142 もう迷わない
「あの、俺、帰ります」
と、朱葵は立ち上がり、言った。
「ああ、すまんね。長々と昔話をしてしまった」
秋山は膝を立てながら、くしゃっと髪を掻く。
「いいえ。良い話を聞かせてもらいました。俺は何も、分かっていなかったんですね」
「いや、そうじゃないよ。結局、私もあんたの彼女も、弱かったんだ。相手を信じていると思い込んでいながら、本当は、相手の気持ちが自分以外の何かに捕らえられて、いつか自分を見捨ててしまうことを恐れていたんだよ」
まもなく秋山は喫茶店を辞め、園の重荷になる前に逃げ出してしまったのだと言った。だけどそこから新たに夢に向かう気力もなく、それどころか園の存在を心の中から消すことができずにいるのだ、と。
もしかしたら秋山は、彼女に会うためにテレビ局の警備員をしているのかもしれない。朱葵はそう思ったけれど、秋山には言わなかった。それは本人でさえ気づいていない、無意識の行動のような気がしたのだ。
「秋山さんの彼女は、今も女優をしているんですか?」
秋山は朱葵に「彼女」と話していたが、「桜田園」の名前を、言わなかった。
「・・・・・・いや、芸能界には疎くてね。実はあんたの名前を聞いても、よく知らないんだよ。あんたは何をしている人なんだい?」
朱葵は、ふっと、笑みを漏らす。
「どうした?」
「あ、いえ。そういえばユーキさんも、芸能界に疎い人だったから」
そう言って、朱葵は、はっとした。
言葉にすることを恐れ、躊躇い続けた2年間。その、固く閉じられていた扉が、「ユーキ」の名を口にしたことで、するすると解かれていった。
「・・・・・・俺も、演技の世界に生きています。夢なんて初めはなかったけど、今は、ずっとこの世界でやっていきたいと、」
「ああ、そうなのか。彼女は、あんたがこの世界に夢を持ったことに気づいたんだね」
そうなんだろう、と、朱葵も、思った。だからユーキは突然離れていってしまったんだろう。
それ以外の別れの理由だっていくつも浮かんでいたけれど、朱葵は、ユーキの別れの理由はこれしかないと、確信を持っていた。
* * *
午前1時を過ぎて、朱葵は、六本木へと向かっていた。もちろん、ユーキに会いに。
会って、どうなるか分からない。むしろ、「樹と結婚する」と言っていたユーキに会っても、どうにもならないかもしれない。
だけど、ユーキがそう言ったことさえ、今はもう、自分のための決断のようにしか思えない。
もし、その通りだったら――。ユーキが樹との結婚を選んだのが、朱葵を忘れるためだったとしたら。
――もう一度、ユーキさんを抱きしめることができるかもしれない。
朱葵に迷いはなかった。
たとえ、ユーキが樹と結婚していたとしても。
――取り戻してやる。
失った多くのもの。ユーキをずっと好きだと言った過去の自分も、気づけなかった不安も、ユーキの愛も、すべて。
ユーキごと、取り戻してみせる。