158 幸せの行き先2
ドン、という衝撃音にも似た音が、朱葵の胸辺りを突いた。
それは、ユーキが朱葵を、拒絶した音だった。
「ごめんなさい」
両手を突き出したままの格好で、ユーキは顔を俯かせながら、言った。
「俺・・・・・・やっぱり、遅かったかな?」
ユーキをどれだけ大切に想っているか、気づくのに、いろいろなものを経由しすぎてしまった。今さら正面切ってぶつかってみても、開かない扉だって、ある。
「もう俺のことなんて、何とも思ってない? 馬鹿だけど俺、ユーキさんが別れようって言ったのは、俺のことを想ってくれてのことだと思ってたんだ。ユーキさんと仕事、一番大切なものを決められなかった俺に気づいて、自分から、別れを切り出したんじゃないかって」
残された朱葵は、同じく残されたものを選ぶだけ。ユーキはそれを、自分を犠牲にして朱葵に与えてくれたのだ、と、思っていた。
「でもそれは、俺の勝手な勘違いだったんだ。樹さんとの結婚が嘘だったとしても、ユーキさんは、もう、俺に気持ちはなかったんだね」
するとユーキの見えない顔が、フルフルと、首を振った。縦じゃなく、横に。イエスじゃなく、ノーを、示して。
「朱葵くん、変わってないわ。あたしの気持ちなんて、ちっとも分かってないんだから。あたしが今何を考えているか、どんな想いをしているかなんて、ちっとも分かってない!!」
砂埃が渦巻いて立ち、2人に触れて、去っていく。そのせいか、朱葵を見上げたユーキの顔は、砂が目に沁みて、涙がひとつの大きな粒を溜めていた。
「朱葵くんを突き飛ばしたこの腕も、哀しみに溢れた『ごめんなさい』の意味も、朱葵くんには伝わってない。あたしは――」
息が詰まって、ユーキは荒い呼吸を繰り返す。その勢いで、涙はボタボタと零れ落ち、砂を一瞬にして固めた。
朱葵は、ユーキの両腕を掴んだ。即座に振り払おうとして上げた腕は、朱葵の力によって押さえられ、ほんの少しだけ空を切って、止まる。
「離して、離してよ」
「離さない」
「嫌だ。離して」
「離さないよ、絶対。ユーキさんの気持ちが分かるまで、離さない」
それでもユーキは、腕を振るった。でもそれは空を切るだけで、朱葵からは離されなかった。
「俺が分かってないなら、言って。変わってないなら、ユーキさんが傍にいて、俺を変えて。俺はユーキさんに変えられたい。俺のすべて、ユーキさんにとって最高な男になるように、変えてほしいよ」
ユーキの抵抗はふっと途切れ、両腕は、朱葵に任される。
「・・・・・・どうしてそんなことが言えるの? 朱葵くんを、あたしの好きにしていいなんて。それじゃあ、朱葵くんは自由じゃない」
「俺は自由だよ。むしろ、恵まれてる。仕事は好きなことをやって、好きな人と一緒にいて。そんな人生だったら、俺は幸せだと思う」
するとユーキは、腫らした目を伏せて、言った。
「違う。違うの・・・・・・。あたしは、そんなことを言いたいんじゃないの」
「ユーキさん、何を思ってるの。ユーキさんの俺への気持ち、すごく伝わってるのに。なのに、それだけじゃない。何を考えてるの?」
ユーキはゆっくりと顔を上げると、濡れた瞳で、朱葵を捉えた。
「あたしも・・・・・・。朱葵くんが、好きなの。大好きなの」
朱葵への気持ちは、2年前から変わらない。朱葵が言ったのと同じように、自分だって、朱葵のことを愛している。世界の差も肩書きも、そこにはない。
だけど。
「朱葵くんと別れて、あたしは、もう一度自分の夢を叶えてみようって、思った。ずっと昔からの夢、医者になりたいっていう思いを取り戻して、頑張ろうって。あのころ、もう25歳よ。優秀な人なら医者になってる。周囲は無理だって言った。だけどあたしは、必死に勉強して医大に入った。あと5年勉強して、30歳過ぎてやっと、医者になれるの。その夢を、あたしはここで、諦めたくない」
進み出した新たな道で、ユーキは、夢を追っていた。一度は手放したものを、もう一度、その手に掴もうと、していた。
「ここから電車で30分くらいの街よ。あたしは今、そこで愛ちゃんと住んでる。医大もそこにあって、ほとんど毎日が、勉強の日々。もちろん東京なんて、2年前に離れて以来、一度も行ってない。東京に行く時間さえ惜しいの。分かる?」
朱葵は首をコクン、と振り、頷いた。
――朱葵くんが好き。これからも傍で、ずっと一緒にいたい。
――医者になる夢を叶えたい。そのための勉強だって苦にならない。
「ねぇ朱葵くん。あたし、どうしたらいいの? 教えてよ」
今度はユーキが、2年前の朱葵の立場に立って、考える番だった。