第一章 異世界
目を覚ました歌音が最初に見たものは、異国の部屋だった。
白いレースが垂れる天蓋付きのベッド。金の装飾のアンティーク椅子。花柄の壁紙。窓から光が射し込んでいるから朝であることは確かだが、自分の部屋ではないことも確かだ。
何十秒か頭のなかが真っ白になった。自分の頬を思いっきり抓る。
「……痛っ!」
ベッドから身を起こした体勢のまま、愕然とした。
「夢じゃない……の?」
手を握り締め、泣きそうになっていると、扉がノックされ、女性が現れた。
濃茶の簡素なドレスに、白いエプロンを着けている。貴族の屋敷にいるメイドのような格好だ。
年上に見えるが、顎のあたりで切り揃えた赤茶の巻き毛が愛らしい。
歌音が起きていることに気付いたメイドは、ぱっと笑顔を弾けさせると、うやうやしくお辞儀をし、挨拶のようなものを口にした。
けれど、言葉が分からない。
メイドは、純白のドレスを見せて、着替えを促しはじめた。拒むのも躊躇われベッドを降りると、甲斐甲斐しく手伝ってくれる。それで少し、ほっとした。とりあえず、歓迎されているようだ。
(でも、お風呂に入ってたはずなのに、どうしてこんなところにいるんだろう。言葉も分からないし……)
歌音の混乱に気付かず、メイドは笑顔で声をかけ続けている。
「――セ・カノルス……」
不意に、そんな言葉が耳に入り込んできた。
「セ・カノルス?」
思わず繰り返すと、メイドが嬉しそうな顔になった。頷いたり、笑ったりしながら、その言葉を何度も口にする。どうやら、歌音のことを指しているようだ。
(そういえば、昨夜もそんな風に呼ばれたような……あ、あの白い髪の男の人は日本語を喋っていなかった? あの人に会えば、何か分かるかも)
そう思い、おそるおそるメイドに訊ねた。
「あの、すみません。会いたい人がいるんですが、どこにいるか知りませんか? 白い髪の、白いローブを着た……」
「……? ……」
言葉が分からないのだろう。メイドは申し訳なさそうに頭を下げ、歌音の髪を梳かす作業に移った。
(やっぱり言葉が分からないんだ)
ひっそり嘆息すると、部屋の鏡台に、着付けられた自分の姿が映っていることに気付いた。
純白の、レースとフリルをふんだんに使ったドレスだ。きっと高いものだろう。いいのだろうかという戸惑いで、また頭が混乱しはじめた。
(ど、どうすればいいんだろう……)
泣き出したい気持ちでいっぱいになる。けれど、そんなことをしたら、この優しそうなメイドを困らせてしまうだろう。
(捜しに行けないかな)
そんなことを思った時だった。再び扉がノックされ、年嵩のメイドが部屋に入ってきた。何か言いながら、歌音を部屋の外へ連れ出そうとする。
「は、はい」
促されるまま向かった先は、すぐ隣の部屋だった。
部屋に入ると、歌音の目のなかに雪のような白髪の色が飛び込んできた。昨夜見た男性が、椅子に座って悠々とお茶を飲んでいる。
「あっ!」
歌音の声に気付き、男が振り返った。ゆったりとした動作で立ち上がり、深々と頭を下げる。
「ご機嫌はいかがか。聖歌姫」
歌音は、ごくりと唾を呑み、男の前に立った。
「……あなたは、日本語が分かるんですね? 教えてください。ここはどこですか?」
見つめると、男はやはり若く見えた。
「とりあえず座られよ」
そう言って椅子を勧められたので、歌音はおそるおそる椅子に座った。
男の目は茫洋として、声にも抑揚がない。驚くほど淡々としていた。
「もう少しお騒ぎになるかと思っていたが、落ち着いていらしたのは幸いだった。私は、ル=ビ・リン。このミラェルドレーにおいて最導師と呼ばれているもの」
聞いたことのない国名だ。
「ミラェ……ドイツですか? イタリアですか?」
「聖歌姫の世界の国名と推察するが、どちらでもない。ここは、あなたがいらした世界とは違う。『異世界』と呼ぶのが正しかろう」
「異世界……?」
歌音の頭のなかに、数々の空想世界が思い浮かんだ。
現代では、ごく当たり前のように異世界を訪問するという現象が受け入れられている。ただし、物語のなかでのみという注釈付きで。それが自分の身に起きたとは、到底信じられない。
「どうして私はここにいるんですか? セ・カノルスとはなんのことですか?」
そう訊ねると、最導師が感心したように眉を上げた。
「ほぅ。魔導法も使わず言葉が聞き取れるとは……。では、ご説明申し上げる」
また扉がノックされ、先程の若いメイドがお菓子と紅茶のようなものを持って入ってきた。
最導師は、それを視界の端にも入れず、歌音を見つめて話しはじめる。
「この世界をあなたの世界の言葉で言えば、『異世界』となる。仔細にお話しすることは神域に障るためできかねるが、生まれて間もない世界だとお思いいただきたい。この世界は『聖なるもの』と『魔なるもの』の均衡の上に成り立っているが、まだ若く未熟なこの世界は数百年の周期で『魔なるもの』の力が上回るため、『聖なるもの』の力を支える『聖歌』が必要となる。その『聖歌』を歌う異世界人をセ・カノルス……『聖歌姫』という。それがあなたです」
「私、ですか?」
狼狽えて自分を指差すと、最導師が頷いた。歌音は首を横に振る。
「た、確かに歌は好きですが、『歌姫』なんて大それた存在じゃありません」
「聖歌姫に必要な資質は強い『聖性』。私の魔導法によって選ばれたのだから、あなたが最も強い聖性を持っているはず」
「そんなこと……」
あるはずがない、と思うのだが、選んだ本人が絶対の自信を持っているようでは否定するだけ無駄かもしれない。
正直、話はよく飲み込めないし、分からないことだらけだ。けれど、ここが別の世界だということはなんとなく分かるし、ここから自力で帰ることが不可能だということも分かる。
ならば、従うしかないのかもしれない。
「あの、では、『聖歌』を歌えば地球に帰してもらえるんですか?」
「『聖なるもの』と『魔なるもの』の均衡が取れればお帰しする。時間にして、一年か、二年か……」
「一年か、二年? そんなにかかるんですか?」
それでは、「先輩」の卒業式に間に合わないどころか、自分の卒業式にも出られるかどうか。だが、最導師は案ずるなというように頷いた。
「お帰しする時は、来た時と変わらぬ場所と時間になることをお約束しよう」
「二月十三日、ですか?」
「それが聖歌姫にとっての昨日であるのならば」
歌音のなかで、不安の塊が半分ほどに融けた。自分がどこにいるのか、何をすればいいのか、もはや疑っても仕方がない。そうしなければ帰れないということは、そうすれば帰れるということと同じだ。ならば、やるしかないのだろう。
「わ、分かりました。歌を……『聖歌』を歌えばいいんですね?」
最導師は再び立ち上がり、深々と頭を下げた。
「『聖歌姫』、お引き受けいただき、感謝する」
(なんだか調子のいい人……)
選択の余地のないことを言っておいてそんなことを臆面もなく言うのだから、相当にマイペースな人物のようだ。
だが、これほど潔いといっそ羨ましくなる。それに、この世界で言葉が通じる唯一の人かもしれない。そう思った瞬間、大事なことに気付いた。
「あの、私、言葉が分からないんですが」
「そうでした」
最導師はさらりと言い、歌音の額に指を当てた。
身体のなかを、風のようなものが通り抜ける。
「これでお分かりになろう」
「聖歌姫。お茶をお取り替えします」
メイドの女性が、やわらかくそう言って、冷めたお茶を取り替えてくれた。
ぽかんとした。胸が少しドキドキする。
「魔法みたい……」
「魔導法という、神域より賜りし力。確かに『完全なる世界』には魔導法がないと聞くが、まるでないとは、不思議なことだ」
最導師が、少し驚いた顔で、そう言った。
♪
ミラェルドレーは、一つの島の南方一帯を国土に持つ国だ。
島の中央には卵の黄味のような楕円形の内海があり、島を北と南の二つの国に分けている。南の国が聖歌国「ミラェルドレー」。北の国を魔導国「ゲーン」といった。
ゲーンが創始の神々のうち「魔なるもの」を国神に据えたのに対して、ミラェルドレーは「聖なるもの」を祀っている。
ミラェルドレーは、「聖歌」と呼ばれる神聖な歌によって信仰を表すことが特徴だ。最導師を擁護し、大陸にまで影響を及ぼすほどの巨大な聖性を持つ。ゲーンと共に世界の中枢を担う国の一つだった。
人々は稀なるミラェルドレー王を「聖王」と呼び、聖王は信仰心厚く国を守護する五人の騎士に「聖騎士」の称号を与えた。戦乱も記憶に遠く、長い治世を誇っている。
しかし、数百年の周期で神々の均衡は崩れ、崩れは魔物と綻びを生む。
その均衡の崩れが、今、一人の異世界の少女に背負わされていた。
「フ、イ、ドレー……ミィー、ニ、セイ」
古ぼけた楽譜をなぞりながら、歌音はたどたどしく唇を動かしていた。
この世界の楽譜は七線譜。それも楽譜と歌詞が一体になっている。音符の代わりに踊るのは歌詞。最初は戸惑ったが、少しずつ慣れてきた。
「発音、合ってるかな」
歌音は心配そうに眉根を寄せた。そこへ、コンコン、と扉がノックされる。
「聖歌姫、お茶はいかがですか?」
「ありがとう、ニルナ。いただきます」
微笑みながらお茶道具を持って部屋へ入ってきたのは、侍女のニルナだった。ミラェルドレーに来た初日に世話をしてくれたメイドだ。この世界では侍女というらしい。
ミラェルドレーへ来て二週間。専属の侍女となったニルナとは、特に親しくなった。
ニルナは、紅茶に似たお茶を淹れてくれた。花模様の白磁の器で、取っ手はない。代わりに蓋があるので、西洋風の中国茶器のようだ。これがこの世界でのティーカップらしい。
「古代語のお勉強は進んでいますか?」
歌音より五歳ほど年上で赤茶色の瞳が印象的なニルナは、話好きなのか、よく声をかけてくれる。それが嬉しい。
「発音が難しくて……」
苦笑しながらそう言うと、ニルナも「そうですよね」と言って頷いた。
「言葉が分かるようになったといっても、古代語の発音までは分かりませんものね」
最導師のおかげで会話の不便はなくなった歌音だったが、「聖歌」を覚えるための根本的な解決にはならなかった。聖歌を書き記した楽譜の文字まで読めるようになったわけではなく、聖歌の基本である古代語の発音までは分からなかったからだ。
言葉は翻訳されても、一つの言葉に二つの発音を重ねることはできない。歌音は、視覚的にも聴覚的にも、古代語を外国語のように習得する必要があった。
「ですが、歌のお稽古はもう終えられたとか。さすが聖歌姫ですね。あちらの世界でも歌を学んでいらしたとか」
「部活で、ですけど」
「学院の習いごとですね。お披露目の日が待ち遠しいです」
「…………」
楽しげなニルナと対照的に、歌音はこっそりため息をついた。
確かに、古代語と楽譜のことを除けば歌音は優秀だった。聖性を第一とする聖歌姫の歌は聞き苦しくない程度に上手ければよく、中学、高校と合唱部である歌音に発声と音感のレッスンはほとんど必要なかった。その分を古代語の勉強に回されているくらいだ。
「どうなさいましたか?」
お茶に手をつけず、浮かない顔をしていることに気付いて、ニルナが顔を覗き込んだ。歌音はびっくりする。
「い、いえ」
「悩みごとですか? すみません。私が古代語をお教えできるといいんですが……」
「ニルナは仕事があるんですから、気にしないでください」
そう言っても、ニルナは心配そうな顔をしている。歌音はちょっと迷ってから、打ち明けることにした。
「最近、大きな声で歌っていないなと思って」
歌の稽古が減ってから、大きな声で歌う機会が減ってしまった。合唱部で毎日のように歌っていた分、それがやけに堪えている。
「あぁ、なるほど」
理解ある侍女は納得して、思案顔になった。
「お部屋の中で歌われても構いませんが、確かに毎日机でお勉強では気が晴れませんね。分かります。私も雨続きで外に出られないと、憂鬱になりますから」
ニルナは、うんうんと頷きながらそう言った。異世界にも、地球人と同じような理由で雨が苦手な人がいるのだ。
「そうだ! 少々お待ちください、聖歌姫」
「ニルナ?」
ニルナは何かを思いつくと、風のように部屋から飛び出していった。
歌音は、目をぱちくりさせてそれを見送った後、外に目をやった。
窓から見える景色は穏やかで、幾棟もの館や、草原のようなものも見える。今日はいい天気で、ところどころに植えられている木々の葉が光を浴びて輝いていた。
遠くに、大木が植わった丘が見える。
(あそこで歌えたら気持ちがいいだろうな)
歌音はそう思いながら、丘を見つめた。
鈍く重い音がぶつかりあう。
王城内の芝生で、二人の男が剣を交えていた。鍛錬用の木剣だ。それを、青年がもう一人、少し離れたところから見物している。
三人は色の違う揃いの服を着ていた。神々の加護を与えるという刺繍が位の高さを示している。王より下賜された聖騎士服。この王城において纏える人間は五人しかいない。
白い聖騎士服を纏った男の髪が陽を照り返して金色に輝く。彼が持つ木剣の切っ先が、相手の喉仏の前で止まった。
時が凍り付く。
木剣を突きつけられた男は、ゆっくりと両手を上げた。
「……まいった。降参だ」
麗しい声が、ふてくされながら降参を告げる。
流し目の似合う美男だった。背はすらりと高く、腰は女性のようにくびれて見える。そのくせ、身体つきは男らしい。男の反感は買いそうだが、婦人にはことごとく好かれそうだ。
男は、やれやれという顔で木剣を持っていた手をほぐしている。
見物人が、悪気のない顔で口を開いた。
「そういえば、シェザーレイがアルフレインに勝ったところ、見たことないかも」
こちらは青年でありながら少年のように見えた。背は低くないが、顔立ちが幼い。瞳もぱっちりとして、幼少期は女の子と見間違えられたかもしれない愛らしさだ。
「何か聞こえた気がするが、聞かなかったことにしよう。イルミラ」
シェザーレイは、遠慮のない仲間を横目で見やった。
「素直に負けを認めるところは、偉いけどね」
と、イルミラが楽しげに笑った。
「……そうだったか? 騎士学校時代には何度か負けたと思うが」
勝利者の男は、シェザーレイを色男と称するなら、王侯貴族のようだった。
蜂蜜色の髪。緑がかった湖水色の瞳は優しく、身を包む気品は男さえも憧れさせる。アルフレインの名の通り、彼は王城中で愛されていた。
そんなアルフレインを見て、シェザーレイはため息をついた。
「剣を覚えたての頃に勝って、なんの自慢になる。騎士になってからはお前に勝った覚えなど一度も無いぞ。それで剣ノ騎士の称号とは、なんのイヤミだ」
しかし、アルフレインは飄然とした顔をしている。
「お前の腕は、確かだろう」
「外聞の問題だ。お前はいいさ、光ノ騎士。そのままで」
「ねぇねぇ、僕は?」
横からイルミラが入ってくる。シェザーレイは、さっきの仕返しとばかりに素っ気ない。
「癒ノ騎士。いいんじゃないか、おもちゃみたいで」
「何それ。でも、癒されたいのは僕の方だよ。今だって光壱日以来の休みなんだから」
イルミラは、普段のこき使われように頬をふくらませた。
「そういえば」
アルフレインがイルミラを見た。
「お前が稽古を見にくるのは珍しいな。急ぎの用でもあったか?」
何も言わず見物していたところを見ると、素直に休憩に来たのかもしれないが、普段王城中を走り回っている聖騎士がなんの用もなく自分達の元を選ぶとも思えない。
すると、イルミラは、構ってもらえて喜ぶ子犬のような笑顔になった。
「そう! 二人は見たのか気になって来たんだ」
「何を?」
「歌姫だよ。聖歌姫が召喚されたって話は聞いたでしょ。どんな方か、知ってる?」
途端に、シェザーレイが興味深そうな顔になった。
「お披露目は先と聞いたぞ。見たのか?」
「ううん。でも、館の侍女長に聞いたんだ。聞き分けのいい、穏やかな方だって」
「ほー。大した情報網だ」
感心したように頷きながら、シェザーレイがイルミラの前に来る。その肩に手を回して、にやりと笑った。
「だが、肝心なのはそこじゃない。絶世の美女か、花恥じらう姫君かだ」
「キミの正直さには感心するよ、シェザーレイ」
イルミラも笑顔で応じた。今更、シェザーレイの女好きには動じない。
「美しいものを愛でるのは男の役目だ――おい、どこへ行く、アルフレイン」
気が付くと、アルフレインが二人からさり気なく離れていこうとしていた。彼は、先程のシェザーレイと正反対に、興味のなさそうな顔をしている。
「丘で休んでから戻る。そういう話はどうも苦手だ」
「異界の姫だぞ。聖歌姫だぞ。男として、興味はないのか」
なんという男の名折れだ。そう言い出しそうな友人にも、アルフレインは手を振るだけだった。
「……まったく。あいつの女嫌いは、どうにかならないのか」
去っていく友の背中を見て、シェザーレイが呆れた顔になる。
「簡単だよ。キミの性分を分けてあげればいい」
イルミラが、あっさりと言った。
♪
(異界の姫でも、女性は女性だろう)
丘を登り、王城から遠ざかっていく。丘には心地良い風が吹いていた。
騎士学校が男寮制だったせいか、アルフレインは女性が苦手だった。
叙勲され、騎士となった当初はさほどでもなかったけれど、聖騎士の称号を得てからは毎日のように貴婦人や貴族の娘達から言い寄られるようになった。そのせいで苦手意識に拍車がかかったと言っていい。
(ドレスを着て、きらびやかな宝石で飾った女性は確かに美しいが、私には香りの強すぎる花だ)
好きな香りでなければ、傍にあるのも辛い。艶やかな唇に映る気位の高さにも辟易した。
「ここで眠っている方が、よほど落ち着く」
城の支柱よりも太い大木が一本植わった丘は、アルフレインが王城で最も気に入っている場所だ。城や聖堂や館や塔。ここから、王城中が見渡せる。
聖騎士であることに誇りを持っているし、聖王への忠信も揺るぎないが、王城は窮屈だと思うことがあることも確かだった。
アルフレインは、聖騎士服の上着を脱ぐと、王城が見えない大木の蔭に寝そべって目を閉じた。
(だが、異界の聖歌姫とはどんな人なのだろう)
うとうととしはじめた意識のなかで、そんなことを思う。
(やはり大輪の花のように美しい人なのだろうか。それとも……)
微睡む意識を、歌が揺らした。
(風……?)
アルフレインは、一瞬、風が歌っているのかと思った。風の聖霊が歌っているのかと。
けれど、聖霊の声は最導師の耳にすら稀にしか聞こえないという。それほど強い聖性を持たない自分に神域の声を聞くことはできないはずだ。だから、気のせいだと思った。
(気のせい……ではない?)
やはり、どこかで誰かが歌っている。
それは、子どもが最初に習う「聖歌」だった。
光の道を 空に敷く
火は宿る 手のひらに
水が輝く 海の向こう
風が呼ぶ 自由と共に
地は支える 母のように
闇は眠り 目覚めの 時を待つ
絶えぬ感謝と祝福を 聖なるものに
とてもたどたどしい発音だった。子どもが覚えたての言葉を練習しているかのようだ。
(だが、優しい歌声だ。一生懸命で、何より楽しそうだ。いつまでも聴いていたくなる)
アルフレインは身体を起こし、そっと木の向こう側を覗き込んだ。
すると、少女が一人、草の上に立って聖歌を歌っていた。王城の人間ではないだろう。それなら、もう少しましな発音をしているはずだ。
(……まさか、この方が聖歌姫なのか? まだ少女じゃないか)
想像よりもずっと幼い。未婚の女性が着る膝丈のドレスを着ている。身体も小柄だ。
やがて、歌が止み、少女が満足げに空を仰いだ。
次の瞬間、目が合った。
言葉が出なかった。
ふと振り向いたら、人がいたからだ。それも、やけに綺麗な男性が。
「あ……」
下手な歌を聴かれたと気付き、歌音は頬が熱くなった。
男性も、歌音の様子を窺ったまま硬直している。互いの目が、全身が、相手の次の動きを求めているようだ。
「こ……、こんにちは」
遠慮がちに先に声をかけたのは、歌音だった。そうしなければ、永遠に二人とも固まっているような気がしたからだ。
すると、男性がはっとして、慌てながらその場から立ち上がった。
「あ、あの、その……あっ、いや」
上着を着ていないことに気付いて、周囲を忙しなく見回す。袖を通そうとするが、うまく腕が入らない。
「……っ」
歌音は咄嗟に口を押さえた。相手は真剣なのだから、笑っては失礼だ。
男性は、上着を着ることを諦め、胸に手を当てて軽く礼をした。それがこの国の礼の仕方らしい。
「失礼しました……聖歌姫でいらっしゃいますか?」
楽器のように澄んだ声だった。
「は……はい」
と、答えたものの、歌音は背がむず痒かった。ニルナならともかく、初対面の人に「聖歌姫」と呼ばれるとやはり恥ずかしい。
「アルフレイン・リークエットと申します。お目にかかれて光栄です」
「は、はじめまして。加納歌音です」
歌音は、まじまじとアルフレインを見た。
(なんて綺麗な人……)
歌音よりずっと高い背。華やかな顔立ち。金の髪に緑がかった碧眼。女の子が夢見る王子様のようだ。
「聖歌のお勉強ですか?」
と、アルフレインが訊いてきたので、歌音は頷いた。
「はい……でも、発音がまだよく分からなくて。お聞き苦しくて、すみませんでした」
「無理もありません。古代語の発音は、私達でも難しいものですから。……しかし、異界の方にしては、言葉がお上手ですね」
不思議そうに言われ、そう思うのは当然だろうと歌音も思った。
「最導師様が魔法をかけてくださいましたので」
「魔法? ……あぁ、魔導法のことですか。最導師様は大陸でも稀な使い手でいらっしゃるから」
(最導師様って、すごい方なんだ)
と、会話に関係のないことをぼんやりと思っていると、アルフレインがにこりと笑った。
「もしよろしければ、私が古代語をお教えしましょうか?」
「えっ?」
思わず驚いてしまった。そんなことを言われるとは思っていなかったからだ。
「でも、お城の方では? お仕事の邪魔になってしまいませんか?」
「今日は時間がありませんが、明日の夕暮れ時の……そう、十六刻から一刻ほどなら、時間が取れます」
歌音は少し考えた。
名前しか知らない相手だが、悪い人には見えない。むしろ、とても優しそうだ。
教えてもらえるのならばありがたい。古代語を教えてくれる教師とは限られた時間しか会えない。
今日は、歌音も丘の下に衛兵を待たせている。ニルナが侍女長にかけあって、衛兵付きという条件で外へ出してくれたからだ。そろそろ戻らなければ、そのニルナも心配する。
「……ありがとうございます。教えていただけるのなら助かります。では、明日のその時刻に、またお会いできますか?」
「もちろんです」
アルフレインが眩しいほどの笑顔で請け負ってくれたので、歌音もほっとした。
「では、今日はこれで失礼します」
「館までお送りしましょうか」
「いえ、丘の下に衛兵の方がいるので、大丈夫です」
そう言うと、アルフレインも安心したように笑った。
「そうですか。では、お気を付けてお戻りください」
歌音は軽くお辞儀をすると、持ってきた楽譜を抱えて丘を下りはじめた。
(……どうしてあんなことを頼んでしまったんだろう)
約束を取り付けてから、歌音は自分で自分のしたことを不思議に思った。名前しか知らない、会ったばかりの男性に頼みごとをするなど、今までしたことがない。するとも思っていなかった。
丘を振り返ると、アルフレインが佇みながら歌音を見送っていた。それだけで、なんとなく嬉くなった。
きっと、そんなことを頼んでしまったのは、彼がとても優しそうだったからだろう。
今まで会った誰よりも、綺麗で優しい瞳をしていた。