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89 別れの朝

「うわ・・・・・・ぁ」

 感嘆の声が漏れる。

 丸々とした眩しい光が、ゆっくりと持ち上がる。海を照らし、空を照らす。そのうち、2人をも照らしていく。

 午前5時の手前、世界で一番綺麗な景色が、そこにはあった。


 朝陽が水平線を登ると、新たな1日が始まった。さっきまでの真っ暗な闇は消え失せて、空は雲を取り払い、爽やかなブルーをもたらす。

「新しい出発にはちょうどいいわね」

 ユーキは満足した様子で微笑むと、バッグから、台本を取り出す。

「朱葵くん、これ」

 それが何なのかはっきり分かるように、ユーキは表紙を表にして差し出す。

 眩しい光に目がチカチカして、朱葵は、視点が上手く掴めない。うろうろと彷徨う瞳。ようやく題字を捉える。

 真っ白な冊子に一際目立つ、真っ黒で大きな「フライング」の文字。それが映画のタイトルだ。

「これ、映画の・・・・・・」

 朱葵は、タイトルに見覚えを感じる。

「朱葵くんの台本。渡しておくようにって、東堂さんから頼まれたの」

「何で東堂さんがユーキさんに・・・・・・」

 朱葵は、はっとして、息を吸い込む。

「もしかして、ユーキさんのところへ行ったの?」

 マンション前で、ユーキに促され、東堂に付き合っていることを知られてしまったとき。あのあと、何も言ってこなかった東堂に、朱葵は拍子抜けだった。

「あたしがそう仕向けたんだもの」

 ユーキは朱葵の心配に反して、随分と余裕の面持ちで言う。

「東堂さん、ユーキさんに何て言ったの?!」

「大丈夫。別れろなんて言われてないわ」

 興奮する朱葵に、ユーキは優しい口調で話す。まるで赤ん坊をあやすようにして朱葵をなだめている自分が、何だか可笑しい。

「落ち着いて。本当に別れさせるなんて言われてないのよ」

 さっきの夜明けの感動はどこに行ってしまったのだろうかと思わせるほど、朱葵の心の中には、ユーキとの未来のことしかなかった。ついさっき、これからもこんな風に2人でいたい、と、思ったばかりなのに。

「じゃあ、何で東堂さんはユーキさんのところに行ったの?」

 核心をつく、朱葵の問い。


 ――東堂さんと交わした約束を、話さなければいけない。


 ユーキは、きゅっと下唇を噛むと、喉の奥で息を呑んだ。

「あたしたちの関係は知っていてくれるって、言ってたわ。だけど、守るかどうかは別だから、条件をクリアしろって」

「条件?」

「朱葵くん、映画に出るのよね。3か月以上、京都に泊まりこみで。そう聞いたとき、『あなたは朱葵を見送ることができますか』って、言われたわ」

 夜が明けても風は冷たく、波は強く音を立てる。ザン、ザザン、という波間を揺らす風が、耳を突き抜けていく。

「それ、どういうこと?」

 朱葵は、上手く理解できないといった表情で、ユーキを見る。

「それが、どんな条件になってるの? 映画に出ることが条件?」

「朱葵くんはね」

 ユーキは、続けた。

「はっきりと言われたわけじゃない。でも、あたしはそうだと思ってる。朱葵くんが映画の撮影をしている間、あたしは普段通りの生活を送るから、当然、2人は会えない。それを覚悟できるかって、東堂さんは言ったのよ」

 東堂の言った、「集中しないと乗り越えられない」の意味。それは、撮影期間中、会うことは許されないということに繋がっていた。

「待って。ユーキさんと会ったからって、演技がダメになるなんてことはないよ。むしろ・・・・・・」

 むしろ、ユーキと会えるほど、朱葵は演技に力が入る。そう言おうとしたのを、ユーキが口を挟んだ。

「映画、初主演なんだって? 正直言って、あたしはその重大さがよく分からない。だって、朱葵くんとあたしは、違うところで仕事をしているんだもの。でもね、新しいことを始める大変さは分かるわ。きっと、何かと両立なんてできない」

 かつて、自分が夜の世界に身を落としたときも、そうだった。それだけを考えて、それだけに力を込めなければならない。他にも大切な何かがあったなら、どちらも半端になってしまう。あのころ、ユーキには、たったひとつの目的しかなかった。それだけのために辛さも苦しさも乗り越えて、ナンバーワンを手に入れることができたのだ。

「俺は出来るよ。ユーキさんがいてくれれば、何だってやってみせる」

「あたしはいるわ。東京で、朱葵くんを待ってる」

「そうじゃないよ。俺の、傍にいてほしいんだ。ユーキさんが俺の隣で笑っていてくれるだけで、俺は何でも頑張れるから」

「それほどあたしを想ってくれてるのなら、東堂さんに証明して。離れていても、2人の気持ちは変わらないって。2人を引き離すのは無理だって、証明して」

 どれほども時間は経っていないはずなのに、陽はどんどんと高く、上っていく。

「ユーキさんは、もう、決めたんだね・・・・・・」

 夜明けの朝、こんな風に別れを迎えるなんて、朱葵は、思いもしなかった。





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