130 一室
次回の更新は作者の都合で21日になります。
仕事が終わった朱葵は、部屋に戻ろうとしていた。時刻は午後10時。夜の最終ロケは壮大なセットの中、大変なものだったので、夕食を取らずに寝てしまうつもりだった。
「東堂さん。明日何時だっけ」
17階の部屋に向かうエレベーターの中で、朱葵は東堂に尋ねる。
「ああ、それなんだが。明日の撮影は休みになった」
「え、何で。あと少しじゃん」
「今日は大変だったし、残りは1日みっちりやれば撮り終えられるらしいからな。今みたいにぐったりした顔で撮影するよりいいだろうって」
「ふ〜ん。分かった」
と、エレベーターが17階に着いた。
「ユーキさん。撮影は夜遅くまでかかるから、あなたは先に朱葵の部屋に行っていたらどうですか?」
清水寺で、東堂はユーキにカードキーを渡し、ホテルと、部屋を教えた。
「あなたがもう決心しているのなら、どうぞ。ただし、部屋の中に入ったら、もう逃げられませんよ」
そう言って、ユーキの心を崩そうとした。
だけどユーキは、薄く笑みを浮かべてそれを受け取ると、足早に去ってしまった。まるで、朱葵に見つかってしまわないように、人影に、自分の存在をひっそりと忍ばせて。
東堂は予感していた。ユーキはきっと、部屋の中にいる、と。帰って来なければいい。そう思いながらも、「ピー」と、ロックが外れる音を待っているのだろうと。
「東堂さん、降りないの?」
はっとすると、東堂はエレベーターの中で立ち往生していた。
「いや・・・・・・。朱葵、お前、先行ってろ。俺は監督に話があった」
と、東堂は言った。
「分かった。あ、俺もう寝るから。じゃあね」
「ああ」
朱葵が後ろを向いて、、東堂はボタンを押す。扉がガアッと閉まる寸前、東堂は「あ・・・・・・」と、小さく漏らしたが、遠ざかる朱葵には聞こえるはずもなく、声は、17階の廊下に残された。
ひとりぼっちになって消えそうな声が、叫んでいる。
「部屋に向かうその姿を、引き止めたい。『行ったらだめだ』と、肩を掴んで無理矢理、どこかへ連れ出したい」
――今日はここに戻って来れないな。
東堂は1階に着くと、ホテルを出て行った。
* * *
17階の一番奥、「1797」が朱葵の部屋で、東堂の部屋が、斜め右の「1713」。こんなに近いのに、部屋の番号はずいぶん違う。それにどんな理由があるのか、もしくは、どこにも理由なんてないのかは、分からない。この階に他の宿泊客はいなく、共演者たちも、それぞれ別の階を貸切状態で使っている。
「何で一番奥なんだろ」
撮影で疲れて帰ってきたとき、朱葵はよくこの言葉を漏らす。部屋数が多いので、自分の部屋にたどり着くまでが長いのだ。
「でもこれで、もうすぐ撮影が終わる」
撮影が終わるのは寂しいけれど、それと引き換えに充実感と手応えを手にすることができる。もちろん、成長という喜びは、もう掴んでしまった。
――東京に戻るのが楽しみだ。
新しい仕事が待っている。映画の完成も待っている。
自分を、待っていてくれるものがある。
――ユーキさんもきっと、待っていてくれる。
清水の舞台で見つけたユーキの姿。いつの間にか消えてしまっていた“それ”は、幻だったのだろうか。
だけど“それ”は、朱葵に、ユーキへの気持ちを想い起こさせた。東京に戻ればユーキに会えるのだと、朱葵は、すっかり思い込んでいた。
自分のこれまでの愚かさは、どこかへ行ってしまったまま。
ポケットからカードを探り、通す。「ピー」と、細々とした機械音が小さく鳴って、部屋のドアを開ける。
「ん?」
いつも通りの行動の中に、どこか、違和感を感じる。
朱葵は思わず、部屋のプレートを確認した。
“1797”
確かに自分の部屋だ。
「合ってるよな」
どうしても拭いきれない違和感は杞憂だということにして、朱葵は、ドアを閉めた。
いつもと同じ部屋。いつもと違う、密室。