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雪輝世界

作者: 真白流

 世界が白に染まり、埋め尽くされるのを生れて初めて見た人間が一体どれほどいただろう。

 天候までもが制御された味気ない街で、そんなことが起きたのは初めてのことだったに違いない。

 朝から制御システムに異常があった、と様々な場所で騒ぎが起きていたことを、黒ずくめの男は歩きながら思い出した。

 静まり返った空気は冷たく、耳鳴りに頭の奥が痛くなっていくのを感じたのは彼にとっても初めての経験だった。

 黒い影が白銀に落ちて、あとに大きな靴跡を残していく。

 そうする間にも雪は降り続き、大通りを横切って裏路地に入り込んでも景色は然して変わらなかった。人が踏み入れることが少なく、人目にも触れない乱雑なその場所は、いっそ日常と比べると美しく見えさえする。

 だからと言って、彼にはそうした景色にのんびりと視線を向けて、それを楽しむという感覚はない。今はただ、早く家に帰りつき、熱いシャワーを浴びて泥のように眠りたかった。

 ――どさ。

 白い溜息をなんというのでもなく吐き、足を速めようとした彼の耳に、不意、何かが地面に落ちる音がして反射的に振り返る。

 けれども、そこにあったのは先ほどと変わらぬ景色。

 屋根の上にでも積もった雪が落ちてきたのだろう。そう深く考えもせずに結論づけた彼は、人の気配とそれ以外とを区別できない程に集中力を切らした自身に苦笑を浮かべ、歩き出そうとして、再びその足を止めた。

 足許を黒い小さな影が、掠めるように走り去って行ったのだ。

 その影を追いかけるように顔を上げると、黒猫が一匹。まるで誘うような眼差しを向けて、道の先で佇んでいた。

 普段の彼ならば気にも留めなかっただろうけれども、その時は――そう、気まぐれなのだろう、その爪先を黒猫の方へ向けてみることにしたのだった。

 彼が招きに応じようとしていることを察したのだろう、ちょこんと道の真ん中に座っていた黒猫はおもむろ立ち上がり、先に進んでいく。時折、黒猫がを振り返っては自分がついて来ていることを確かめるような素振りをされてしまえば、もう彼はどこかへと案内されているような気さえしてくる。

 疲れと非日常である気候に自分までイカレたか、とそんなことを考えつつ猫の後をついて行くと、やがて袋小路にたどり着く。

 ビルとビルとの狭間にぽっかりと空いた空間へ続く入口で、彼は足を止めて空を見上げる。

 四角く切り取られたちいさな空は、まるで絵具を幾重にも塗り重ねて描かれた絵画のようにも思える。いや、彼はその景色こそが本来見るべきものであることを、知っていた。

 双眸を細めて空の色に意識を向けていた彼は、先の空間から控えめに鳴く猫の声を聞いて視線を巡らせた――けれども、先ほどまで確かに黒猫が佇んでいた空間にその姿は見当たらない。

 まるで夢か幻かのように消えた黒い姿が掻き消えてしまえば、いよいよ自分の調子が本格的に疑わしくなり、苦笑が唇を彩った。

 何をしているのやら、そう苦味を含んだまま猫がいたはずの空間を眺めた彼は、そこに雪とは異なる何か別のものが在ることに気付き無意識に歩き出す。

 一歩、二歩、と進みだした靴が動きを止めたのは、何かの正体をようやく知ることが出来るほど近くにたどり着いた時だった。同時に、酔狂の結果には相応のものが付いて回ることを、改めて実感しつつ彼は深い溜息を吐いた。

 目の前には、降り続ける白い雪に半ば埋もれ掛けた子どもが、仰向けに横たわっていた。

 通報すべきか。そもそも、生きているのかも知れない子どもを目の前に逡巡する男の耳に、再び猫の鳴き声が聞こえてくる。

 視線を注意深く周囲に巡らせるけれども、自分をこの場所に導いてきた黒猫の姿は矢張り見当たらなかった。

 彼は視界が白く染まるほど、大きく溜息を吐くと数歩進んで、子どもの傍らに立ち止まる。

 白い色に覆い隠されてゆく子どもは、肌も髪も色素が薄く、意識を手放しているからなのか人が持つ存在感というものがまるでないように思えた。放って置けば、雪とともにやがて溶け消えてしまいそうですらある。

 幾度目か、猫のか細い声が響くと男は唇でへの字を描いて、ポケットに突っこんだままだった手を引っ張り出し身を屈めた。

「――……ったく、仕方ねぇな。俺に預けたことを、後悔するなよ」

 姿も気配も感じさせず、ただ急き立てるように、訴えるように鳴き声を響かせる存在に断るような呟きをこぼすと、彼はそのまま子どもの腕を掴み、無造作に雪の中から引き上げた。

 ちいさな身体にさえ見合わない軽さに、一瞬眉をひそめたけれども、彼はそれ以上何を言うこともなく軽くもう一方の掌で子どもの身体に纏わりつく白い粉を払うと、コートの中に子どもを招き入れる。

 ひやりとした冷たい感触に、天を仰いだ彼は一体何をしているのやら、そんなことを考えながら歩き出した。背後にもう一度、鈴をならすかのような微かな鳴き声が聞こえた気がしても、彼はもう振り返ることはなかった。


**


 玄関で靴を無造作に脱ぎ捨てて、短い廊下を進んだ先の扉を足で開いた先のリビングには本当に必要最低限と思える家財道具しか存在しない。

 広々とした空間に少々不釣り合いなちいさなダイニングテーブルにソファ、テレビ。パッと見で目に入るのは、その程度のものだった。

 一日を無人で過ごして冷え切った室内の空気は、荷物の少ない空間をことさら無愛想に見せるようだった。

 そんな見慣れた風景を気に留めることもなく、彼は“拾得物”を抱えたままエアコンのリモコンを操作しながら、背の高いパーティションで区切られただけの寝室へと足を向けた。

 寝台の上に子どもをおろし、ほんの短い間逡巡するような視線を眼下に向けたあと、服に手をかける。さすがに、着の身のまま寝かせるわけにもいかなかった。

 最大風力にしたエアコンの吹き出し口から出る風の音と、微かな衣擦れだけが室内に響く。

 何でこんなことを自分がしなくてはならんのか。そんな考えを過らせもしたけれども、連れてくることを選択したのは自分自身に他ならないため、それは溜息と共に吐き捨てることにした。

 不思議と濡れていたのは、ちいさな身がまとっていた白い外套だけだった。凍ったような身体や髪の冷たさからは想像できなかったが、こうしている経緯自体が普通とは言い難いのだから今更そんなことを気にすることも止めた。

 そうして外套をはいだことで分かったことが、もうひとつ。

「――……厄介な拾いもんしちまった」

 はじめて明るい場所で眺めた青白い顔や服装からして、子どもの性別が女だということ。

 苦い色を唇の端に浮かべてごちるけれども、それもあとの祭りだった。

 濡れた外套ごと掛け布団を取り払うと、改めて寝台の上に少女を横たえてクローゼットからブランケットを数枚重ねてかけてやる。

 そこまでしたところで、ようやく生きていることを思い出したかのようにちいさな身体が小刻みに震えだしたけれども、部屋が温まれば次第に落ち着くだろう、と彼は寝台の横から離れたのだった。


 屋根のかたちに合わせて斜めに設えられた天窓から落ちる光は銀色。

 絶え間なく降り注いだ雪は、夜半を過ぎてようやく止んだようだった。

 ぼんやりとする視界で天井を見やり、再び瞼を閉じようとした彼は、普段寝室として使用している空間から微かな声が聞こえてくるのに気付き、ソファから重い体を起こした。

 エアコンをガンガンにかけたままの室温は、うっすらと汗ばむほどとなっていて、素足で触れた床すらほんのりと温かい。

「――……、で」

 忍ばせるでもなく足音もなく寝台へと近づく彼の耳に、再び、今度は明確に掠れた子どもの声が聞こえる。

「おい……?」

 ベッドサイドに立ち、うなされている様子の少女に声を掛けつつ、半ば埋めるように重ねたブランケットを捲り上げた。

 暑さのせいか、それとも夢に浮かされているせいなのか、少女は頬を紅潮させ、額には汗を浮かべていた。

「――……っ、やだ! ……ぶたないでっ、いい子にしてるから!!」

 寝言にしてはやけにはっきりとした叫び声が、室内に響く。

 片眉を跳ねた彼は、少女の肩口を大きな手でつかんで引き起こすと、揺さぶり、その覚醒を促した。乱暴なやり方だとは思いもしたけれども、他にやりようが思いつかなかった。

 男の日常から何もかもかけ離れた一連の出来事は、冷静な思考をもつ人間に、ほんのすこしの綻びを与えたのだろう。

 やがて、緩やかな速度で開かれてゆく瞳が、天窓から落ちる銀光を受けて光を宿す。黒色にオリーブを一滴落としたような、不思議な色合いをした双眸が、ゆっくりと瞬き、次第に夢うつつから現実へと移ろってゆくさまは、連写されたフィルムをコマ送りに見ているように印象的だった。

 天井をぼんやりと眺めていた少女の瞳がゆっくりと動いて、自分を覗き込む男のかたちを映し出す。

 ひとつ、ふたつ。みっつ……。

 緩やかな速度で瞬きを繰り返し、怯えるでもなく、困惑するでもなく真っ直ぐと視線を交わす少女に、男の方が根負けしたように苦笑いを浮かべた。

 言葉なく交わらせた瞳を退けるきっかけを与えたのは、午前3時を報せる控えめなアラーム音だった。同時に、少女に触れたままだった両手を離すと、覗き込んでいた身体を起こしてゆく。

 ちいさな身に落ちていた影が退き、白銀の光が直接寝台の上に降り注ぐと、彼女はそんなささやかな光にすら眩しそうにして、双眸を伏せる。

 眼元に影を作るほど豊かで長い睫毛は音なく伏せられたというのに、鈴の音が聞こえたような錯覚を覚えて、彼はすっかりペースを崩している自身に自重を浮かべた。

 彼は寝台横の窓辺へと腰を預けて両腕を組むと、常より明るい夜明け前の景色を見せる窓に視線を向けた。その窓越しに、瞳の色はたしかに覚醒を示しているというのに、どこか夢の中に漂い続けているような少女の様子を眺めていると、再び視線がかち合った。

 今度もまた、惑う様子なく、その瞳はまっすぐに男へと向けられていた。

「――……あ、の」

 静まり返った室内に響いた声は、透明でか細く、ともすれば雪の降る音にさえ覆い隠されてしまいそうだというのに、男の鼓膜を震わせたその音は、ひどく存在感のあるものだった。

 今にも消え入りそうな儚げな少女の姿と、その声とが与える印象の差異に聊か呆けたようにしていた男は、首を傾ぐ仕草に髪が零れ落ちてささやかな音を立てるのを聞くと、はたと瞬きをして我を取り戻す。そうして、彼女がこの部屋にいる理由――己が彼女を見つけた経緯を口にしようとして唇を開いたけれども、それは声を成すことなく再び鎖されることとなった。

 “猫に導かれて行った先で見つけた”などと言うのは、例えそれが紛うことなき事実であったとして、いくらなんでも馬鹿げていると思ったのだ。それが唯一の真実であると知っている己自身がそう思うのだから、第三者が聞いたとして信じる確率の方が低いのは、火を見るよりも明らかである。

 荒唐無稽な言葉を綴ることを放棄した男の唇が、淡くため息を吐くと、そこで初めて少女は所在なさげに視線を彷徨わせて、手元へと双眸を落とした。

 そんな様子を眺める黒い瞳は一度、深い瞬きをして、月光を纏う白い姿を直に映す。

「――お前、名は」

 ため息の延長のように紡がれた問いは、問いというには平坦で不明瞭だった。

 エアコンが稼働する音と、時を刻む時計の針が移ろう音ばかりが満たす静かな部屋にもうひとつ、長い睫毛が瞬く微かな音がして、緩やかな速度で持ち上がった少女のかんばせに浮かぶ感情は不思議だった。

「……お前の名前を聞いている」

 呆れたような面持ちでもう一度、男が同じ意味の言葉をフレーズを変えて口にするけれども、その音声はぶっきらぼうな言葉繰りに比べれば、随分と柔らかいものとなっていた。

 はた、と瞬きを幾度か繰り返した少女は、そんな彼の様子をしばらく観察するように眺めた後、不意にほんの僅かばかり安堵したように表情を緩めてちいさな唇を開く。

「ひろゆき……」

 鈴の鳴るような涼やかな声に、そうか、とひとつ頷いた彼は寄り掛かっていた窓辺から身を離して、少女に手を伸ばす。唐突のことに驚いたように身を怯ませる様子に気づくと、彼は頭上に伸ばしかけた指先の行方を、その額へと変えてその場所を軽くこずくようにしてその手を退いた。

「――とりあえず、今は寝ろ。俺もそうする」

 弱い力とはいえ思いもよらない力の作用で、再び温かな布団の上に戻った少女は、目を白黒させていたけれども、そんなことなど気にも留めずに彼は言いたいことだけを言うと、パーティションの向こうへと姿を消した。

 銀の光がちらちらと、まるで止んでしまった雪の代わりに振り続ける場所へ一人残された少女は、今はもう見えなくなってしまった後姿をしばらくの間眺めていた。

 飾り気のない無愛想な部屋は、自分が知る場所でないということを明確にするから妙な安心を少女に与えた。だからなのか、抗いがたい睡魔が静けさと共に訪れて、少女は押し戻された布団の上で身動ぎ、めくれ上がったブランケットを引き寄せると双眸を閉じる。

 名前すら知らない人の部屋だというのに――いや、だからこそ、こうして温かなベッドの中で眠ることに、ひどく安堵しながら眠りに落ちていったのだった。

続き物ですが、続きを執筆できるか不明なため短編として投稿させて頂きました。

改定は誤字脱字の修正のみで、内容に変更はありません。

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