113 ユーキの不安
さらに1週間が過ぎたころ、京都では、ユリの撮影がすべて終了した。
「朱葵さん、いろいろと迷惑をかけてごめんなさい」
あの熱愛報道は、結局、双方の事務所が「事実ではない」こと公表して、治まった。けれどそのおかげか、映画への注目度が増したのは確かで、取材陣はさらに増えていた。
「でもあたしは朱葵さんのことが好きだから、正々堂々と頑張ります。先に東京で待ってます」
ユリもこの騒動で、少しは有名になったらしい。このあとも仕事が詰まっているのだと言った。
「ちょっと、真咲さん」
困惑した様子の朱葵を、ユリはふふっと笑い、京都を去った。
映画の撮影に入って、2か月。撮影は順調に進んでいるから、このままいけば、あと1か月ですべて終わる。朱葵にはそれが、寂しく感じられた。
こんなに演技に没頭できたのは初めてだった。きっとこの映画で、朱葵は、若手俳優たちの群を抜いた存在になるだろう。
映画のあと、今以上に忙しくなることは、朱葵にも分かっていた。それこそが自分の望む未来なのだと、思い込んでいた。
ユーキがどんな気持ちを抱え、どうしようとしているのか、知らないで。
* * *
東京、金曜日の夜。午後9時を回ったころに、樹が来店した。
「ごめんね、無理言って」
「いや、分かってたよ。そろそろ電話が来るか、マンションに来るか、って」
ユーキは樹を迎えると、早速樹が取り出したタバコに火をつける。
「分かってた?」
と、ユーキが尋ねる。
実は今日の朝、ユーキは樹に電話を掛けていた。
「話があるの」
そう言うユーキに、樹は「仕事が休みだから店でゆっくり聞く」と、返したのだ。
「そういえば、何で仕事休みなの?」
金曜日は大抵忙しい。夜の世界は皆同じだ。だから樹もユーキも、金曜日にはなかなか休めないはずだった。
「どうせまた俺に頼ってくるんじゃないかって思ったから、休み貰ってたんだよ」
「え?」
「お前、何かあるとすぐ俺のトコ来るもんな。いつものパターン」
運ばれてきたボトルを樹が取り上げ、器用に栓を抜く。タバコを咥えながら片手でグラスに注ぐ姿は、豪快で、恐れがないという一面を表しているみたいだった。
「樹には何も敵わないわ」
ユーキはグラスをひょいと掴むと、それを斜めにして一気に口の中に入れた。
「おいユーキ。一気に入れたら酔いが回るぞ」
「いいわよ。もしあたしが動けなくなったら、樹が連れて帰って」
ユーキがボトルに伸ばした手を、樹が捕らえて、言う。
「馬鹿。お前、あんまり俺に頼るな。朱葵がいるだろ。そいつに頼れ」
「いないわよ」
ユーキは尚も手に力を込めて、樹からボトルを取り上げようとする。が、叶わずに、結局、ボトルからするっと腕を引いた。
「朱葵くんはいないの。もう、朱葵くんはあたしを必要としていない」
空になったグラスに指をつけ、弾くと、カチン、と、透き通った音が鳴った。ユーキの長い爪は、カチン、カチン、と、同じ動作を繰り返す。
「最初から分かってたの」
カチン、カチン、カチン、カチン、・・・・・・
「あいつが浮気してるかもしれないから?」
グラスの音が止む。
「知ってたの?」
「お客から聞いた」
「そう」
ユーキは一旦樹を見て、それから目を伏せた。
「そんなこと、気にしてないわ」
と、ユーキは言った。
「朱葵くんね、孤児なの。ずっとひとりぼっちだったって、言ってたわ。親なんてどうでもいいって」
だけど心の中ではきっと、本能的に、求めていた。親の愛情の代わりでもいい。何か、自分が大切に想い、大切に想われるものを。
「朱葵くんが本当に求めているのは、あたしじゃないのかもしれない。もっと別の・・・・・・“何か”なのかもしれない」
ユーキは樹をじっと見つめると、言った。
「ねぇ樹。あたし、もう、朱葵くんのことを考えることさえできないの。あたしだけが想い続けてるような気がして。まるで、お姉ちゃんみたいね。1人の男に溺れて、どうしようもなく愛してしまって、裏切られて・・・・・・。あたしもお姉ちゃんみたいに、死にたいと思うようになるのかな」
樹は、ユーキが、結姫と同じ瞳をしていることに、気づいた。
樹が結姫と最後に会ったときと、同じ。
結姫が自殺を図った前日。