86 愛する自信
ユーキは、ふらふらと温泉に向かっていた。
「やっぱり言うべきじゃなかったのかな」
自分自身に言い聞かせるように、ユーキは何度も呟く。
でも、言うしかなかった。
過去を捨てることなんてできないから。朱葵を好きになればなるほど、過去の罪悪感がユーキを攻め続ける。
すべてを露呈しないくせに、自分の都合で言いたいことだけ言って。朱葵が愛想を尽かしても仕方がない、と、ユーキは思う。
ひとつだけ、分かってほしいのは、最後に言ったひとこと。
――だけど、信じて。本当に、大好きな人と結ばれる日が来るのを、あたしは、ずっと楽しみにしてた。その相手は朱葵くんしかいないって、思ってた。
朱葵と一緒にいて、この腕に抱かれたいと、いつしか思うようになっていた自分。そのときからユーキは、朱葵の愛に触れる日を、ただ、少女のように、夢見ていたのだった。
「バカみたい」
自分の心の中でどれだけ強く思い描いたとしても、現実に叶わなければ、夢は所詮、夢の中で終わってしまう。
――分かってたはずなのに。
ユーキは、深い溜め息をついた。
風呂場の入り口にスリッパは5つ。ほとんど人はいないようで、ユーキが露天のドアを開けると、誰の姿もなかった。脱衣場で見かけた3人ほどのおばさんたちは、室内温泉のほうに行っているらしい。
3月も半ばを過ぎたといっても、まだ夜の風はキン、とした寒さを放つ。暗闇に、真っ白な湯気が目立っている。
「熱っ」
風に当たった肌はすぐに冷えて、温泉に足をつけると、ジンジンするほど熱い。ゆっくり体を降ろすと、肌が痺れているのが分かった。
体が熱さに慣れると、今度は気持ち良さが芽生えてくる。両手をすうっと伸ばし、ユーキは寛いだ。
「気分も晴れたかも」
温泉にはリラックス効果があるのだろうか。ユーキは自然と笑顔になった。
入浴者の多かった夕方とは違って、この時間は、誰も入って来ない。そのせいか、外はしんとしていて、風が木々をさわさわと揺らしている。
すると、ガラガラ、と、ドアの開く音がした。誰か入って来たのだろうか。ユーキが振り向くと、そこには、誰もいなかった。
今度は、チャポン、という、お湯に浸かる音。
――あぁ、男湯があるのね。
どうやら、竹の柵で仕切られた向こう側は男湯の露天風呂らしい。
ユーキはほっと胸を撫で下ろすと、もう一度、すうーっと、手を伸ばした。
「ユーキさん、いる?」
突然に聞こえた声。リラックスしていたユーキは、思わず後ろを振り返った。
「朱葵くん?! どこ?!」
ユーキは大きく叫んだ。
「どこって、温泉だよ。仕切られた反対側」
朱葵は、少し笑った様子で答える。
「朱葵くん、どうして・・・・・・」
朱葵がそこにいることに、ユーキは驚く。
「俺の中で答えが見つかったから。それを言いに来たんだ」
朱葵はそう言うと、温泉を掻いて、限りなく竹の柵に近づいていった。
「答え?」
ユーキは、朱葵が言おうとしていることを想像する。
「答えが出たのね。それだけで、あたしは良かった。悩ませてごめんなさい」
と、先回りして、朱葵に言う。
「ユーキさん、俺の話を聞いて」
ユーキが口を噤むと、木々の擦れる音が、鮮明に聞こえた。一瞬の強い風が、ザァッと、葉を浚っていった。
「俺にはやっぱり理解できない。ユーキさんが樹さんを頼ったことと、その理由が。俺だったら、絶対にありえないと思う」
「うん・・・・・・」
ユーキはただ、朱葵の言葉に従う。
「もし今、ユーキさんを抱いたとしても、多分俺は、樹さんと自分を比べる。それじゃ、ダメだよね」
ユーキがその言葉に反応したところ、朱葵は、言った。
「だから、待っててくれる? 俺が、ユーキさんを抱ける自信が持てるまで」
ユーキは顔を両手で覆い、朱葵には見えないはずの涙を隠した。
「ユーキさん。何か言ってよ」
沈黙に不安を感じた朱葵は、温泉から身を乗り出して叫ぶ。
「・・・・・・いいの? そんなにあたしに甘くて」
かすれた声で、ユーキがそっと言った。
「大丈夫。その分、自分に厳しくするから」
ユーキはふふっ、と笑い声を漏らす。
「樹と比べるなんて。朱葵くんの意気地なし」
「それ、ユーキさんが言う?!」
朱葵も笑うと、ユーキもまた、笑って、言った。
「あたしが待てないかも。だから朱葵くん、早く自信に満ち溢れたいい男になってね」
照れと興奮のせいか、朱葵はのぼせて、その場にへたり込んだ。