141 答え
多くを望んだわけじゃなかった。
ただお互いが傍にいるだけで、幸せだった。
初めて言葉を交わし、初めてデートをして、とうとう恋人になったのが、3ヶ月後。日曜日の習慣は半年経って、園は、変わらず喫茶店に足を運んでいた。
「勝壱さん、おはようございます」
「園。今日も早いね」
初冬のある日曜日。この日もまた、園は7時きっかりにやって来て、いつもの席に座った。
「何かいいことでもあった?」
まもなくコーヒーを持って、勝壱は園の向かいの席へと座る。まだ開店したばかりのこの時間、窓の外には、疎らな人の数。園の他には、同じようにこの時間に来る常連客が2人いるだけ。その2人も、それぞれの時間を過ごしている。勝壱が仕事をサボっているのも、いつしかいつもの光景になっていた。
「分かります? 実はね、今度の舞台で台詞がたくさん貰えることになったのよ」
と、園は嬉しそうに話した。
女優をやっている、と秋山が知ったのは、初めて会話をした日に、園が握っていた冊子を何かと聞いたときだった。
「これね、舞台の台本なんです。台詞なんて一行、一言しか貰えていないんですけど、それでもいつかはスクリーンデビューしたいなって思うと、どうしてもやめられなくて」
そう言っていた園が、今、夢に向かって進み始めている。
――何だ、この感情。
夢を持った2人。ひとりだけが、夢を、現実にしようとしている。
残されたもうひとりは、取り残されていく。
夢にも、相手(彼女)にも。
* * *
「その舞台がきっかけで、彼女は夢のスクリーンデビューをした。ほんの一瞬だったけど、彼女の存在感は素晴らしかった。女優として、一気に階段を駆け上っていったよ。1段や2段なんてもんじゃなく、一番下からてっぺんまで、一跨ぎで飛んでいった」
秋山はそこで、ふぅっと一息ついて、コーヒーを啜った。朱葵も同じようにマグに口をつけると、温くなったそれが、苦く舌に残る。
「だめだなこりゃ。淹れ直すか」
秋山は口を歪ませ、もう一度コンロに火をつけた。
「喫茶店で働いてた頃はまだまともだったが、今じゃもうこのインスタントコーヒーの味に舌も肥えちまった。冷たくなったコーヒーでやっと不味さが分かる程度だ」
秋山の、歪んだ唇の片端が吊り上がる。
「どうして辞めたんですか? 喫茶店を持つことが、秋山さんの夢だったんですよね」
ジュウウウウ、と、鍋が声を上げる。秋山は火を消し、それをマグに入れると、一口だけ、熱そうに啜った。
「あんたの彼女は、キャバクラ勤めかい?」
「え? あ、はい」
「そうか・・・・・・」
秋山は感慨深く喉を鳴らし、唸った。
「あんたの彼女は私と同じだな。一番大切なものを、分かっている」
「一番大切なもの・・・・・・」
「あんたの大切なものは何だ?」
秋山は唐突に問いた。
「え、俺は・・・・・・」
「仕事かい?」
と、核心を突かれ、朱葵は思わず、絶句する。
「あんたは私の彼女と同じだ。一番大切なものが決められない」
その通りだった。仕事もユーキも大事で、だけど自分では決められなくて、結局、ユーキから別れを切り出されてしまった。けれどそれが、朱葵に夢をもたらした。
簡単だ。仕事とユーキ、残されたほうを選べばいいだけだったのだ。
「彼女が有名になっていくにつれて、そのうち喫茶店に来る暇さえ無くなって、会えなくなってしまったんだ。あの時代、携帯なんて便利なものはなかったからね」
朱葵は、自分とユーキの姿を重ね合わせた。あまりに似た境遇に、ユーキも秋山と同じ気持ちだったのだろうか、と、思う。
「それでも私はずっと待っていたけど、気づいたんだ。彼女の夢のために、私は身を引くべきなのかもしれない。いや、彼女の幸せが女優という仕事なら、私が身を引くのは当然だったんだ」
「彼女の傍で、支えようと思わなかったんですか」
「言っただろう? 私は、一番大切なものが分かっている。彼女の夢が私の夢であり、彼女の幸せが私の幸せだった」
こんなこと言ったら笑われてしまうかね、と、秋山は皺をつくって笑った。
朱葵は、やっと、気づいた。
“何で、別れた?”
答えはすぐ傍にあった。
“自分よりも、相手の幸せを願うほど、愛してしまったから”
それが答えだった。