58 朱葵の不安
「ユーキさんって・・・・・・お前・・・・・・」
桐野は驚き、恐る恐る口を開く。
雨音は強さを増していて、それが朱葵に聞こえたかは、分からない。
「ちょっ、とりあえず中に入れ」
桐野が朱葵の腕を掴んで自分のほうに引くと、朱葵はぐらっとよろけた。たいして力も込めていないのに体ごと揺れた朱葵は、抜け殻のように軽く、心ごとどこかに置き忘れてしまったみたいに、空っぽだった。
「・・・・・・顔、ぐちゃぐちゃだぞ。髪も」
朱葵の反応はなかった。
「行こう」
そう言って桐野は、朱葵の背を押して、「フルムーン」へ戻っていった。
扉が開くと、そこにいた人々はみんな、朱葵のその出で立ちに驚き、絶句した。
「すいません、急いでメイク直しするので、先にシーン83から撮っててもらえませんか?」
シーン83は、朱葵の出番がないのだ。
「あ、あぁ。分かった。それじゃあ準備して!!」
周囲は動揺を隠し切れない様子で、それでも撮影の準備に取り掛かる。
桐野はフロアの横を通って、控え室へと向かった。今日は店も休みなので、控え室を特別に使っていいことになっていたのだ。
桐野は朱葵に、まず、タオルと、着替えを放った。風邪を引かれたら元も子もない。ただでさえ遅れている撮影に、主役の朱葵がいなければ、意味がない。
そして朱葵を椅子に座らせると、ドライヤーを手にした。ブォンという機械音が、狭い部屋に響き渡る。
「・・・・・・俺は、お前がユーキさんを好きだって、知ってたよ」
ドライヤーの音にかき消されるほどの小さな声で、桐野は言った。
「え・・・・・・」
朱葵が目の前の鏡越しに、桐野を見た。
「ほら、お前を正面玄関に連れて行ったときがあっただろ。あれは、先に朱葵に会いたいっていう女の人を見つけたから、お前を呼んだんだ」
朱葵は、思い出す。
そう、そのとき桐野が自分を呼んでくれたことを、すっかり忘れていた。ユーキが突然自分に会いに来たことへの驚き、ユーキと気持ちが通じ合ったことへの喜びが、きっかけとなった桐野の行動を、忘れさせてしまっていたのだ。
「昨日、びっくりしたよ。この店のナンバーワンだっていう、『ユーキさん』を見たときは」
同じだった。あの日、玄関前で朱葵を呼んでくると言った自分に、「ありがとう」と、優しく微笑んでくれた、彼女に。
桐野がユーキを見たとき、すぐに分かったのは、心の中にそのときの笑顔が残っていたからかもしれない。
「付き合ってるのか?」
と、桐野は尋ねる。
「うん」
「じゃあ、なんでお前はそんな風になってんだ?」
こんな朱葵は見たことがない。桐野も、少なからず動揺していた。
「ケンカでもしてるのか? いや、昨日しゃべってたよな」
昨日、桐野はユーキを見つけてから、朱葵のほうを見た。2人はお互い見つめ合ったあと、少しだけ言葉を交わしていた。2人とも、笑顔だった。
「違うんだ。俺が、勝手に自信をなくしてるだけで・・・・・・」
最後は尻すぼみに、言葉は消えていった。
「自信?」
「ユーキさんの側にいるのは、本当に俺なのかなって」
「どういうことだよ」
朱葵は、キャバ嬢が話していた「噂」を、桐野に言った。
噂は、ユーキと樹が恋人で、さらに樹のマンションのカギをユーキが持っていて、樹はユーキしか部屋に入れない、というものだった。どこから出たものなのかは不明だが、夜の世界にあっという間に広まったのだと。
あながち、嘘じゃない。むしろ、ほとんど真実で、嘘はただひとつ、2人が恋人だということだけだった。
けれど、朱葵にはどれが嘘なのか分からず、いや、どれも本当のように思えて、仕方がなかった。
「そういうことだったのか」
朱葵の乾いた髪を、桐野はポンと、撫でるようにして触った。
「俺さ、ユーキさんが俺と同じ気持ちでいてくれてるって、何度も実感してたよ。でも、ユーキさんにとって俺はどれほどの存在なのか、分からなくて、不安なんだ」
鏡に映る朱葵は、顔を見せないようにしているのか、俯いていた。
「ほら、メイクするぞ」
桐野はグイッと朱葵の顎を掴んだ。
「下ばっかり見てるなよ」
と、掴んだ顎を上に向ける。
「聞いてみなきゃ分からないだろ、そんなこと」
「え?」
桐野は朱葵の前に立って、メイクを始めながら、言った。
「自分の中でだけ不安がってないで、それを相手にぶつけてみろよ。案外相手も同じように思ってるかも知れないんだから」
座っている朱葵に合わせて、桐野は少し屈んだ。
「朱葵、これだけは覚えておけよ。聞かなきゃ分からない。言わなきゃ伝わらないんだ」
桐野は、自分の過去を振り返っているのだろうか。どこか寂しそうな目をして、言った。
――聞かなきゃ相手の気持ちなんて分からない。言わなきゃ自分の気持ちは伝わらない。
心の中で、何度も繰り返す。
その通りだ、と、朱葵は思う。
「カズさん、やっぱり経験豊富なだけあるね」
と言って、朱葵は、やっと笑った。
「うるさい」
セットし終えた髪を、桐野はくしゃっと叩く。
「いい男だなって意味だよ。ありがとね、俺、ユーキさんに会いに行くよ」
朱葵は立ち上がると、控え室を出た。
「おい、その前に撮影だぞ。ユーキさんが一番大切なのはいいけど、それなら演技を完璧にこなしていけよ」
朱葵は振り返って、もう一度笑った。今度は、いたずらな顔をして。
「当然」
その言葉通り、朱葵は、演技を完璧にこなしていった。




