143 フルムーン
「フルムーン」の前に立った朱葵は、扉に片手を置いて、乱れた息を、冷静に押し戻していた。これはピカピカ通りから全速力で走ってきたせいではなくて、久しぶりにユーキと会うことの緊張が、心を苦しくさせているからだった。
――落ち着け、俺。
胸に手を当てて、ふぅっと、息を吐く。どんな大役を与えられたときも、こんなに鼓動が脈打つほどの緊張はなかった。
今が人生で一番の正念場であると、朱葵は、感じていた。
「さぁ、行くか」
手の平にグン、と力を込めると、重い扉は開き、華やかなフロアが目に映る。
「いらっしゃいませ・・・・・・え?!」
青山朱葵が目の前に立っている。ボーイはそれに驚き、思わず叫んだ。一斉にフロアから視線が集まり、朱葵を知るキャバクラ嬢たちは、歓声を上げる。
「青山朱葵?! うそ!!」
「何でここにいるの〜!!」
お客として来ているマスコミ関係者たちも、朱葵のほうを見やり、顔を見合わせている。“今最も忙しい芸能人”と言われている朱葵がキャバクラにいるのは、何だか不思議な光景だったのだ。
「あの、ユーキさんはいませんか?」
朱葵は向けられる多くの視線を遮ると、ボーイに声を掛けた。ぐるっとフロアを見回してもユーキの姿はないし、ユーキだったら、飛び交う「青山朱葵」の言葉に反応して、やって来るはずだ。
「え、ユーキ・・・・・・?」
ボーイは不思議そうに呟く。
「ナンバーワンの」
「うちのナンバーワンは有紗さんですが・・・・・・」
「有紗?」
ユーキではない。聞いたことがない。それとも、「ユーキ」は「有紗」になったのだろうか。一瞬で、様々な考えが頭を過ぎった。
「何かあったの?」
そこへ、奥の席で接客をしていた有紗が騒ぎを聞きつけて、やって来た。
「有紗さん。いえ、ナンバーワンのユーキさんって人に会いたいと、この方が」
「ユーキさん?」
有紗は首を捻って、ボーイの後ろにいる朱葵を見た。
「青山・・・・・・朱葵・・・・・・?!」
「あなたが、ナンバーワンの有紗さん?」
と、2人は、お互いに疑問を投げる。
有紗は朱葵が、ユーキに会いに来たのだと気づいた。
「青山さん。ユーキさんは、ここにはもういません」
「え?」
「ユーキさんは、2年前にお店を辞めました」
「辞めた・・・・・・?!」
「やっぱり、知らなかったんですね」
朱葵は放心したまま、ぼんやりと頭の中で、考える。
「辞めた?」「2年前に?」「ここにいない?」
有紗の言葉がぐるぐると、交錯している。
「あの、今さらユーキさんに会って、どうするつもりだったんですか?」
と、有紗は、不意に尋ねる。
「お2人が付き合っていたこと、私、知ってました。ユーキさんが別れを告げたことも、樹さんから聞きました。でも・・・・・・2年も経っているのに、どうして今、会いに来たんですか?」
「どうして・・・・・・だろう。どうするつもりだったんだろう。分からない」
と、朱葵は、言った。
「だけど、会いたい。今さらなのも分かってるし、もう一度付き合いたいとか、そんな風に思っているわけじゃないけど。でも、会いたい。会って、言いたいことがあるんです」
有紗は朱葵をじっ、と見ると、後ろを振り向き、歩き出した。奥の席の、お客の元へと戻っていく。
すると、再び朱葵のところへ戻って来た。
「オーナー、すみません。あたし今日はこれで早退します。お客様の了解も頂いたので、お見送りしたら帰ります」
有紗はオーナーの制止を聞かず、お客とともに、外へ出て行った。その場に朱葵は残されたまま、しばらくして、有紗が戻ってきた。
「青山さん、あたしについて来てくれますか?」
「え? どこに・・・・・・」
「樹さんのところです」
朱葵は先を行く有紗につられて、あとをついていった。