152 心の会話
まもなく唇が少しだけ開き、結姫は、何かを呟いた。それは声にはならなくて、唇の形も言葉を型取ってはいなかったけれど、朱葵には何となく、結姫の言っていることが分かるような気がした。
――私・・・・・・ここは、どこ?
「ここは病院だよ、結姫さん」
そして2人の、会話が、始まる。
――あなたは、誰?
「俺は、朱葵。結姫さんの妹、光姫さんを探しに来たんだ」
――光姫、元気にしてる?
「結姫さん。あなたは光姫さんに、謝らなければいけない。あなたがしてしまったことは、光姫さんのすべてを奪ったんだ。今は、どこにいるか分からないけど、きっとここにも来ると思う。そのときは光姫さんに、「ごめんね」を言ってほしい」
――あなたは、光姫の彼?
「・・・・・・うん。正確には、元、だけど。光姫さんは俺を置いて、どこかへ行ったんだ」
――違うわ。あなたが光姫を置いて、先に行こうとしたのよ。光姫はそれが恐かった。そうでしょ?
「何で・・・・・・!!」
――何で分かるかって? それは、それだけが、私と光姫の唯一似ているところだったからよ。
朱葵と結姫は、話し続けた。
傍から見れば、朱葵が一方的に話し掛けているようにしか思えないけれど。
結姫は力いっぱいに唇を動かせて、朱葵と、会話していた。
――ねえ、私はずっと、眠っていたの?
「今は、2007年。結姫さんは、もう7年も眠っていたんだよ」
――そう・・・・・・。そんなに長い間、私はいろいろなものから目を逸らして、それでも生きてきたのね。
「結姫さん。今、何を考えてる?」
――たくさんあるわ。光姫はどうしてる? 7年間、何をしていたの? 愛は、私の赤ちゃんは、元気に成長している? まだ1歳だったのよ。
「結姫さん。愛ちゃんを残して、どうして自殺を図ったんですか?」
やっぱり子供は厄介で、親は、自分の都合でそれを平気で捨てられるのだろうか。
かつて、自分がそうされたように。
――愛はね、私の、最愛の子供なの。稜との間にできた命。キャバクラで働き始めたころ、お腹に赤ちゃんがいるって分かって。お金もなかったから、最初のうちはキャバクラで一生懸命働いて、だけど何ヶ月も経たないうちに、つわりがひどくて辞めたわ。でも無理が祟ったのかしら、予定日より1か月も早く、未熟児として生まれてきてしまった。
ユーキと樹が稜を訪れた警察病院で、稜が言っていた。結姫が稜を週3ペースで指名するようになったのは、キャバクラを紹介して半年後のことだった、と。
だけど本当は9ヶ月も後のことで、その間に結姫はこっそりと、愛を出産していたのだ。
「何で、稜さんには言わなかったんですか? 子供をひとりで産んで育てようなんて、どうして」
――だって、稜の重荷にだけはなりたくなかったんだもの。あのころ、稜が私のことを何とも思ってないってくらい、分かってた。でも、稜との赤ちゃんよ。その子を産まないなんて選択も、私には最初からなかったの。
「・・・・・・愛ちゃんは、ユー・・・・・・光姫さんが育ててました。今も、多分」
――そう、光姫が。じゃあ、良い子に育ってるのね。
「すごく良い子です。素直で、明るくて」
自分とは違い、親に対して非難も嫌悪も持っていない、愛。きっと、ユーキが愛情をいっぱい注いで育ててきたからなんだろう。寂しいときも、喜びを分かち合いたいときも、傍で。
もし、もっと早くユーキに会うことができていれば、自分も何か、変わっていたのだろうか。
ひとりでいることに慣れたりしないで、もっとずっと、強く、ユーキを求め続けていられたのだろうか。
――光姫に、会いたい?
「・・・・・・うん。今、すごく、ユーキさんに会いたい」
結姫は、朱葵が「ユーキ」と言ったのを、尋ねようとしなかった。
気づかなかったのかもしれない。
もう、分かっていたのかもしれない。
――ここにいてはだめよ。ここにいれば、そのうち会えるかもしれないけれど、光姫はきっと、逃げ出してしまうから。どこか、光姫が逃げることのできないところへ行って、そこで、待ってて。私が、光姫を連れて行ってあげるから。
「本当に? 絶対?」
――ええ、絶対。大丈夫よ、私は運がいいの。こうして、今生きていることが、証拠。
「そうですね」
朱葵はくしゃっと綻んだ皺をつくって、笑った。
――あなた、とてもいい顔をしてる。光姫にぴったりだわ。
朱葵は、病室を出た。
ユーキが逃げることのできないところ、なんて、ひとつしかないと、分かっていたから。
結姫は朱葵の背中を見送って、そのあと再び看護師が花束を持ってくるころには、また、深い眠りについていた。
7年前から、変わらない姿で。
あと10話以内に完結でございます。