5 ユーキの計算
麻布にある52階建てのマンションに、樹は住んでいる。
「やべっ。カギ、店のロッカーに置いてきたみたいだわ」
玄関前で、樹がポケットを探りながら言う。
「あ、あたし持ってる」
と、ユーキが鍵を取り出して、オートロックを開けた。
実は、ユーキはこの家のカギを持っている。
「この家のカギだ。おまえに渡しとくよ。いつでもこのカギを使って好きに入ってきていい。おまえ以外には誰にも渡してないから安心しろよ。俺のアドレスも教えておくから、何かあったときはいつでも電話して。俺が、おまえをちゃんと見ててやるから」
ユーキはフルムーンで働くことが決まったとき、初めてこの家に入った。そのときにこう言われて、カギと、携帯電話をもらったのだ。
こんな2人だけど、恋人ではない。
少なくとも、ユーキは樹に恋愛感情を抱いたことはなかった。
* * *
部屋に入ると、ユーキはソファに座った。
「それで、何かあったのか?」
樹はネクタイを気だるそうに緩めながら、言った。
「実は・・・・・・」
ユーキは昨日の夜の、朱葵のことを話した。
「あんなコ、初めて」
ユーキは朱葵に言われたあの言葉が、ずっと胸につかえていたのだ。
「嬉しくないの?」という、ユーキの本性を見抜いているような、あの言葉。
「ふ〜ん。そんなヤツがいるんだ」
樹はユーキの顔をにやにやしながら見る。
「・・・・・・なに笑ってるの?!」
「ごめんごめん。ユーキが客に踊らされてるのなんて初めてじゃん」
「・・・・・・踊らされてる? あたしは踊らされてなんかない。それに・・・・・・」
「それに?」
「・・・・・・」
ユーキはさっきまでの勢いを急に失って、黙った。
「なに」
「・・・・・・あのコはなんか違うのよ。お客さんって感じじゃない。昨日も、連れてこられたっぽかったし」
ユーキは少し照れたように言った。
樹は、初めて見るユーキのそんな表情に、驚いていた。
――ユーキが客を、そんな風に見るなんて。
そう。樹は、誰よりもユーキのことを理解しているし、自分も同じ世界に生きているから、分かるのだ。
客は、客でしかないこと。
それ以上でも、それ以下でもないのだということを。
樹は戸惑いながらも、ユーキの変化を見守ることにした。
「いいんじゃないの」
「よくない!! もしまた店に来たら・・・・・・」
「ユーキ、おまえはナンバーワンだろ。そんなんで動揺しててどうする。おまえにはやらなきゃいけないことがあるんだ。たとえそいつがおまえの裏を見抜いたからって、なんでもないだろ。“フルムーンのユーキ”には」
ユーキは、樹の言葉をじっと噛みしめた。
――そうだ。あたしにはやらなきゃいけないことがある。あんな言葉に惑わされてる場合じゃない。
「樹、ありがと」
ユーキはそう言って、樹の右頬に口づけた。
樹はふうっと一息ついて、「また何かあったらいつでも言ってきな」と、ユーキの頭をぽん、と撫でた。
* * *
「ありがとうございましたぁ〜」
まるで嵐が一夜明けて雲ひとつない空。ユーキはそんな気分だった。胸の痞えがすっぽりとなくなったみたいに、心は軽くなっていた。
だいたい、もう会わないかもしれないし、と、ユーキは考えていた。
「飯田様、またのご来店お待ちしてますね」
ユーキは店の外で、会社役員の常連客を見送っていた。
「あれ、雨が」
ポツポツと、雨が降り出してくる。
「今カサをお持ちしますね」
ユーキが店に引き返そうとする。
「ユーキちゃん、いいよ。ピカピカ通りでタクシー拾うから」
「でも雨がひどくなってるし、タクシーがすぐつかまらないかもしれないし」
雨は降り出してすぐに強く地を濡らしている。
するとユーキは、思いついたように走り出した。
「飯田様、ここで待っててください。私、タクシー呼んできますね!!」
「えっ、ユーキちゃん?!」
ユーキはカサも差さずに、雨の中ピカピカ通りに向かった。
運良くタクシーはすぐにつかまり、ユーキはフルムーンの前にタクシーを連れてきた。
「飯田様、お待たせしました!!」
ずぶ濡れになったユーキが、いつもの笑顔で言う。
「ユーキちゃん、こんなに濡れて。風邪引いたらどうするの?!」
「大丈夫ですよ。すぐに店に戻ります。それに、飯田様が濡れちゃうほうが大変です」
「あぁ、もう。無茶するんだから。心配だよ」
「じゃあ、私がちゃんと元気でいるか、確かめに来てください」
ユーキがそう言うと、心配顔をしていた飯田の顔がふっ、と緩む。
「分かった。またすぐに来るよ」
「お待ちしてます」
最後には笑顔で、飯田はユーキに手を振って帰っていった。
ユーキは、決して外見だけでナンバーワンになったのではない。
むしろそれは最初だけで、ユーキにはまっていく客たちはみんな、こんな風に体当たり的なユーキの思いやりに惹かれていくのだ。
ユーキも、それを計算している。
キャバクラにやってくる男たちはみんな、安らぎと、自信を求めてやってくる。自分の力に歓声を挙げる女の子のおかげで、自分もまだまだ捨てたもんじゃない、と思うことができるのだ。
ユーキは、そんな客の心理を分かっている。
もちろんすべてが計算ではなくて、ユーキの優しさもあるのだけれど。
そのころ、ユーキの計算に見事にはまった飯田は、タクシーの中で、自分のために雨の中走ってくれたユーキを、愛しく思っていた。
店の前で、ユーキは髪に降り注いだ雨を、落としていた。
――髪もメイクもぐちゃぐちゃだろうな。
そう思いながらも、ユーキは妙な達成感を感じていた。
ひとつ、小さくクシャミをする。
「本当に風邪引いちゃうかも」
それはまずい、と思ったが、ずぶ濡れのまま店に戻ることもできない。
「どうしよっかな」
すると、目の前が突然白いなにかに覆われた。
「え? なに?!」
それを掴むと、真っ白なタオルが頭に被せられたのだと分かった。
視界を覆ったタオルをゆっくり持ち上げると、目の前に、朱葵が、立っていた。