32 愛の自覚
目を閉じて歩く自分の足音に、もうひとつ、別の足音が混ざって、音を鳴らす。
その音は次第に近くなり、ついに、ユーキの前で、止まった。
つられてユーキも立ち止まると、そこは、一切の静寂になった。
ずっしりと重くなった瞼をゆっくり開いていくと、そこに、朱葵が立っていた。
「朱葵くん? 帰ったんじゃ・・・・・・」
ユーキは驚いたまま、声になった分だけを放つ。
「やっぱりユーキさんが心配で。それに、伝えたいこともあったから」
「伝えたいこと?」
「でも今日はやめとく。それよりユーキさん、家まで送るよ」
そう言って朱葵が振り返った先には、タクシーが停まっていた。
「いいわよ。タクシーならひとりでも帰れるし」
と、ユーキは制す。
これ以上声を聞いていたら、そう思ったのとほぼ同時に、これ以上そばにいたら、という思いがあった。
「無理だよ、そんなに顔色悪いのに」
「でも、朱葵くんは明日も仕事でしょ」
ユーキがそう言うと、朱葵は一瞬考え込むような仕草をしたあと、ユーキの腕を掴んでタクシーへと向かった。
「ちょ、ちょっと!! 朱葵くん」
よろめく体と歩きにくい草履のせいで、ユーキは朱葵の腕を振り払うことも立ち止まることもできない。
すると朱葵が振り返り、立ち止まる。
「・・・・・・ユーキさんがちゃんと眠るのを確認したら帰るよ。何もしない。誓う。だから、お願いだから送らせてよ」
可愛いとも男らしいともいえるような瞳で、朱葵はユーキを見た。
ユーキは、半ば強引な形で、朱葵に送られることとなった。
* * *
ドアを開けると、真っ暗な闇の中に入り込んでしまったかのようだった。
「愛ちゃん、今日はお友達の家に泊まりに行ってるの」
と、ユーキが言う。
「電気、そこ」
ユーキが促した先を、朱葵は手当たり次第に探っていく。
ようやくスイッチを捉えると、玄関のポーチライトがぱっと明るさを放ち、2人は、ひとつの光に包まれた。
「ユーキさんの寝室は?」
「愛ちゃんの部屋の奥」
朱葵は寝室のドアを開けた。
タクシーを降りたときから、朱葵はユーキを抱えるようにして寄り添っていた。そうしなければ、ユーキは崩れ落ちてしまいそうなほど、か細い。
具合の悪さもあるだろうけれど、掴んだ腕や、以前チークタイムで抱きしめたときに回した肩の細さを見ると、誰かが支えていなければ、壊れてしまうようだった。
そんなユーキの体には不似合いな、大きすぎるダブルベッドが、寝室の真ん中に構えている。
朱葵はいったんユーキをベッドに座らせた。
「振袖って、ひとりで着替えられる?」
ユーキはほとんど頭を揺すらずに、軽く頷く。
「じゃあ、着替えたら呼んで。俺はあっちにいるから」
そう言って、朱葵は寝室を出た。
10分ほど経っても、ユーキは出てこないし、呼ばれもしない。
朱葵は、寝室のドアをノックした。
「ユーキさん。着替え、終わった?」
反応がない。
「・・・・・・ユーキさん、開けるよ?」
ゆっくりと、少しだけドアを開けると、暗闇の中に、ぼやっと、ベッドでうずくまっているユーキの姿を見つけた。
「ユーキさん!!」
勢いよく開いたドアが、寝室の壁にドン、と、音を立ててぶつかった。
ユーキは耐え切れず、もぞもぞと帯を解き、振袖を脱ぎ捨てたが、その上から何かを羽織ることさえできずに、下着姿のままベッドに転がっていた。
「ユーキさん、大丈夫?!」
遠くから聞こえてくる朱葵の声を、ユーキは朦朧とした意識の中でも、しっかりと耳にしていた。
「ユーキさん、苦しいの?!」
「違う・・・・・・」
違う。この苦しさは、きっと・・・・・・。
きっと、もうひとりの自分が心の中で何度も繰り返していたことを、認めようとしなかったからなんだ。
肩書きも、世界の差も。自分で引いた境界線さえも、飛び越えて。
朱葵を、愛してしまったのだということを。