98 別れの季節
「樹を好きになっていれば楽だったのに、どうしてそれができなかったんだろう」
答えは簡単だ。樹が、結姫を好きだったからだ。ユーキは、樹が敵わない恋をし続けているのを、一番近くで見てきた。今も、ずっと――。それを分かっていながら樹に恋をするほど、ユーキは愚かではない。初めから、ブレーキが堅く閉じられていたのだ。
そして、樹がユーキを傍で見守っているのは、すべて結姫のためであるということを、ユーキは、分かっていた。
* * *
目を覚ますと、ユーキはベッドにいた。樹の胸に頭を預けたまま、眠ってしまったらしい。
あぁ、夢だったのか、と、ユーキは額に手をかける。
過去を思い出したのは、夢に魘され続けた5年前、まだ家を飛び出す前以来のことだった。
暗闇の中にいると、ユーキは、過去に引きずり込まれる。思い出したくない過去の痛みが、ぼうぼうと燃えさかる炎のように、奇怪な色を発して、頭を埋め尽くす。
それがどうにも耐えられなくて、そんなとき、夜の世界に入ることを決めたのだった。眠らない街は、夜に、眠る必要がないから。
そういえば朱葵に、「こんな時間に眠れるのか」と、聞かれたことがある。「もう慣れた」と返した答え。本当は、初めから平気だった。朝陽はネオンのように、チカチカと目を刺激しない。言うなら目に溶け込むような、染み入るような、そんな光を注ぐ。その中で眠るのは、ユーキにとって難しいことではなかった。朝陽は、あの夜明けの光と同じものだったから。
額には生暖かい汗が滲んでいて、それはまるで、冬の終わりと春の訪れを示唆しているみたいだった。
「ユーキ、起きたか?」
「あ、うん」
樹がユーキを呼び起こすと、ユーキは、はっと意識を戻す。
「どうした?」
「・・・・・・ううん。もう春だなって、思っただけ」
この部屋に降り注ぐ陽射しも、何だか透き通っていて、暖かい。
「あぁ、もうそんな季節だな」
樹は頷き、光の線を辿る。窓の先に伸びる光は、空高く、続いていた。
「・・・・・・もうすぐか」
「うん」
春は出会いの季節、とはよく言ったものだけれど、ユーキにとって、春は、別れの季節だ。
結姫が家を出て行ったのが春なら、突然の事件もまた、春だった。
「明日はどうするんだ?」
「・・・・・・行かない。行けないわよ・・・・・・」
そして、今年の春。もうすぐ、ユーキと朱葵が、別れ、新たな試練を迎える時が来る。
* * *
午後3時。ユーキは家に着くと、小さなショルダーバッグから携帯を探った。そういえば、携帯のチェックを忘れていたことを思い出したのだ。もしかしたらお客から、同伴の誘いメールが入っているかもしれない。
「あれ、ない・・・・・・」
バッグには財布しか入っていなくて、ユーキは記憶を辿る。携帯は、朝、朱葵に留守電を残したあと――。
――ソファに置き忘れてたんだわ。
ソファには、携帯がコロンと置かれていた。まるで、うっかり間違えられたみたいに、ホワイトベージュのソファの上に、赤い携帯は目立っていた。
メールは7件、電話の着信は、5件。
「5件?!」
ユーキは、思わず声を上げる。メールはお客とのやり取りもあるので多いが、さすがに電話がかかってくることはそう多くない。誰もいないのに、誰かに見られてしまわないような挙動で、ユーキは着信履歴を押した。
「あ・・・・・・」
朱葵だった。5件とも、すべて。
「朱葵くん・・・・・・」
2時間に1回のペースで、朱葵からの着信があった。あとで、4件のメールが残されていることも分かった。
「ユーキさん。寝てるの? お願いだから電話に出て」
「ユーキさん。まだ寝てる? でも起きて」
「ユーキさん。これに気づいたら、電話して」
「ユーキさん。メールだけでもいいから、とりあえず連絡して」
1行のメールは、朱葵の忙しさを物語るように、簡単な文で綴られていた。だけどそこには朱葵の悲痛な想いが込められていて、ユーキは、その場にしゃがみ込む。
「どうしたらいいの?」
見送りに行けない、という、あのメールが原因なんだろう。
ユーキは、元々遅くに出勤する。午後6時に出発する朱葵を見送ることは、できる。
だけど、できない。朱葵にも東堂にも、会えない。
昨日の夜、ユーキは東堂と心の前で、「樹とは恋人じゃない」と、言えなかった。
言うべきだった。心に知られても、東堂の前で、否定しなければいけなかった。
一瞬の迷い、そして沈黙。それが、やっと得た東堂の信頼を、潰してしまったのだ。
「僕には、あなたのことがよく分かりません」
頭の中をぐるぐるとリフレインする、東堂の放った言葉。それはあまりに早く、鋭く、ユーキの脆くなった心のかけらを突き刺した。
ひとりで生きていける、と思っていたユーキの心を脆くしてしまったのは、奇しくも、朱葵だった。