63 いつもの2人
短いキスだった。
唇が触れただけの、温もりを確かめ合っただけの。
それでも、2人には十分だった。
唇にはユーキの触れた温もりがじんわりと染み入って、朱葵は体中、血の通う気配を感じた。
ぼんやりしていた視界が膜を破ると、自分がユーキを押し倒している姿がはっきり見えた。
「ごめんなさい、俺・・・・・・」
朱葵はバッと体を起こすと、そのままユーキの隣に倒れ込んだ。
「何やってんだ、俺。どうかしてる」
そう呟き、両腕で顔を隠すようにして、自己嫌悪に陥った。
そんな朱葵の頭を、ユーキは胸元で抱え込む。
「どうしたの?」
子供にかけるような優しい声で、小さく言う。
ちょうど瞼のあたりに、ユーキのふっくらとした胸が当たっている。思わず瞼を閉じるとやけに心地良くて、朱葵はその幸福感に浸りながら、言った。
「分かってても、やっぱり不安だったんだ。俺はユーキさんのこと、何も知らないから。そのうちフッと俺から離れていっちゃうんじゃないかって」
ピクン、と、ユーキが反応したのが分かった。
「・・・・・・噂を聞いたんだ。ユーキさんが樹さんと恋人だ、って」
再び、ユーキが反応した。抱く腕にぎゅっと力がこもって、あぁ、そうだったの、と、言っているような気がした。
「ユーキさんの側にいるのは俺じゃないのかなって、思った。樹さんには敵わないって分かってたから、もし2人が恋人じゃなかったとしても、そうだ、ユーキさんの側には樹さんがいるほうがいいんじゃないかって。・・・・・・自信がなかったんだ。好きって気持ちだけで、あなたの側にいることに」
樹のように、ユーキのことを分かって、守ってあげられる力が、自分にはない。
自分のすべてはユーキなんだと気づいて、だけどそれに比例するほどの権力もない。
結局、自分はユーキのために何もできないのだと、朱葵は痛感していたのだった。
「朱葵くん」
すべてを吐露した朱葵は、ユーキに顔を見せることができなかった。恥ずかしいのか情けないのか、恐いのか。その全部であるようにも思えた。
顔を隠すことだけを考えて、朱葵はぐりぐりとユーキの胸を頭で押しながら、さらに潜った。
「こうしてると、本当に子供みたい」
ユーキがクスリと笑った。
「子供って、胸が大好きなのよね」
と付け足された言葉に、朱葵ははっとなった。
「わっ、ごめんなさい。でもそんなつもりじゃなくて、あの・・・・・・」
朱葵はユーキの体からバッと離れると、目を左右に泳がせながら、言った。
ユーキはそんな朱葵を見て、あはは、と笑い声を漏らす。
「すっかりいつもの朱葵くんね」
そう言われれば、いつの間にか、不安は消えていた。心の奥に隠れていってしまったのだろうか。
いや、不安は、こうしてユーキの側にいるだけで、形を失っていくように思えた。
いつもの自分。
いつものユーキ。
いつもの2人。
これでいい。朱葵は、そう思った。
* * *
「あたしね、バレンタインデーに生まれたの。中学生のとき、好きな人に告白しようって友達とチョコケーキを作ったんだけど、途中からあたしの誕生日パーティーが始まって。好きな人にあげるために作ったはずが誕生日ケーキになって、結局みんなで食べちゃった」
「それじゃ告白はしなかったの?」
「うん。せっかくの誕生日にふられたら嫌だねって。パーティーが盛り上がりすぎて、なんだか面倒になったのよね」
気づくと時間はだいぶ経っていて、午後11時を回っていた。
朱葵は明日も午前中から。なんとかロケが予定通りに終わり、今度は第5話のスタジオ撮影に追われていた。ユーキも、朝から愛を小学校に送り出さなければならない。
2人、一緒にいられる時間はわずかだった。
それを感じていて、でもまだ離れたくないと言うように、ユーキは話し始めた。ユーキのことを何も知らないと言った朱葵に、初めて自分のことを話した。
ベッドを背もたれにして、冷えた床の上に、2人は並んで座っていた。
「ユーキさん、誕生日もうすぐなんだ」
今日が2月7日。ちょうど1週間後の日曜日、ユーキは25歳になる。
「あたしも四捨五入したら30歳になっちゃうのね。あ〜あ」
ユーキはそう言って、両腕を後ろに投げた。さらに頭もベッドの上に預ける。
「朱葵くんは、誕生日いつ?」
高い天井を見上げながら、ユーキは朱葵に尋ねる。
「俺、分かんないんだよね」
「え?」
ユーキは頭を起こした。
「捨てられた子供だから。最近のコインロッカーベイビーとか、捨て犬のように道端に置かれてたとかじゃないけど。ただ、分かってるのは、俺は確かに捨てられたってことだけ」
と言って、朱葵は笑った。
「名前は?」
「俺を拾ってくれた人が付けてくれた。言っとくけど、ちゃんと戸籍はあるよ? 『青山』って、親代わりをしてくれた人の苗字だし、実子として育ってるし」
ユーキは、そのあとは何も聞かなかった。
「ユーキさん。もしかして、聞いちゃいけないこと聞いちゃったって、思ってる?」
「・・・・・・ちょっとね」
「言っとくけど、これ、みんな知ってるからね。ユーキさん、芸能界に興味ないから知らないだろうけど、デビューしたときにテレビで言ったんだ。有名な話だよ。隠し事なんて持ってたら後々面倒になるのは分かってたし、うちの事務所は実力主義だから、生い立ちとかそういうのに興味ないんだ。むしろ注目されるからどんどん言ってけとか言われたくらい。でもそれ以前に、俺がどうも思ってないから。だから、聞きたいことがあったら何でも聞いて」
そう朱葵は言ったが、ユーキは、やっぱりそれ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない、と思った。ユーキにも、朱葵に言えないことがあるように。
ふっ切れているように見えて、朱葵だって、触れられたくない心を、当たり前に持っている。
ユーキも同じだからこそ、朱葵の心の奥底に眠る秘密の存在に、気づいていた。
「事務所、放任なの?」
代わりにユーキは、別の質問をする。
「放任ではないよ。注目度が増すことなら別にいいって感じなんだけど。俺はまだ若いし、顔やクールさも売りにしてるからって、スキャンダルとかはご法度」
それは、「ばれたら終わり」であることを意味していた。
恋人の存在も許してくれるかも、と、ユーキの頭をよぎった考えは、あっけなく通り過ぎていった。
「クラブとかも行けないんだよ。噂はどこから立つのか分からないからって、東堂さんがしつこく言っててさ。もともと興味はないけど、そこまで言われるとね」
「東堂さん」に、ユーキはピクッと反応する。東堂といえば、初めて会ったとき、ユーキを探るような目で見ていた男だ。
「東堂さんって、やり手のマネージャーさんよね」
「ユーキさん、気をつけて。あの人、俺のことになると何するか分からないから」
「何それ、朱葵くんの彼女みたい」
「違うよ、俺はユーキさんだけだから。あの人の一方的な片想いだよ」
想像すると、なんだかおかしな画が浮かんだ。
2人は、そういえばお互い何も知らなかったね、と笑い合い、ようやく思い出したように、携帯のアドレスを交換した。