76 決断
そこへ、呼び鈴が鳴る。
「あっほら、愛ちゃん。お友達が迎えに来たわよ」
ユーキは、愛を玄関へと連れて行く。
「ねぇ、みきちゃん。なんで?」
靴を履きながら、愛は同じ質問を繰り返した。
ユーキは愛の髪をそっと撫でて、言った。
「みきちゃんお仕事でね、ママの名前を借りてるの。おにいちゃんはずっとママの名前で呼んでたから、慣れちゃったのよ、きっと」
ユーキは愛を送り出すと、付けっぱなしになっていたテレビに目をやった。そこにはもう朱葵の姿はなかった。また別の仕事に行ったのだろうか。そんなことをなんとなく考えながら、ユーキは、さっきの愛の言葉を思い出す。
「おにいちゃんがママの名前を……か」
ユーキも気づいていた。源氏名だと知っても、朱葵が、「ユーキ」と呼び続けること。出会ったのが「ユーキ」としてだったからなのか、そういえば、朱葵から「何て呼べばいい?」とも、聞かれなかった。
待っているのかもしれない。「本名で呼んでほしい」という、ユーキのひとことを。
――あたしは、何て呼ばれたいんだろう。
誰もが呼ぶ源氏名か、それとも、絆で結ばれている人だけが呼ぶ、本名か。
「お姉ちゃんの名前を呼ばれるのは、おかしいかな」
リビングの写真たて――ユーキと姉の2ショット写真――に向かって、ユーキは、呟いた。
「お姉ちゃん。朱葵くんには、話すよ。お姉ちゃんのこと」
ユーキは携帯電話を手にすると、発信履歴に残ったその番号を、表示させた。
* * *
午後11時。「フルムーン」がいつも通り賑わいを見せる中、奥のソファにはユーキと樹、2人だけが静かに話していた。
「どうしたの。金曜日でもないのに来店するなんて」
今日は月曜日。聞くと、ユーキと同じように、働きすぎで休みを入れられたらしい。
「最近会ってなかったしな。ちゃんとやってるかと思って」
「ん、仕事は順調」
ユーキはグラスを手に取り、氷を入れた。慣れた手つきで、それにお酒を注ぐ。
「樹。もしかして、朱葵くんから何か聞いてる?」
グラスを、ユーキは樹の前に伸ばした。
「察しがいいな」
樹はにやっと微笑む。
「前にもそんなことあったもの。じゃあ、知ってるんだ。今の状況」
「あぁ」
カラン、と氷が踊って、透き通った音を奏でる。樹はそれを手に取ると、ぐいっと喉に下ろした。
「怖いってさ」
「何が?」
「ユーキなしじゃいられなくなりそうな自分が、だって」
ユーキは一瞬考えるような仕草で、「ふ〜ん」と、声を漏らした。
「そろそろ連絡してやったらどうだ?」
「・・・・・・」
ユーキは樹から目を逸らし、黙る。
「どうした?」
「・・・・・・したわよ、今日」
目を背けたまま、ユーキは話す。
「でも、だめだった。仕事中だったみたい」
「そうか」
樹はユーキの頭にポンと手を置くと、くしゃっと髪を撫でる。ユーキが、勇気を出して電話を掛けたこと、そして繋がらない電話に寂しさを感じたことを、樹はその大きな手のひらで、慰めた。
「でもね、思ったの。しばらく連絡を取らないで――って、いつまでなんだろうって。結局、これから先もばれないように、逃げて、逃げて・・・・・・。同じことを繰り返すだけなんじゃないかって」
樹の手はするりと下ろされ、肩へと止まる。
「・・・・・・ユーキ、別れたほうがいいって、思ってるのか?」
ユーキは、肩に置かれた樹の手に自分のそれを重ねると、樹の目をじっと見つめた。