72 会いに行く
「誕生日おめでとう。ミキさん」
朱葵にそう言ってもらえた日から、だいぶ時間が経っていた。
3月になって最初の日曜日。この日は「フルムーン」定休日。忙しい毎日から久しぶりに抜け出せたユーキは、久しぶりに朱葵にメールすることにした。
最初にメールを送ったのが、約1か月前のこと。あれからまたもう1か月が過ぎて、その間のメールのやりとりは5回くらい。電話は一度もない。だけど、ユーキは付き合い始めのころのような、会えない辛さと苛立ちを、不思議と持っていなかった。
“おはよう。今日は月イチの仕事休み。だけど朱葵くんは相変わらずドラマの撮影が忙しいんだろうね。あたしは録画したドラマでも見ようかな。それとも、樹に会いに行こうかな。そしたら、朱葵くんはあたしを攫いに来てくれる? なんて、冗談。こういうこと、言ってみたかっただけ。仕事頑張って。それじゃ、また。”
バレンタインの次の日。あれから会っていない。声だって聞いていない。
それでも、不安にはならない。
午後1時。ユーキは家を出た。
* * *
メールの着信があったとき、朱葵は家を出るところだった。今日は雑誌の取材のため、青山のスタジオに向かう。朱葵のマンションから、歩いて15分ほどの距離だった。
“あたしを攫いに来てくれる?”
という、ユーキの冗談。だけどきっと本気なんだろう、と、朱葵は考える。
午後1時半にスタジオ集合。今は1時を過ぎたばかり。これからユーキに会いに行ったら、仕事に遅れてしまう。
引き返しかけた歩みを、朱葵はまた、クルリと向けた。向かうべきスタジオは、もう近い。
そのとき、後ろからトントン、と、肩に誰かの指先が当たるのを感じた。
「朱葵くん」
「え?」
――もしかして・・・・・・。
朱葵は勢いよく振り向いた。
「あ、やっぱり朱葵くんだ!! あたしのこと覚えてますか?」
「え、あ・・・・・・確か前にCDを・・・・・・」
「きゃ〜!! そうです!! 覚えててくれたんですね!!」
朱葵に声を掛けたのは、「ファンなんです!!」と言ってアニメ主題歌のCDを突き出してきた新人アイドルだった。
普段でもばれやすい朱葵は、特にファンの目には一目瞭然だったのだ。
「移動中で偶然買い物に降りたんですよ。でもこんなところで会えるなんて!!」
興奮して話すアイドルを、朱葵はクールにあしらう。
「そうなんだ。それじゃ、俺も仕事だから」
「あっはい!! 引き止めちゃってごめんなさい」
わずか1分間の会話。それでもこの新人アイドル・ユリには、幸せな時間だった。
ユリは朱葵の後ろ姿を、いつまでも見つめていた。
「なんだ、びっくりした」
朱葵は歩きながら、ふぅっと溜め息を漏らす。
――ユーキさんだと、思った・・・・・・。
すると、また肩にトントン、と、指先の当たる感触。
「朱葵くん、あたしのこと覚えてますか?」
聞き馴染みのある声に驚いて振り返ると、満面の笑みでそこに立っていたのは、今度こそ、ユーキだった。
「ユーキさん、なんでここに?!」
「驚いた?」
新人アイドルと同じセリフで声を掛けてきたユーキに、朱葵は嫌な予感を覚える。
「ユーキさん。もしかして、さっきの見てた?」
「だって、声掛けようとした寸前だったんだもの。あの子があたしを追い越していって、朱葵くんに声を掛けたの。CDもらったファンだって子でしょ。初めて会ったときもそうだったけど、朱葵くんて、本当にクールに振舞うのね」
ユーキはさっきの朱葵の対応を思い出し、くすくすと笑っている。
「それはいいから。それより、どうしたの。樹さんのところに行ったんじゃ・・・・・・」
「行ってたほうが良かった? せっかく朱葵くんに会いに来たのに」
「まさか!!」
向かい合っていた2人。ユーキが歩き出すと、朱葵もそれに続いた。
「“あたしを攫いに来て”って言ったけど、それじゃだめだなって、思ったから」
スタジオまでは5分ほどで到着する。このまっすぐに伸びた通りを、あと1回、右に曲がったら、着いてしまう。
自然と、朱葵の歩く速度が遅くなる。
「待ってるんじゃなくて、自分から行かなきゃって思ったの。あたしたちには駆け引きなんてしてる余裕がないから、会いたいときはあたしが動こうって。だから、会いに来たの」
ユーキは立ち止まり、時計を見た。午後1時25分を過ぎようとしていた。
「朱葵くん、仕事に行くんでしょ。駅と逆方向に歩いてるってことは、この近く?」
「あ、うん。そこの角を曲がったところ」
「じゃあ、あたしは帰るね。仕事の邪魔はしたくないし」
ユーキは曲がり角を通り過ぎて、まっすぐ続く通りを歩いていく。
「ユーキさん」
朱葵はユーキにひとこと告げると、道を曲がって、走った。まもなく1時半になるところだった。
ユーキは新人アイドルのようにその姿を眺めることなく、前だけを見て、歩く。
「次は俺が会いに行く。ユーキさんがどこにいても攫いに行くから、覚悟してて」
きっと、慣れてしまっていた。会えない時間の過ごし方に。
だから、会えない日々が続いても、寂しくないし、不安にもならない。
会えないのは仕方がない、と、いつしか諦める癖がついていた。
だけど、たった5分だけでも、やっぱり会えると満ち足りた気持ちになれる。
そんな幸せを感じていたユーキの後ろに、朱葵の姿を見つめていたユリと、朱葵を探しに通りに出ていた東堂がいたことを、2人は気づかずにいた。
次回から、「東堂の攻撃編」をお送りします。