表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
59/172

58 朱葵の不安

「ユーキさんって・・・・・・お前・・・・・・」

 桐野は驚き、恐る恐る口を開く。

 雨音は強さを増していて、それが朱葵に聞こえたかは、分からない。

「ちょっ、とりあえず中に入れ」

 桐野が朱葵の腕を掴んで自分のほうに引くと、朱葵はぐらっとよろけた。たいして力も込めていないのに体ごと揺れた朱葵は、抜け殻のように軽く、心ごとどこかに置き忘れてしまったみたいに、空っぽだった。

「・・・・・・顔、ぐちゃぐちゃだぞ。髪も」

 朱葵の反応はなかった。

「行こう」

 そう言って桐野は、朱葵の背を押して、「フルムーン」へ戻っていった。





 

 扉が開くと、そこにいた人々はみんな、朱葵のその出で立ちに驚き、絶句した。

「すいません、急いでメイク直しするので、先にシーン83から撮っててもらえませんか?」

 シーン83は、朱葵の出番がないのだ。

「あ、あぁ。分かった。それじゃあ準備して!!」

 周囲は動揺を隠し切れない様子で、それでも撮影の準備に取り掛かる。

 桐野はフロアの横を通って、控え室へと向かった。今日は店も休みなので、控え室を特別に使っていいことになっていたのだ。

 桐野は朱葵に、まず、タオルと、着替えを放った。風邪を引かれたら元も子もない。ただでさえ遅れている撮影に、主役の朱葵がいなければ、意味がない。

 そして朱葵を椅子に座らせると、ドライヤーを手にした。ブォンという機械音が、狭い部屋に響き渡る。

「・・・・・・俺は、お前がユーキさんを好きだって、知ってたよ」

 ドライヤーの音にかき消されるほどの小さな声で、桐野は言った。

「え・・・・・・」

 朱葵が目の前の鏡越しに、桐野を見た。

「ほら、お前を正面玄関に連れて行ったときがあっただろ。あれは、先に朱葵に会いたいっていう女の人を見つけたから、お前を呼んだんだ」

 朱葵は、思い出す。

 そう、そのとき桐野が自分を呼んでくれたことを、すっかり忘れていた。ユーキが突然自分に会いに来たことへの驚き、ユーキと気持ちが通じ合ったことへの喜びが、きっかけとなった桐野の行動を、忘れさせてしまっていたのだ。

「昨日、びっくりしたよ。この店のナンバーワンだっていう、『ユーキさん』を見たときは」

 同じだった。あの日、玄関前で朱葵を呼んでくると言った自分に、「ありがとう」と、優しく微笑んでくれた、彼女に。

 桐野がユーキを見たとき、すぐに分かったのは、心の中にそのときの笑顔が残っていたからかもしれない。

「付き合ってるのか?」

 と、桐野は尋ねる。

「うん」

「じゃあ、なんでお前はそんな風になってんだ?」

 こんな朱葵は見たことがない。桐野も、少なからず動揺していた。

「ケンカでもしてるのか? いや、昨日しゃべってたよな」

 昨日、桐野はユーキを見つけてから、朱葵のほうを見た。2人はお互い見つめ合ったあと、少しだけ言葉を交わしていた。2人とも、笑顔だった。

「違うんだ。俺が、勝手に自信をなくしてるだけで・・・・・・」

 最後は尻すぼみに、言葉は消えていった。

「自信?」

「ユーキさんの側にいるのは、本当に俺なのかなって」

「どういうことだよ」

 朱葵は、キャバ嬢が話していた「噂」を、桐野に言った。

 噂は、ユーキと樹が恋人で、さらに樹のマンションのカギをユーキが持っていて、樹はユーキしか部屋に入れない、というものだった。どこから出たものなのかは不明だが、夜の世界にあっという間に広まったのだと。

 あながち、嘘じゃない。むしろ、ほとんど真実で、嘘はただひとつ、2人が恋人だということだけだった。

 けれど、朱葵にはどれが嘘なのか分からず、いや、どれも本当のように思えて、仕方がなかった。

「そういうことだったのか」

 朱葵の乾いた髪を、桐野はポンと、撫でるようにして触った。

「俺さ、ユーキさんが俺と同じ気持ちでいてくれてるって、何度も実感してたよ。でも、ユーキさんにとって俺はどれほどの存在なのか、分からなくて、不安なんだ」

 鏡に映る朱葵は、顔を見せないようにしているのか、俯いていた。

「ほら、メイクするぞ」

 桐野はグイッと朱葵の顎を掴んだ。

「下ばっかり見てるなよ」

 と、掴んだ顎を上に向ける。

「聞いてみなきゃ分からないだろ、そんなこと」

「え?」

 桐野は朱葵の前に立って、メイクを始めながら、言った。

「自分の中でだけ不安がってないで、それを相手にぶつけてみろよ。案外相手も同じように思ってるかも知れないんだから」

 座っている朱葵に合わせて、桐野は少しかがんだ。

「朱葵、これだけは覚えておけよ。聞かなきゃ分からない。言わなきゃ伝わらないんだ」

 桐野は、自分の過去を振り返っているのだろうか。どこか寂しそうな目をして、言った。


 ――聞かなきゃ相手の気持ちなんて分からない。言わなきゃ自分の気持ちは伝わらない。


 心の中で、何度も繰り返す。

 その通りだ、と、朱葵は思う。

「カズさん、やっぱり経験豊富なだけあるね」

 と言って、朱葵は、やっと笑った。

「うるさい」

 セットし終えた髪を、桐野はくしゃっと叩く。

「いい男だなって意味だよ。ありがとね、俺、ユーキさんに会いに行くよ」

 朱葵は立ち上がると、控え室を出た。

「おい、その前に撮影だぞ。ユーキさんが一番大切なのはいいけど、それなら演技を完璧にこなしていけよ」

 朱葵は振り返って、もう一度笑った。今度は、いたずらな顔をして。

「当然」



 その言葉通り、朱葵は、演技を完璧にこなしていった。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ