62 キスの温もり
バレンタインということで、甘く「初キス」です。
賑やかなフロアから隔離された端のソファは、再び有紗と樹だけになった。
「あの、さっきユーキさんが言ってたことって・・・・・・」
と、有紗は問いかける。
「全部本当だよ、あいつの言ってたことは」
「じゃあ・・・・・・!!」
樹は座りなおし、有紗の目を見た。
「俺とユーキは、恋人じゃない。それだけが噂の中の嘘」
「どうしてですか。樹さんもユーキさんも、その噂を知ってたんですよね?」
もちろん知っていた。初めに聞いたのは、2人の人気が不動のものとなったとき。ユーキも樹も、他の仕事仲間から「すごくお似合いな2人ですね」と言われて、知った。
「知ってて、俺たちはそれを利用したんだ」
「利用? 何のために・・・・・・」
夜の世界の激しい顧客争いの中で、恋人がいるというのはマイナスになる。お客を本気で惚れ込ませるのに、恋人の存在は大きな障害だ。
なのに、噂を知っていながらそれを否定しなかった2人が、有紗は分からなかった。
もっとも、樹とユーキには何のダメージにもならなかったけれど。
「ユーキの言ってたように、俺たちには人には言えないような関係があるから、恋人じゃなくても、一緒にいることが多い。それを聞かれたとき、説明したくないんだ。俺とユーキの関係を、知られたくないんだ。だから一緒にいても違和感のないように、恋人っていう関係でバリアを張ってる」
「その関係って・・・・・・」
と、有紗は呟いた。樹には聞こえていなかったのか、笑って、それ以上は語らなかった。
「ごめんね、嘘ついてて。でも、その噂は俺たちには好都合だったんだ。あと、もうひとつ、ごめんね?」
「え?・・・・・・あ・・・・・・」
樹が何を指して言ったのか、有紗は気づいた。
自分の、勢い余って言ってしまった告白に対しての、「ごめんね」なんだろう、と。
「あの、それってやっぱりユーキさんのことが大事だからですか?」
恋人じゃないと知った今でも、分かる。樹が、ユーキを大切に想っていることは。
恋人じゃないと知った今だから、分かる。恋人なんてものでは括れないほど、樹はユーキを想っているのだと。
「ユーキのことは大事だよ。でも、違う」
樹はふっと笑って、言った。
「俺には、最愛の女性がいるから」
その目は懐かしそうに、遠くを見つめていた。
「ユーキにも、別にいる」
と、樹は付け加える。
「それって、青山朱葵ですか?」
有紗がそう言ったのを、樹はいたずらな微笑みで返した。
* * *
「樹さん。ユーキさんは連れて行きます」
朱葵は、突然のことに驚いていたユーキの腕を掴んだ。
「え? ちょっと、朱葵くん!! あたしはまだ話が・・・・・・」
ユーキは掴まれた腕を解こうと抵抗してみるのだが、握られた朱葵の力が強くて、ビクともしない。
「ユーキ、彼女には俺が話しておくから。お前は行け」
「ちょっと、樹まで・・・・・・」
「じゃあ失礼します」
「え? 朱葵くん、ちょっと!!」
8センチのヒールを履いたユーキを、そのまま強引に、朱葵は連れ出した。
「ねぇ、どこ行くの?」
朱葵は答えないまま、歌舞伎町に並ぶホストクラブを過ぎていく。
「朱葵くん、腕、痛いんだけど。離して」
そう訴えても、腕に込められた力が緩むことさえない。
歌舞伎町のゲートをくぐると、タクシーはすぐに捕まった。
車は新宿の街を離れ、2人はネオンから遠ざかる。
停まったのは、表参道の朱葵のマンションだった。朱葵は先に下りると、今度はひとりでマンションのエントランスに向かった。ユーキは、ただついていくしかなかった。
エレベーター内は2人とも無言で。
部屋に入ると、朱葵はユーキの体をベッドの上に投げた。
「きゃっ」
ユーキは倒れた体を起こそうとしたが、自分の上に乗ってきた朱葵に、それを拒まれた。
「・・・・・・なに?」
あくまで冷静に、ユーキは声を掛ける。
こんなシーンなら、ユーキは何度も経験してきた。店で、調子に乗って抱きついてこようとしたお客もいたし、「俺のこと好き?」と、本気で迫ってくる人もいた。さすがにベッドに押し倒されるなんてシチュエーションにはなったことはないが、「女」を迫られるシーンには、慣れていた。
けれど、朱葵はユーキの予想とは反して、体に触れようとはしなかった。ユーキの瞳から目を逸らさずに、じっと、見つめていた。
そのうち何度かためらって、何か言い出そうとしているのに、ユーキが気づく。
「どうしたの、朱葵くん」
朱葵の頬をそっと両手で包むと、ひやっとした肌の冷たさと、朱葵の心の冷たさが、ユーキの心に伝わってくる。
「何でそんなに切ない顔をしているの。何があなたをそうさせているの。あたし? 気づかないうちに、あたしがあなたを苦しめているの?」
頬に触れた手を、ユーキは朱葵の首にまわした。そして首筋に力を込めて、ものすごく近くにあった朱葵の顔を、ユーキはさらに引き寄せた。
触れるのを恐れることもせず。
ユーキは、朱葵の唇に、温もりを重ね合わせた。