樹と有紗4
「樹と有紗」編は次回で完結です。
思いのほか長くなってしまいました。
その次は何人か考えていたんですが、あんまり長くなるのもどうかなと思っています。
もしかしたら次回で連載を終わりにするかもしれません。
「邪魔せんとくわ」
そう言って釈師長は、放心している樹の肩をポン、と叩き、病室をあとにした。どうやらさっきは、見回りの途中だったらしい。
樹ははっと気を起こすと、後ろ手でゆっくりと、扉を閉める。音を立てないように結姫に近づいていくと、シーツの胸の辺りが上がり、下がるのが見えた。
――息を、している。
今までだって結姫は息をしていたけれど、こんなにもはっきりと分かるものではなかった。小動物の呼吸のような、微々たるものだったのだ。
「結姫・・・・・・。目を、覚ましたんだな」
樹は、結姫の髪に触れた。寝顔は前と変わらず、綺麗で、それでいてとても可愛く、少しだけ愁いを帯びている。
そのとき、ふっ、と、結姫が目を覚ました。あまりに一瞬のことで、時間がスローモーションに流れているかのような、錯覚。気づいたら、結姫がこっちに瞳を向けていた。
「・・・・・・結姫」
「樹、くん・・・・・・」
「悪い、起こしたか」
「ううん、眠れなかったの」
たくさん寝すぎちゃったみたいね、と、結姫は笑う。樹もつられてふっと口を緩ませ、置いてある椅子に座った。
「樹くん、ありがとう」
「え?」
「ずっとお見舞いに来てくれて、ありがとう」
「あぁ・・・・・・」
結姫が起きたら、伝えようと思っていた。抱えていた想いのすべてを。
樹はゴクッと一息呑むと、決心して口を開いた。
「・・・・・・結姫」
「・・・・・・樹くん」
不意に2人の声が重なって、樹は珍しく動揺し、言うべき言葉を失った。
「あ・・・・・・何?」
結姫は樹に視線を絡ませ、言いにくそうに目を泳がせた。
「うん、あのね・・・・・・。稜は今、どうしてる?」
「稜?」
「元気、かな?」
――そうだ。分かってたはずなのに。
樹の心は、太陽を浴びすぎても水を与えすぎても枯れてしまう、花みたいだ。繊細で、弱い。そのくせ、それを感じさせないほど、大きく花開き、咲き誇る。
結姫のまっすぐな言葉に、樹の心はしぼんでいく。
「・・・・・・退院したら、稜のところに連れてってやるよ」
「本当に? 絶対よ。約束」
「分かってる」
分かってる。結姫は、稜しか見ていない。樹を前にして、稜を気にしているように。
稜だって、結姫しか見えていない。
自分がその間に入ることは、できない。
「結姫。目を覚ましてくれて、良かった。・・・・・・稜も、喜ぶと思う」
それが今の樹に伝えられる、自分の気持ちだった。
――結姫。目を覚ましてくれれば、俺は、それでいい。
それだけで、いい。
* * *
ナースステーションにいた釈師長に「帰るわ」と挨拶をして、病院を出たのが、午後10時。釈師長は外まで、見送りに出てくれた。
「また来てあげないや」
「分かってるよ」
エンジン音がうるさく響き出し、ライトの明かりが病院を映す。
「あんたも、幸せになりなさいよ。仕事ばっかしとらんで」
「俺は今でも充分、幸せな人生送ってるよ」
「馬鹿、そんなんじゃないて。相手見つけなって言っとんのよ。あんたにもきっと、あんただけを見てくれる子がいるんだから」
樹の脳裏にふと、有紗が「樹さん」と呼ぶ姿が見えた。
「でも俺は、その子のことを意識したことがないんだ」
すると釈師長は、運転席の窓から手を入れて、樹の頭を叩いた。
「いてっ」
「あんた本当に馬鹿やね。『その子』って、しっかり思い浮かんどるやないの。それが意識するってことなんよ」
「え」
「そんな調子だったらあんた、これまで何度もその子のこと、思い浮かべたことあるんやないの?」
確かに、そうかもしれない。
「それが恋かっていったら、そうとは限らん。けど、あんたの中にその子は住んどる。その子のこと、しっかりと考えておやりよ。今のあんたはどこに気持ちがいっとるのか、ちゃんと考えい」
釈師長は樹に、車のヘッドライトを弱めるように言った。病院を映す光は眩しくて、患者が目を覚ましてしまうからと。
そのとき不意に、結姫の病室を見た。7階の一番端。ライトが消える寸前、樹は、結姫が窓辺に立っているのに気づいた。
病院を照らす明かりは消えて、地面だけが、妖しく光る。結姫の姿も見えなくなった。
だけど結姫はまだ、きっと、立っているだろう。樹の車がこの地を離れていくのを、じっと、見送ってくれているのだろう。
「結姫。俺、結姫のこと、本当に愛していたんだ」
閉じた窓の、密室で、樹は小さく呟いた。
それが結姫に聞こえるはずもないけれど、気持ちだけは伝わるように、想いを込めて。
病室から見送っていた結姫は、去っていく樹の車に、バイバイを繰り返していた。
「樹くん。ありがとう」
たとえ意味が違っても、結姫のその言葉には、樹への感謝の愛情が込められていた。