139 昔話
「どうした? 何で別れたんだい?」
警備員が再度問いかけて、朱葵は、はっとした。
「あ、いや・・・・・・。俺にも、よく分からないんです」
「分からない? 何だい、それは」
「いえ、別れようって言ったのは、彼女のほうだったから・・・・・・」
「でもあんたもそれを受け入れたんだろう?」
「受け入れたっていうか、突然のことだったし、頭がついていけないうちに彼女は帰ってしまって」
「何でそこで追いかけなかったんだ?!」
「そんな・・・・・・こと、言われても・・・・・・」
朱葵と警備員のやりとりは初めから熱く、激しいものになっていた。というか、警備員の追及に凄味があって、朱葵はそれにつられるばかりなのだが。
「あの、どうしてそんな気にしてくれるんですか?」
朱葵は控えめに言葉を濁して、言う。
「あの夜、警備員さんのおかげで彼女と会えて、それはすごく感謝しています。だけど俺は一応芸能人だから、人にこういう話をしたくないんです。警備員さんが誰かにばらすとか、そう思ってるんじゃないけど。それに、もう2年も前の話を、俺も、思い出したくない」
そう。この2年、仕事に打ち込んできたといっても、まったく思い出さなくなったわけではない。東京に戻った日の夜は、思いも寄らないほどの孤独感に苛まれた。六本木を通るときは、無意識に、姿を探した。「ユーキ」の名を口にしなくなったのは、言葉にしてしまったら、今まで押さえ続けてきたユーキへの想いが、手のつけようがないくらいに自分を支配してしまうと、分かっていたからだ。
警備員は朱葵に言われて気づいたのか、「すまない」と、言った。
「一般人の好奇心、というわけじゃないんだ。いや、結局は、自分のエゴってやつかもしれない。あんたたちに、昔の私のような後悔はしてほしくない」
「え?」
朱葵が聞き返すと、警備員は立ち上がり、どこかへ向かおうとする。
「冬の夜は冷えるし、すぐそこに休憩室がある。もう何十年も前の昔話になるが、今のあんたたちのような恋愛の話だ。聞きたいなら、ついておいで」
警備員はちらっと振り返ると、朱葵が迷わず立ったのを見て、休憩室へと歩みを進めた。
テレビ局内にこんなところがあると、朱葵は初めて知った。地下駐車場へとつながる通用口の脇の、小さなドア。ロックを外すと、6畳ほどの部屋があるのだった。
「あんたたち芸能人はこんなところ素通りしていくけどな」
そう笑いながら溜め息を吐き、警備員はそこに、朱葵を招き入れた。
「着替えと休憩だけの部屋だ。こんだけあれば十分」
と言って、テーブルに置いてあったカセットコンロでお湯を沸かし始めた。給湯室は通用口の端にあるのだが、どうやらお湯の温度がものすごく温いらしい。眠気覚ましのために常備してあるというコーヒーをマグに入れる。
「芸能人が飲んでるようなものとは雲泥の差だがな」
そう言って渡されたそれは、熱くて、お湯の味しかしなかった。
「そういえば名前を言ってなかったな。秋山だ」
「青山朱葵です」
朱葵は頭を下げると、同じ目線の高さに胸ポケットの名札があって、「秋山勝壱」と書かれているのを見つけた。
「勝壱さんっていうんですか」
秋山は朱葵の目線を追うと、「ああ」と唇を片端だけ持ち上げて、窮屈そうに笑う。
「親父が、もう死んじまったが、『一番になるように』とか、『何事にも勝つように』とか、そういう意味でつけたんだ。結局、そんな風には育たなかったけどねぇ」
「そうなんですか?」
「ああ。それこそ若い頃、今のあんたくらいの歳には、自分を誇示したい気持ちが強くて、恐れも知らずにどんなことだってやったさ。だけどそれも短い間のことだった。少し大人になって、引くことを覚えたら、すぐそっちのほうを選んでしまった。今の私は、若い頃の後悔の姿だ。何も手に入れることができずに、過去を悔やんで未だに縛り付けられている」
秋山は、ゆっくりと、語り出した。
丸いテーブルの向かいに座った、自分よりも体の小さな警備員。だけどその姿勢は背筋がピン、と張ったように綺麗で、朱葵は、秋山が本当に長い間この仕事をやってきたのだと感じた。