137 別れの実感
物語の中で東堂が感情的になるシーンがあり、そこで「俺」という表現を使っています。普段は「僕」なので違和感があるかもしれませんが、東堂もたまには男らしいところがあります。ということで・・・
ユーキはドアに背を向けると、ベッドまで、走った。その様子を東堂は見ていて、だけど再び、ドアの向こうにいる朱葵に声を掛けた。
「明日はゆっくり休め。明後日から、一緒に頑張ろう」
「うん。おやすみ、東堂さん」
朱葵の部屋のドアが開き、閉まる音を聞くと、東堂はくるっと振り返った。その先にはユーキが、背中を向けて、立っている。
東堂は、歩いていく。ユーキに向かって。
「・・・・・・これが、あなたの選んだ結果?」
「・・・・・・そうです」
一歩、また一歩、ユーキと東堂の距離が、近づいていく。
「これが、あなたの幸せ・・・・・・?!」
「ええ」
「それならなぜ・・・・・・なぜ・・・・・・泣いてるんですか・・・・・・!!」
零れる涙。震える肩。どんなに声を押し殺しても、分かってしまう。不意に漏れる息づかいが、空気に溶け込んでいく。
「朱葵くんの前では、泣かなかったんです。いつもの『ユーキさん』のままで、弱いところなんて、見せなかった。だから、今だけは・・・・・・。今だけは、悲しませてください」
ユーキは、両手で口元を抱え込んだ。繋ぎとめていた脆い糸がぷっつりと切れてしまったように、涙は溢れ出して、絶え間なく、流れた。それでも声だけは、唇を噛みしめていたのか、漏れることはなかった。その分、震えは体全体を使って、小刻みに、大きく揺れていた。
東堂はユーキの後ろに立って、切ないその背中を、ぎゅっと、抱く。
「悲しまないでください。そんな姿、見たくない」
ユーキの体はすっかり冷えて、東堂はそれごと、ぎゅうっと、握り締める。
「とうど・・・・・・さん・・・・・・?」
震えが、止まった。いや、東堂はそれをも抱きしめ、“止めた”のだ。
「あなたは言ったんだ、俺が思っているよりも2人はずっと深く繋がってるって。俺はそれを、見ていたいと思った。2人の強さというものを、ずっと、見ていきたいと。でもそれを、あなた自身に打ち砕かれた。本来なら、俺は裏切られたと言ってもいい」
東堂の手が、肩から伸びて、胸元に当たっている。ユーキはそれを、振り払うことができなかった。背中に密着する東堂の体が、その手が、燃えるような熱を帯びていたから。
「でも俺は、あなたに対して怒りなんて持ってないし、裏切られたとも思ってない。なぜか――。それは、俺があなたを、守っていきたいと、幸せにしたいと思っているからなんだ」
ユーキを抱く力はさらに強く、熱く。
苦しいのは、ユーキか、東堂か。
「・・・・・・東堂さん。あなたは、あたしにとって『朱葵くんのマネージャー』なんです。あたしのことを想ってくれるなら、朱葵くんを守ってください。それが、あたしの幸せです」
東堂が朱葵を守り、朱葵が、この道を進んでいくことが、何よりの、ユーキの願い。
東堂はするりと腕を放し、言った。
「あなたはそれでいいんですか? 朱葵のために、自分が幸せになることを捨てて」
ユーキは振り向き、東堂の前に立つ。
「それが、朱葵くんの幸せなら」
迷いはもう、なかった。そうすることが朱葵の幸せに繋がるのだと信じて、自分を犠牲にして、ここまできたのだ。
「あなたはこれから、どうするんですか?」
「それは、男の人としての質問ですか?」
「いえ、朱葵のマネージャーとして、です」
ユーキは「それなら、」と切り出した。
「余計に言えません」
すると、東堂は、溜め息をついた。
「ああ、聞き方を間違えてしまった」
ユーキは薄く笑みをつくり、ちらっと、ドアのほうを盗み見た。
――朱葵くん、頑張って。
別れを決意しても、別れを告げても、どうしても言えなかった言葉。
ユーキはようやく、別れを実感した。
心ごと、それを受け入れた。