88 別れの海
「朱葵くん、起きて」
体がユサユサと揺らされて、朱葵の意識は薄っすらと、ユーキの言葉を捉えた。
「ん・・・・・・ユーキさん?」
「そろそろ支度して。もうすぐ行くわよ」
そう言われても朱葵は起き上がることができずに、今の自分の状況を、なんとなく考えた。
――どこに行くんだっけ。
思考はなかなか答えにたどり着かない。朱葵は寝ぼけた声で、ユーキに問う。
「ユーキさん・・・・・・どこ行くの?」
すると突然、強風が吹いたような寒さが、朱葵を襲った。
「寒っ」
朱葵は思わず、体を縮こませる。
「ほら、早く起きて。ぐずぐずしてると置いていくわよ」
ユーキは朱葵の布団を捲くりあげると、朱葵を置いて、部屋を出て行ってしまった。
「・・・・・・はっ」
ガバッと起き上がり、入り口を見やる。部屋にユーキの姿はなく、さっきまでは確かに居たという名残りだけが、置き去りになっていた。
「ユーキさん、いないの?」
怒った様子で放たれたユーキの言葉と、その後のバタン、という、ドアの閉まる音。どうやらユーキは、本当に朱葵を置いていってしまったようだ。
「まじかよ」
またも一瞬にして目は覚めて、部屋つきのシャワーを浴びることもなく、朱葵は顔を洗うと、簡単に着替えを済ませて部屋を出た。もしかしたら部屋の外で待っていてくれているかもしれない、という仄かな期待は、ドアを開けた瞬間に崩れ去った。
5階の部屋から、エレベーターを使わずに、階段を駆け下りる。まだ夜中の類にあるこの時間に、階段はうるさく響いて、音を漏らした。
1階のフロントにはまだ誰もいなくて、旅館の玄関の自動ドアも作動していないようだった。けれど鍵はかかっていないらしく、おそらくユーキの開けただろう跡が、ほんの少しだけ閉め忘れたドアに、残されていた。
外はもちろん暗くて、このまま夜が明けることなどないように思えるほど、たっぷりと闇を吸収していた。真っ暗な世界に、ひとりだけ、迷い込んでしまったみたいな感覚。朱葵はその場から動くことができずに、ただ、ユーキの姿を求めて、辺りを見回す。
「本当にひとりで行ったのかな」
しん、とした世界で、朱葵は、呟いた。
「ばかね、行けるわけないでしょ」
声に驚き、振り向くと、ユーキがコートに手を突っ込んで、唇をきゅっと噛んでいた。怒ったように見えるその仕草に、朱葵は、焦りを感じる。
「ユーキさん、ごめんなさい」
「自分から言ったくせに」
下から覗き込むようにして、ユーキは朱葵を見る。
「俺、いつも寝起き悪くて。ユーキさんの言う通り、自分で言ったくせに寝坊するなんて、最低だよね」
いつものように携帯のアラームを目覚まし代わりに掛けたのだが、やはり止めてから、また眠ってしまった。普段はもうひとつ、ベッドから離れたところにあるオーディオコンポが、携帯のあとに大音量で鳴り、やっと目を覚ますのだ。
「違うわよ。あたしが怒ってるのは、そのことじゃない」
ユーキははぁ、と、呆れたように息を吐く。
「『どこに行くの』なんて言うのが、悲しかったの。楽しみにしてたのはあたしだけみたいで」
「え、俺、そんなこと言った?」
「覚えてないの?」
ユーキはまたも、深い溜め息を漏らした。
「もう、いい。早く行きましょう」
遠くの空は、早くも雲間が薄っすらと開かれている。
午前4時。夜明けは、もうすぐそこまで来ていた。
* * *
「良かった。間に合ったみたいね」
浜辺に着いたころ、まだ夜は明けていなくて、薄暗がりの中、波打つ音だけが、静かに聞こえていた。
「どこだっけ」
「もうちょっと前かな」
お互いの顔はぼんやりと分かるくらいで、離れないように、2人は手を繋いで、歩く。
「うん、ここだったと思う」
ユーキが立ち止まったのは、5年前、ひとりで立っていたという場所。2人は並んで、海の彼方を見つめる。
「寒いね」
波風は強く、服の上から肌を刺すような痛み。朱葵は、鳥肌の立つ気配を感じる。
「朱葵くん、薄着で来るからよ」
「だって、ユーキさんがいなくて焦ってたんだ」
「子供みたいなんだから。ほら」
と、朱葵の首元に、ユーキがマフラーを掛ける。
「いいよ。ユーキさんが寒いでしょ」
「あたしはたくさん着込んできたから。それに、これは朱葵くんのマフラーだし」
それは、朱葵が昨日、同じく海でユーキに掛けたものだった。
「こういうときはお互い様でしょ」
ユーキは手探りで、マフラーを首に巻きつける。
「ありがとう」
マフラーは、さっきまでユーキが巻いていた香りがして、朱葵は、首元から体が温まっていくのを感じた。
「そろそろね」
遥か海の彼方、夜明けが、始まる。