83 別れの前に
風呂上がり、朱葵はユーキを待っていた。30分後に風呂場横の自動販売機の前で、と言ったのはユーキだか、30分を過ぎてもユーキは来ない。とりあえず朱葵は、傍にあったマッサージチェアに腰を下ろした。
小さめのハンドタオルで目を隠して、チェアに身体を預ける。電源のボタンを押すと、ゴウン、と動き出した背中の部分が、痛くはあるが、気持ち良い。最近のハードスケジュールの疲れは温泉でだいぶ癒されたような気がするが、それとは別に、朱葵を悩ませる不安要素があった。
――映画か……。
突然に決まった映画出演。しかも、主演。それだけでも十分プレッシャーはかかるのに、聞くと、セリフが異常に多く、地方訛りのある言葉を使うらしい。
もうすぐドラマの撮影が終わると、すぐに映画の撮影に入らなければならない。朱葵は、自分の実力の真価が試される時だ、と、あまりの重圧を背負っていた。
「朱葵くん。お待たせ」
重い瞼をゆっくりと開くと、自分と同じ浴衣姿のユーキが、覗き込むようにして立っていた。
「ユーキさん、10分の遅刻だよ」
朱葵は身体を起こし、チェアの電源を切る。
「ごめんね。つい長く入りすぎちゃった」
そう言って笑うユーキの身体は、まだ湯気を発していた。頬と、アップにした髪の毛から覗いた首筋が、赤く染まり、火照っている。
「夕食は食堂だったよね。このまま行っちゃおうか」
ユーキはクルリと振り向き、食堂に向かう。その後ろ姿は、普段店に出ているときよりも色っぽく見えた。先を行くユーキとすれ違った人が、皆、振り返っていくほどに。
「吉倉様はこちらのお席になります」
食堂は個人ごとに仕切られていて、周りからはあまり見られないようになっている。案内された席は、一番端の、富士山の見えるところだった。
「いい席ね。景色も綺麗だし、他の宿泊客の方からは見えないし」
さすがに浴衣にサングラスはできない朱葵は、食堂に入るとき、肩に掛けたタオルで顔を隠した。どうやら旅館にいる間は、そうでもしないとばれてしまう可能性があった。
美味しい料理を堪能したあと、食後の熱い緑茶を飲みながら、2人はお腹を休ませていた。
「ユーキさん。そういえば聞きたかったんだけど、『吉倉』って、誰の名前?」
席に案内されたときもそうだったが、ユーキはチェックインのときも、「吉倉」と名乗っていた。朱葵はそれを疑問に思いつつ、聞くタイミングを失っていたのだ。
ユーキは湯のみをコトン、と、丁寧に置くと、言った。
「それも含めて、朱葵くんに話しておきたいことがあるの」
* * *
部屋に戻ると、すでに布団が敷かれていた。
ぴっちりと並べられた布団に、2人は思わず絶句する。
「あたし、奥の布団ね」
ユーキは布団の上に座り込む。
「あっ、俺も奥が良かったのに」
「もう遅いわよ」
「ちぇっ」
朱葵は仕方なく、入り口のほうの布団の上に座った。と、ユーキが、不意に朱葵の背中を両手で掴む。
「え、何?!」
「お風呂で待たせちゃったお詫びに、あたしがマッサージしてあげる」
ユーキは、朱葵の制止も聞かずに、肩に力を込める。
「疲れてるのね。肩がパンパン」
指をねじ込むようにして、ユーキは肩を揉んでいる。
「でも、温泉で結構疲れも取れたんだよ」
「うん、すごく気持ち良かった。露天風呂には行った?」
「外、真っ暗で顔見えなかったから、ずっと露天にいたよ」
時々、痛いくらいに揉まれる肩は、疲れが取れるかはともかく、とても気持ちがいい。
しばらく会話のないまま、朱葵はユーキのマッサージを受けていた。
すると、ふと、ユーキが話し始める。
「……こないだ、愛ちゃんに聞かれたの。『どうしておにいちゃんは、みきちゃんをママの名前で呼ぶの?』って」
「え?」
朱葵は、後ろに首を振った。けれど、ユーキの手が、朱葵を前に向かせる。
これだけは、言っておかなければいけない。
会えなくなる前に、どうしても、伝えておきたい。
それはユーキが、デートをする前から、決めていたことだった。
「ユーキは、あたしの姉、『吉倉結姫』から、取った名前なの」