おやすみ前にお茶をお淹れしましょうね」
館へ入る一瞬、歌音は外を振り返った。そこには誰もいない。落葉の吹き溜まりがあるだけで。
その二日後、アルフレインの騎士団がゲーンとの西の国境線へ派遣された。