樹と有紗3
次の日の夜に、樹が出勤すると、有紗が来ていた。ただ有紗は樹に気づいていなくて、よく樹がユーキと話した奥の端のソファに、座っている。樹がオーナーになったことでナンバーワンに格上げされた、2年前までのナンバー2、ユウタと、楽しそうに話しているのが見えた。
――何でユウタと?
有紗とユウタ、なんて、初めて見る組み合わせだ。有紗がここに来ることはつまり、樹に会いに来ることを差していた。それはホストたちも、ユウタも、分かっているはずだ。
何だか面白くない。樹はフロアに踏み出した歩みを戻して、「トワイライト」を出た。
「結姫」
2年振りにその顔を見たいと、樹は、仔成病院に向かって車を走らせた。
想いの先は結姫への会いたさか、それとも――。
* * *
午後9時に、樹は病院に着いた。本来、面会なんてとっくに終わっている時間。どうしても、5分だけでも顔を見せてほしい、と電話で掛け合ってみると、それは随分あっさりと許された。
「いつものことなのよ。毎週日曜日に妹さんがお見舞いに来るんだけど、時間が遅いときがあってね。先生が特別に許しているの」
あぁ、光姫はやっぱり来ているのか。樹はそう思って、嬉しくなった。偶然にも、今日は日曜日。おそらく朱葵も今日、病院に向かっただろう。きっと2人は会える。止まっていた歯車がゆるりと動き、噛み合って、2人を再会させる。だってそれが、2人の運命なのだから。
「運命ってね、誰も、持っているのよ。それに気づくかどうかが大切なの。自分の運命を認めることが、一番難しくて、大事なことなのよ」
ふと、樹は「運命」という言葉を思い出す。ずっと前に、結姫から言われたひとこと。そういえばこれがきっかけで、樹は、人を愛することを知ったのだ。
「結姫。俺は、結姫しか愛せない」
情けなく、いつまでも未練たらしく想い続けているつもりはない。だけど、今はまだ、結姫への想いは消すことができない。その、原因も分かっている。
――俺は結姫に、自分の気持ちを伝えてないんだ。
結姫が目覚めたら――。そうしたら、この心に詰まった想いのすべてを伝えよう。それがどんなに格好悪くて、恥ずかしいことだとしても。
このときまだ、ガラス扉の向こうにいる結姫が目を覚ましたことを、知らない。
* * *
「あら、樹くんだねか」
扉を開ける寸前、樹は背後からの声に呼び止められた。声の主は釈師長。ここに来ていたころ、よく樹を叱っていた女性だ。
「シャチョー。久しぶり」
「またあんたは!! 無菌の病院に香水なんてつけて来んなやって」
釈師長は樹の白いスーツを掴み、嫌そうに鼻をつまむ。
「仕方ないだろ、来るつもりじゃなかったんだ」
「あんた久しぶりに来たかと思ったらこんな遅くに。患者のことも考えておやりよ」
「光姫だって遅いときがあるんだろ」
「光姫ちゃんはいいのよ。遅くても夕方には・・・・・・あれ、でも今日は7時過ぎて来たわねぇ。かっこいい男の子と一緒だったて、何か騒がしかったわ」
「男?」
樹と釈師長は特別病棟に入り、ゆっくりと歩きながら、声を潜めて話した。特別病棟には患者が少ないが、それでももう、消灯時間を過ぎていた。
「なんやあたしは見とらんから、てっきり樹くんだと思ってたんで。違うんか」
「ああ、たぶんそれは――」
朱葵だ。ユーキと会えて、お互いの気持ちが通じ合ったのだろう。仲良さそうに笑っていたらしいと、釈師長が教えてくれた。
「あんたはどうなん。まだ好きなんか」
「え?」
「結姫ちゃんよ」
えぇ?! と、樹は思わず声に出してしまった。
「なんや、知らんと思ってたん。ずっと昔から知っとったわ、あんたが結姫ちゃんを好きなんて」
「何でだよ」
「女の勘に決まってるやんかあ」
「当てにならねぇよ」
「でも、図星なんねやろ」
樹はぐっ、と、息を詰まらせる。夜の世界の誰もか知っている憧れの存在の樹を、こんな風に子供のように、いや、もっと幼い赤ん坊のように扱うのは、釈師長くらいだ。
「ったく、敵わねぇな」
「当たり前よぉ。あんたの母ちゃんだからね」
「こんなデカイ母親、俺にはいねぇよ」
失礼ねぇ、と樹の肩を叩きながら、釈師長は嬉しそうに笑った。
「あぁ、だからあんた、あの高級車で飛ばしてきたんか」
と、釈師長が樹の肩に乗せた手を止める。
「だから、って、何?」
樹は分からない様子で、釈師長に尋ねた。そのころには結姫の病室の前に着いていて、樹はちょうど、病室のドアに手を掛けていた。
ガラガラガラ、と、静かにドアが横に開いて、結姫の眠っている姿が映る。
今日も変わらずに、その体はピクリとも動かないはずだった。
「結姫ちゃんがやっと目を覚ましたからやんね」
眠っている結姫が、モゾモゾと、体をよじったのが見えた。