85 信じる心
ユーキが、樹に抱かれた――。
その事実を、朱葵は、心の中に呑み込むことが出来ないでいた。
「ちょっと待って、ユーキさん」
混乱した朱葵は、強く押さえつけていたユーキの腕を、するりと離した。
ユーキは、朱葵の頬に手を伸ばす。
「信じられない?」
放心したまま、朱葵は、何も言うことができない。
「でも、事実。もっと言うと、樹が初めての相手だった」
ユーキの言葉は、さらに朱葵に追い討ちをかけるようにして、冷たく言い放たれる。
「・・・・・・何で?」
やっと声に出た言葉には、不信と、悲しさが溢れる。
ユーキと朱葵は、押し倒し、押し倒されたままの体勢で、見つめあっていた。そのうち、ユーキが視線をふっと避けた。
「ナンバーワンにならなきゃいけなかったから。そのために、男を知る必要があったの」
ユーキは、続けた。
「樹とは、東京に行ったとき、最初に知り合ったの。あたしに夜の世界での生き方を教えてくれたのも、今のお店を紹介してくれたのも樹だった」
ユーキは躊躇うことなく、露呈を重ねていった。
「あたしは20歳の普通の女で、男の人のことなんて、何一つ分からなかった。それでナンバーワンなんて、到底無理。男の人が感じる仕草とか、考えていることとか、あたしは知らなければいけなかった。だから、当時すでに歌舞伎町でナンバーワンだった樹に、頼んだの」
「・・・・・・何を?」
朱葵がそう聞くのを、待っていたかのように。
「『あたしを抱いて』って」
ユーキは、いともあっさりと、答えを返した。
ユーキの衝撃的な告白を聞かされた朱葵は、肘の力がガクン、と抜けて、ユーキに覆いかぶさるように倒れ込んだ。
「朱葵くん?!」
ユーキが仰向けに起こそうとしたところ、朱葵は、つい、その手を振り解いてしまった。
「あ・・・・・・」
はっとしてユーキを見ると、解かれた手を庇うようにして、朱葵を、見つめていた。
「ごめん、今は・・・・・・。まだ、自分の中でもちゃんと理解できてないんだ」
朱葵はうつ伏せになって、言った。
「うん・・・・・・」
ユーキのか細い声が、微かに聞こえる。と、スッと音がした。
「あたし、露天に行って来るね」
立ち上がったユーキは、足早に支度をして、部屋を出ようとした。
「ユーキさん」
朱葵が呼び止めると、足音が、止まる。
「・・・・・・俺、聞きたくなかったよ」
しん、とした空気に、どんよりと漂う、朱葵の辛さと悲しさ。それが、ユーキの心にひしひしと伝わって、胸のあたりがキリリと軋む。
「・・・・・・ごめんね。でも、いつか言わなければいけないと思ってた。朱葵くんに抱かれたい自分がいるのに気づいたら、話すべきだって。だけど、信じて。本当に、大好きな人と結ばれる日が来るのを、あたしは、ずっと楽しみにしてた。その相手は朱葵くんしかいないって、ずっと思ってたの」
バタン、と、ドアは大きな音を立てて、閉じた。
部屋に残された朱葵は、しばらく、動けなかった。体も、頭も。考えるべきことが何なのかさえ、分からなかった。
何も出来ず、ただ、部屋を出て行く前のユーキの言葉を、何度も思い返していた。
そして、心に募っていく気持ちだけを頼りに、朱葵は、部屋を飛び出した。