95 ひとことの魔力
「ごめんね、明日は見送りに行けないわ」
と、朱葵のもとに留守番電話が残されたのは、明け方、6時のことだった。
その日は午前からドラマの撮影と、最終回に向けての番宣があった。ドラマは今日でクランクアップし、明日からは映画。ユーキから受け取った台本は、何度も何度も読み返し、セリフは完璧に覚えた。昭和の都に生きる若き青年の役。忙しい中で合間を見つけて、役もだいぶ掴めてきたところだ。
映画に向かう準備は、できていた。ただそれが、いよいよ前日になったところで、ユーキと別れる決意が緩んでしまった。
原因は、さっきの電話。なぜ明日京都に向かうことを知っているのか、という疑問はとりあえず忘れて、朱葵は、すぐユーキに電話を掛けた。
呼び出し音がなかなか途切れない。まだ午前8時だから、ユーキは起きているはずだ。なのに携帯は、朱葵が諦めて電話を切るまで、呼び出し続ける気がした。
「どうしたのかな」
朱葵は電源ボタンを押すと、携帯を閉じた。
ユーキからの留守電は、寂しさを訴えていたわけじゃない。行きたいけどどうしても行けないのだと、そういう意味が込められているようには感じなかった。むしろ、ひとことの「ごめんね」は、寂しさやこれからの不安を伝えているというよりも――。
「まるで、『行かない』と言ってるみたいな・・・・・・」
それが、ユーキの意思で、行かないことを決めたように思えて。
「ユーキさん、どうして」
朱葵はもう一度携帯を開くと、コールを鳴らし続けた。留守番電話の設定をしていないユーキの携帯は、東堂が朱葵を迎えに来るまで、5分間ずっと、震えていた。
* * *
そのころ、ユーキは樹のマンションに来ていた。
昨夜は東堂が帰ったあと、ユーキは心にも「今日は帰って」と告げた。
「単純に遊びに来たなら、どうぞ。でも、あたしに会いに来たのなら、また今度にしてください」
そうユーキが言ったのを、心は、
「ユーキさんがそう言うなら帰るよ。みんなミーハーで、ちゃんと相手してくれるのユーキさんくらいしかいないし」
と残して、帰っていった。
深夜になって樹から「話がある」と連絡があり、ユーキは愛を送り出したあと、マンションへ向かった。朱葵に留守電を残し、ソファに置きっぱなしにしていた携帯は、ちょうどユーキが玄関を出ようとしたときに震え出した。ユーキはそれに気づかずに、それを置き去りにして、ドアを閉めた。
「ねぇ、樹。あたしね、しばらく朱葵くんとはお別れなの」
ユーキは、最近あった出来事のすべてを話した。夜明けを見た、というのは伏せて、「1泊旅行」と、言葉を置き換えて、言った。あの夜明けの存在は、樹にだって話したことがないのだ。
「樹に抱かれたことがあるって、言っちゃった」
と、ユーキは含み笑いをする。
「あぁ?! 俺も加害者かよ」
樹は不満そうに言って、「何で言った?」と続けた。
「何でなんだろう。よく分からないの。ただ、いつからか朱葵くんに対して罪悪感を持って接してる自分が、嫌だった。無理して余裕に振舞ってる、自分が。でも、あたしは楽になったけど、結果、朱葵くんを苦しめてしまった。いかにも正当な理由を並べて、『言わなきゃいけないと思ってた』なんて。・・・・・・偽善なのかもしれない」
ユーキは沈みがちに、呟くように、言った。樹はそんなユーキの髪を、さらっと撫でる。太くて逞しい指が髪に当たる感触が、ユーキの心を落ち着かせる。
「ユーキ、それで良かったんだ」
あとには言葉はなく、だけどそのひとことが、ユーキには十分だった。
「ありがとう、樹」
ユーキは、樹の胸に寄りかかる。
広くて大きい腕の中は、朱葵とは全然違う。細身な朱葵の中にいると、愛しさが伝わってくる。それに抱かれていると、ユーキは、幸せな気持ちになる。でも、樹の中は、まるで揺りかごですやすやと眠っている赤ん坊のように、そこにいるだけで、安心できるのだ。すべてを分かって放っておいてくれる、安心と信頼というものが、そこにはある。
「・・・・・・ねぇ樹」
ユーキは、不意に尋ねる。
「あたし、樹を好きになっていれば楽だったのに、どうしてそれができなかったんだろう」
後悔じゃない。理由も分かっている。
だけど、ただ不意に、ユーキはそう思った。




