68 楽しい朝
バレンタインから一夜明け、店が閉まってもキャバ嬢たちは飲み明かし、ようやく帰るころには陽も上りきっていた。
「もう7時かぁ。また愛ちゃんの朝ごはん用意できなかったな」
ユーキは溜め息を漏らす。
自分の仕事に嫌気が差すのは、いつもこんなときだ。愛のためにやらなければいけないことを、できなかったとき。
「お姉ちゃん、ごめんなさい。ちゃんと代わりを果たせてなくて」
そして、姉が恋しくなるのもまた、こんなときだった。
「しっかりしなきゃ」
重くなって引きずっていた足を、ユーキは一歩一歩、地を踏みしめながら、エレベーターを降りた。
「ただいま・・・・・・って、あれ? 愛ちゃん?」
リビングからは、テレビの鳴る音だけが聞こえる。
「愛ちゃん、いないの?」
返事は返ってこない。
「もう学校行っちゃったのかしら」
それにしては早すぎる、と思いながら、ユーキはリビングへ歩いていく。
愛はいつも7時30分過ぎに家を出る。ところが今日はまだ7時を過ぎたばかり。昨日ユーキが仕事に行くときも、何も言っていなかった。
やっぱりおかしい。ユーキは記憶を手繰る。リビングのドアを開ける寸前、ノブを掴んで、ユーキははっと振り返る。
玄関に並んだ靴。
今自分が脱いだばかりのミュールと、愛の通学用スニーカー。
そして、一度目にしたことのある、黒の革靴。
ユーキは勢いよくドアを開け、すぅっと息を吸い込むと、吐き出して、言った。
「愛ちゃん。朱葵くん。出てきなさい」
反応はなかった。
だけど、すでにユーキは確信していて、今度は小さく呟くように、言った。
「出てこないと嫌いになるから」
「わ〜!! 待った待った!!」
朱葵が出てきた。
「あ〜!! おにいちゃんたらダメじゃない。あんなのユーキちゃんのハッタリなんだから」
やれやれ、と朱葵に溜め息をつきながら、愛もしぶしぶ顔を出す。
どうやら2人は愛の寝室に隠れていて、ユーキがリビングに入ってきた瞬間、驚かせようとしていたらしい。
「愛ちゃん、本当にどこでハッタリなんて言葉覚えてくるの?」
「うふふ。先生がね、いろんなこと教えてくれるの」
「どんな教育よ」
ユーキは呆れて言った。
「それより、一体どういうつもりであたしを驚かせようとしたの?」
ユーキの目は、明らかに朱葵に向けられていた。
「ちょっ、待ってよユーキさん。俺じゃなくて、愛ちゃんだよ」
朱葵は向けられた視線に敵意がこもっているのを感じると、慌てて言った。
「6時半くらいにおにいちゃんが来てね。みきちゃんにお祝いしたいって言うから、じゃあみきちゃんを驚かせようってアイが言ったの」
「何だ、そうだったの。ほら、愛ちゃんは支度して。ごはんは?」
「おにいちゃんが作ってくれた。おいしかったよ」
「え、朱葵くんが?」
ユーキが驚いて朱葵を見ると、朱葵は照れた様子で視線を返した。
「おにいちゃん。また作ってね」
愛はそう言うと、ランドセルをひょいと背負い、家を出た。結局今日は早めの登校だったらしい。
ダイニングテーブルには2組の食事の用意が成されていて、それはユーキと自分の分だ、と朱葵は言った。
「料理できるのね」
ユーキはもう一度驚きの声を上げた。それもそのはず、スクランブルエッグにはベーコンが挟まれ、ウインナーはタコの形、盛り付けられた野菜の彩りも綺麗だった。
「普段は時間なくてしないけど、やればできるんだよね。俺、器用だから」
朱葵は自慢げに言った。
前から思っていたが、朱葵はセンスがよく、お洒落だ。着ている服ひとつにもこだわりが見えて、格好がいい。料理にもそんなところが出ている。
ユーキはまたひとつ、朱葵の好きなところを見つけた。
「何か笑ってない、ユーキさん」
「別に」
嬉しい。楽しい。そんな感情が、笑顔に表れてしまう。恥ずかしくて、ユーキはそれをぐっと堪えた。
「ところで、何でバレたの? 俺が来てるって」
2人は、向かい合って朱葵の作った朝食を食べていた。
「あれ」
ユーキが指差した先は玄関。そこには朱葵の黒い革靴が見えた。一度目にしたことのあったそれは、忘れもしない、初デートのときに履いていたものだった。
朱葵は納得したあと、「ユーキさん、物覚え良すぎじゃない?」と、驚いた。
「今日は仕事休みなの?」
ユーキは洗い物をしながら、ソファに座っている朱葵に、カウンター越しに聞いた。
「今日は7時から。夜のシーンを外で撮影するんだ。ユーキさんは?」
「あたしも仕事。だけどちょっと早めに行くから、7時には家出ようかな」
ユーキは、本当は今日、仕事を休むつもりだった。けれど、それをオーナーに言ったら、
「何言ってるんだ。誕生日の前後は当日来れないお客様が来店されるんだ。お前がいなくてどうする」
と、断られてしまったのだった。
そしてそのあとに、こう付け加えられた。
「毎年そうなんだから、分かってるだろ」と。
そう、分かっている“はず”だった。
だけど、朱葵へのチョコを選んで、渡すのを待ち遠しく思うあまりに、すっかりと、それを忘れてしまっていたのだ。
――あたし、どうしたんだろう。
仕事より大切なものはない。朱葵よりも、優先すべきは仕事のほうだ。
なのに、おかしい。
ユーキの中で、優先順位が静かに変わっていこうとしているのを、ユーキはまだ、気づいていなかった。