15 境界線
「おにいちゃんは、みきちゃんのこいびとなの?」
「えっ?!」
突然の愛の質問に、朱葵はコーヒーを掴んだ手を緩めてしまった。
傾いたカップからはコーヒーが流れ、テーブルに零れ落ちる。
「わっ、ごめんなさい」
「朱葵くん、大丈夫?」
ユーキはふきんを手に取って朱葵に駆け寄った。
愛は朱葵の動揺している姿を見て、ケラケラと笑う。
「やっぱりそぉなんだ」
「ちがっ」
もしコーヒーを少しでも口に含んでいたら吹き出してしまうところ。
ほとんど飲み終わっていたコーヒーは、さっき最後の一口をテーブルに零していた。
ユーキが必死に落とそうとしてくれている服のシミを見つめながら、朱葵は、コーヒーがシミになってよかったと、思っていた。
そうでなければ、最後の一口は口に含んで、吹き出してしまっただろうから。
「愛ちゃん、急に変なこと言わないでよ。おにいちゃんもびっくりしてるじゃない」
「だって、みきちゃんが男のひとつれてくるのなんて、初めてなんだもん。アイ、おにいちゃんだったらみきちゃんを取られてもいいよ」
愛はそう言って朱葵に笑顔を向ける。
「こら。おにいちゃんを困らせちゃだめでしょ」
何も言えずにいる朱葵をかばうように、ユーキが言った。
「えへへ。じゃあアイはおへやでお勉強してくるね。あとは若い2人でいちゃいちゃしていいよ」
愛はいたずらに笑って席を立つと、さっきまで朱葵が寝ていた部屋へと入っていった。
バタン、とドアが閉められると、急に静かになった空間が、2人にお互いを意識させる。
「まったく、どこであんな言葉覚えてくるのかしら」
ユーキはからっぽになった朱葵のカップにコーヒーを注いだ。
「あそこ、愛ちゃんの部屋?」
朱葵は自分が出てきた部屋、愛が入っていった部屋を、指差して言う。
「うん。あたしの部屋に寝てもらおうとしてたんだけど、愛ちゃんがどうしても自分の部屋にって言うから。あのこ、本当に朱葵くんのファンなのよ」
「そうだったんだ」
「なんで? もしかして、ベッドが小さかったから? ごめんね、あたしの部屋だったらダブルなんだけど」
「いや、可愛い部屋だなぁって思って。ユーキさんの部屋のイメージがなかったから」
「あぁ・・・・・・そっか」
なぜか黙ってしまったユーキを、朱葵は不思議そうに見た。
そのあと、ユーキの口から出た言葉は、これからの2人を繋ぐ重要なものになる。
* * *
ユーキの家を出たのは、午後3時。
不意に鳴った携帯電話が、2人の時間を割いた。
「もしもし」
「朱葵?! 今どこにいる!!」
それは、朱葵のマネージャー・東堂雄一からだった。
今日は午後3時半から、1月からのドラマの打ち合わせがあったのだ。
「今おまえの家の前にいるが、中にいるのか?」
「いや、家にはいないです」
「じゃあどこにいるんだ。すぐに迎えに行くから」
「今は、えっと・・・・・・」
朱葵はユーキの家の場所を知らない。
答えられずにいると、会話を察したユーキが小声で朱葵に伝えた。
「恵比寿駅まで徒歩3分くらい」
朱葵はそれを、東堂にそっくり返す。
「恵比寿駅まで徒歩3分くらいのところです」
「じゃあ駅前で待ってろ。着いたらまた電話する」
東堂はそう言って電話を切った。
「仕事、間に合う?」
ユーキが心配そうに聞く。
「なんとか大丈夫みたい。東堂さん、あ、マネージャーなんだけど、迎えに来てくれるって」
「そっか。大変だね、芸能人も」
「ユーキさんだって仕事大変でしょ。同じだよ」
ユーキは曖昧に笑って返す。
急いでいる朱葵は、それに気づかない。
「それじゃ、本当にお世話になりました。今度、必ずお礼するから」
「いいわよ、そんなの」
「じゃあまた」
「うん、頑張って」
閉じられたドアの向こうに、まだ朱葵の気配がする。
それが消えて、部屋に戻ると、今度は朱葵の名残がある。
ユーキはソファに深く腰を下ろすと、一口だけ朱葵が口をつけた2杯目のコーヒーを、ゆっくり喉に下ろした。
そして、思い返していた。「ユーキさんだって、同じだよ」と、朱葵が何のためらいもなく言葉にしたのを。
――同じじゃないよ。
ユーキは、朱葵と自分の間に、境界線を引いた。
自分のいる世界と、朱葵の世界の、あまりの違いを、どんなときでも忘れてしまわないように。
それは、予感していたから。
境界線がなければ、この先きっと、朱葵を愛してしまうだろう、と。
温くなったコーヒーは、喉の奥で、いつまでも苦く残っていた。